さらにガンガジの言葉。
「問題は、どこかへ行こうとする試みはみな、結局のところ、あなたはまだそこに到達していない、と示唆しているということです。実際、どこかへ到達するためにあなたがする行為も、常にそこに完全に実現しているものをあなたが最も深いところで認識するのを邪魔しているのです。」p144
「もしも精神的な修練が理性の活動を止めるのに役立つなら、それはあなたの強い味方です。
でももしそれによってあなたが、自分はまだここにはないと信じている何かを得るために、ある特定の修練を行っているある特定の人間だ、という思い込みを強めるように作用するなら、それは邪魔になります。その結果あなたは自分自身のまわりをぐるぐる回り続け、あなた自身の中へと理解を深めていくことができないでしょう。」p145
サティは、何かを得るための特定の修練として行われる場合もあるだろう。しかし、不思議なことに瞑想中そういう意識が強いと、猛烈な想念・思考に悩まされる。ところが、「ある特定の修練を行っているある特定の人間だ、という思い込み」に気づき、そこにサティが入ると、猛烈な想念から解放される。
以上は、ヴィパッサナー瞑想の10日間合宿で何回か、いやと言うほど体験したことである。
私たちは、時間の中に「自我」として迷っているゆえに、求道心と目的意識ももつ。今に満たされず、今にない何かを未来に求める。そういう満たされない「自我」としてサティを始め、行い続けるのだが、同時に、サティは、満たされない「自我」とその渇愛にも向けられていく。
時間の中に生きる「自我」は、時間の中で何かを求めてサティを行うが、一方サティは、求める「自我」の働きに気づいて行く。
サティは、理性(思考)の活動を止めるのに役立つ、素晴らしい「精神的な修練」であろう。
「問題は、どこかへ行こうとする試みはみな、結局のところ、あなたはまだそこに到達していない、と示唆しているということです。実際、どこかへ到達するためにあなたがする行為も、常にそこに完全に実現しているものをあなたが最も深いところで認識するのを邪魔しているのです。」p144
「もしも精神的な修練が理性の活動を止めるのに役立つなら、それはあなたの強い味方です。
でももしそれによってあなたが、自分はまだここにはないと信じている何かを得るために、ある特定の修練を行っているある特定の人間だ、という思い込みを強めるように作用するなら、それは邪魔になります。その結果あなたは自分自身のまわりをぐるぐる回り続け、あなた自身の中へと理解を深めていくことができないでしょう。」p145
サティは、何かを得るための特定の修練として行われる場合もあるだろう。しかし、不思議なことに瞑想中そういう意識が強いと、猛烈な想念・思考に悩まされる。ところが、「ある特定の修練を行っているある特定の人間だ、という思い込み」に気づき、そこにサティが入ると、猛烈な想念から解放される。
以上は、ヴィパッサナー瞑想の10日間合宿で何回か、いやと言うほど体験したことである。
私たちは、時間の中に「自我」として迷っているゆえに、求道心と目的意識ももつ。今に満たされず、今にない何かを未来に求める。そういう満たされない「自我」としてサティを始め、行い続けるのだが、同時に、サティは、満たされない「自我」とその渇愛にも向けられていく。
時間の中に生きる「自我」は、時間の中で何かを求めてサティを行うが、一方サティは、求める「自我」の働きに気づいて行く。
サティは、理性(思考)の活動を止めるのに役立つ、素晴らしい「精神的な修練」であろう。
ガンガジさんのいうことに同感です。
グルグルと自分の周りばかり回ってる。全て自我を
通して何かをしていたということです。こんなことしてたら一生らちがあかない・・・・。
で、修行の原点は今、ココに生きる正念にあると思います。一気に瞬間に生きる状態(正念)にならなきゃならない、そしてそれを相続する(正念相続)だから、「今、瞬間に生きる」状態が最低課題であって、
それが出来なきゃ意味がないということです
(と、・・思う)そこからようやく修行が始まるようなものではなかろうか。
徹底しないと単なる自我の遊技でしかない。
ところが、坐禅はこうするのだ!をみるとその正念の着眼までは何とか教えてくれているみたいです。
これが興味深いところです。
>全て自我を通して何かをしていたということです。こんなことしてたら一生らちがあかない・・・・。
ということで、クシャトリアさんは、何とか必死に覚醒を得ようとしておられる。
私には、恐らくそれほど何とかしようという必死の求道心はありません。
一生らちがあかなくとも、それはそれでいたしかたない、自分がまだそこまで熟していなかったということだから。と、まあ、そんな感じでおります。自分にできる範囲で、こつこつやって行こうという程度のものです。
「座禅はこうするのだ」は、たいへん興味深かったし、参考になりました。続編も読んで見る気でいます。
しかし、井上希道老師に参禅しようという気持ちにはなれません。私には、厳しすぎる、という感じでしょうか。
何を選ぶか、どんな修行法を行い、どんな師につくかというこは、結局、その人その人の縁や歩んできた長い時間によって、自ずと決まってくるのでしょうね。
コメントは、どうぞ遠慮なく、してください。
実はこの夏から誘われてmixiに入り、そちらの日記でも同じ内容をアップしています。mixiの方は、結構コメントを下さる人が多いです。
>私には、厳しすぎる、という感じでしょうか。
自分が思うがままに生きることが最も幸せです。
僕もnoboruさんも考えが違うので道もやり方
も違って当然ですよ。
応援してますよ(^^)
道が拓かれて、行きますよう!!
「ガンガジ」で引っかかって突然おじゃまします。
希道老師が厳しすぎると感じるなら、松崎義雄さんという方が4冊ほど本だしてますがご存知でしょうか?
どれも友人との対話形式で書かれていて、空の気づきに到る初心からの方法も書かれています。少林窟とも共通するし、ひょっとしたらそこで書かれた方法は独習の方でもわかりやすく効果が出るのではと。。。
ガンガジさんの言う探求すらもストップしたところに一気に気づかせるための、禅独特の言い回し「あなたは悟れない!」なんて、問答も出てきます。
そこのところを玄侑さんて方は「ないがまま」なんて造語で表現しています。
おじゃましました。
松崎義雄さんという方、始めての名前だなと思いつつ、Amazonで調べてみました。書かれた本の中に
「哲座教室」というのがあって、アッと思いました。
おそらく20数年前に、この本を買って読んだ覚えがあります。しかし、何が書かれていたかほとんど記憶がありません。その時は、それほど印象に残らなかったのかもしれません。
どんなことが書かれていたのか、今読むと全く違う受け取り方ができるのではないかと思い、手に入る2冊の本をさっそく注文して見ました。読むのを楽しみにしています。
ご紹介、ありがとうございました。
松崎義雄で検索すると同姓同名?いっぱい出てきますね。ごめんなさい。もう少し補足。
こちらの手持ちの4冊は
「禅の現代化-観照の方法」
「禅の限界を超えて」
「悟りに到る 漱石とブッダを読みながら」
以上 水書房
「<空>を楽しむ」
以上 リーベル出版
です。ご注文されたものとあたってればいいですが。。。
また、エックハルト・トール氏はご存知ですか?
私の友人 - 勧めたら一度だけ少林窟行ってくれたけど、やっぱ日本的きついやり方は合わないかなって感じだった人 - にも好評だったので、ちょっとご紹介しておきます。
トール氏は悟った後、思考が80%だか90%だか削減された感じで、いつも体のエナジー感覚にいる。ってインタビューで答えてます。そこから体のエナジー感覚にいるという彼の方法が出てきたようです。
彼の日本語の本では1冊目のPower of Nowの翻訳本(「悟りをひらくと~」みたいなくさい邦題でした)だけで十分と思います。
それよりもしも、英語がある程度聞き取れるなら(わりと聞き取りやすいイギリス英語)Eckhart Tolle / The Realization of Being -
A Guide to Experiencing Your True Identity
という講話CDが、実際に彼の方法(体のエネルギー感覚に意識をおく。言葉と言葉間のギャップを聞くなど)で誘導しながら話を進めていくので、実体験を求める人には本読むよりいいのではと。
これはたしかSounds Trueという出版社から3講話セットみたいなので購入しました。Amazonでも手にはいるか不明。最近は瞑想リトリートのDVDなんかもあるようです。
このエックハルト・トール氏が別の講話の最中にWho you really are.というKirtanaという人の歌(サンプルがネットで聞けるかな?)をかけてて、この人がガンガジのお弟子さんだったので、このあたりの検索に引っかかって、ここにおじゃましたしだいです。
個人的には、もつれを直接あつかうガンガジさん系統より、とりあえずこれやってみなよ的でしかもソフトなトール氏の方が合う人は多いのではという気がします。(それと禅の独習だったら松崎氏。。)
呼吸であれ、体の感覚であれ、音であれ、より繊細な「事実」に気づいていこうとすれば、心は自ずと沈黙に向かうようです。
そうしてゆだねどころが見えてきて、ああだこうだの探求心より勝る時間が多くなってきたら、正しい方向に向かっている感じも出てくるといったところでしょうか。
そのあたりを入り口としたいろんな方法がありますが、頭で考えてこれが適切な方法だからと無理矢理そこに合わせるより、Noboruさんの言うとおり、その人に合った方法って自ずから決まってきて、そういうのが長続きすると、僕も思います。
ひょっとして余計なことだったかもしれません。
前後関係を知らずに会話の途中で飛び込み、失礼があったらお詫びいたします。
ではでは。
Toru Koyama (Sw.Chetan Ishu)
私が注文したのは、現在品切れになっていない、
「禅の現代化-観照の方法」
「禅の限界を超えて」
の二冊です。同じ著者に「哲座教室」があり、これは1977年の作品です。これを読んだ記憶があり、青い表紙の小冊子だったのですが、いまはどこにあるのやら、どこかの書棚でしょうが探し出すもの大変です。
エックハルト・トールは大ファンです。トールの講話テープももっていますが、ご紹介いただいたのとは違うかもしれませんね。
エックハルト・トールのことをこのブログに書いているときに、読者の方が、ガンガジのことを教えてくれたのでした。
これも何かのご縁かもしれません。また何か情報がありましたら、お教えください。
ありがとうございました。