昨日、限りなく連想を生んでいく「無明」の力について書いた。「無明」という言葉は、私たちを突き動かす深層の闇を示唆するような印象を与える。
今日は、サティはさっぱりだった。ドアの開け閉めなどでもちっともサティに心が向かない。やろうとしてもおざなりになる。帰りの歩きは少し気持ちを引き締めてと思ったが、歩き始めてすぐに同僚の車に拾われて駅まで。
昼食が少なかったので、乗り換え駅で回転寿司屋に入ったあたりから、完全に投げやり。サティなどさっぱり忘れたい気分だった。ところが、食べ過ぎたこともあって、いつもとは別の駅で下車して20分ほど歩く気になる。サティに再チャレンジという気持ちもあった。
やはり思考がちらほら出るのを意識しながら歩く。ちょっと前の想念の連鎖が、もう即座には思い出せない。何らかの理由で記憶に残る思考以外は、ほとんど忘れ去られていく。確認すれば、今、何を考えていたか意識できるが、あえてそれをしなければ、考えた先から消え去っていく。それが日常の思考の実態だ。その意味でも私たちは、半分無自覚の思考に支配されているのだ。
もし脳に浮かぶ一切の思考を記録しておけるような装置があって、自分の一日の思考を完璧に振り返ることができるならば、おのれの「自我」の構造を見渡すことができるだろう。サティは、それを「人力で」一瞬一瞬行っていく作業なのだと思っている。それを徹底的にやるのは、かなり辛いだろうが、「自我」と「思考」の無明が、いやというほど見えてくるだろう。そして、その作業は「自我」を超えていく道につながるだろう。
歩きながら、いかに他愛もない想念の連鎖が続くか、自分の思考の流れで例を拾って見ようと思った。そうやって身構えると、なかなか想念の連鎖が続かない。
そのかわり、単発の想念や思考、それにまつわるいくつかの気づきがあった。今日、印象に残った何人の同僚との会話や、視線のやりとり、そお時は気づかなかった、自分の一瞬の感情の揺れへの気づき等々。
今日は、サティはさっぱりだった。ドアの開け閉めなどでもちっともサティに心が向かない。やろうとしてもおざなりになる。帰りの歩きは少し気持ちを引き締めてと思ったが、歩き始めてすぐに同僚の車に拾われて駅まで。
昼食が少なかったので、乗り換え駅で回転寿司屋に入ったあたりから、完全に投げやり。サティなどさっぱり忘れたい気分だった。ところが、食べ過ぎたこともあって、いつもとは別の駅で下車して20分ほど歩く気になる。サティに再チャレンジという気持ちもあった。
やはり思考がちらほら出るのを意識しながら歩く。ちょっと前の想念の連鎖が、もう即座には思い出せない。何らかの理由で記憶に残る思考以外は、ほとんど忘れ去られていく。確認すれば、今、何を考えていたか意識できるが、あえてそれをしなければ、考えた先から消え去っていく。それが日常の思考の実態だ。その意味でも私たちは、半分無自覚の思考に支配されているのだ。
もし脳に浮かぶ一切の思考を記録しておけるような装置があって、自分の一日の思考を完璧に振り返ることができるならば、おのれの「自我」の構造を見渡すことができるだろう。サティは、それを「人力で」一瞬一瞬行っていく作業なのだと思っている。それを徹底的にやるのは、かなり辛いだろうが、「自我」と「思考」の無明が、いやというほど見えてくるだろう。そして、その作業は「自我」を超えていく道につながるだろう。
歩きながら、いかに他愛もない想念の連鎖が続くか、自分の思考の流れで例を拾って見ようと思った。そうやって身構えると、なかなか想念の連鎖が続かない。
そのかわり、単発の想念や思考、それにまつわるいくつかの気づきがあった。今日、印象に残った何人の同僚との会話や、視線のやりとり、そお時は気づかなかった、自分の一瞬の感情の揺れへの気づき等々。
もし、お暇があれば、「続・坐禅はこうするのだ」を読まれてみてください。今度は参禅者(3名)側からの体験を載せている参禅記です。どうせネットで読んだ内容だし、と買っても放って置いたものですが、前書以上に読ませる内容でした。
和尚のチョイスがとても良い3名の参禅記。最初の人はインドまで行ってビパッサナ瞑想も体験ある人。
次は主婦企業家。最後は自然科学者の参禅記ですが、最後の科学者の参禅記は唸らせる内容で、Noboruさんにはかなり興味深い内容のはずです。
この2冊で一冊の意味合いがあると断言できます。
気がむいたら読んでみてください。
ぜひ、読んでみましょう。
そして、感想は、またここに書かせていただきます。
『座禅はこうするのだ』の感想も、まだ終わった
というわけではなく、そのうち、ふと、
言葉の引用とともに、書き添えるかもしれません。
瞑想合宿は、確かに待ち遠しいですね。
本当は、正月も行きたいのですが、
諸般の事情で、それもできません。