◆忠告
これまで数回の瞑想合宿の体験から、瞑想そのものに無意識的なものを浮上させる働きがあるという実感はあった。その働きは、禅宗の座禅でも、ヨーガの瞑想でも、瞑想である以上は共通にもっているだろう。何かに集中すれば思考は多少とも抑えられるから無意識的なものが浮上しやくなる。
しかし、深い層から浮上してきたイメージや感情に対して、これほど統合された仕方で適確に対処していく方法が、ヴィパーサナー瞑想以外にあるのだろうか。たとえあったとしてもサティという手段を持たないかぎり、きわめて一面的なものになるのではないか。
腹の動きや足裏感覚のようなセンセーションにサティが保たれる。身体感覚へのサティが深まれば自我の働きが抑えられて心の深層への扉が開かれやすくなる。一方、集中が乱れて妄想が出現したとしても、それはそれでサティがなされる。妄想に対してサティが持続されれば、その根元にある執着へと洞察を深めるチャンスとな。どちらにせよサティが保たれていれば、深い洞察への道に通じている。
さらに、センセーションへの集中が深まれば深まるほど、自我の働きは抑えられて、より深い層からイメージが浮上する可能性が高まるだろう。そこでもまたサティは力を発揮する。
先生はいう、「客観化、対象化することがサティの本質だから、そのサティがピュアに保たれているときには、たとえ一時的であれ、エゴ性は弱まる。エゴの裁量は抑えられ、深い無意識から浮上するような、エゴに不利な情報でもしっかりと捉えられる。
エゴが必死で隠し、抑圧していて見たくないものは、エゴ性が強ければ浮上しない。徹底的な客観視の態度を貫いて無意識の世界を追求していけば、自我意識やエゴ性が根底からくつがえされるものだって出てくる可能性がある。
ラベリングなしでサティをずっと保つのはかなりむずかしい。興味をそそられるイメージがチラッと見えたようなとき、エゴが強まってサティを忘れ、エゴの範囲を一歩もでない探索で終わってしまうこともある。あるいは、エゴがいかにも満足するようなストーリーが出てきて終わりになる。エゴの範疇内でやっているかぎり、本当にエゴを超越するような仕事ができるわけがないのです。」
以上は、「今の石井さんの状態だったらちゃんとラベリングに頼って、絶対にサティが壊れない状態でやった方がいいでしょう」という忠告の言葉でもあった。
これまで数回の瞑想合宿の体験から、瞑想そのものに無意識的なものを浮上させる働きがあるという実感はあった。その働きは、禅宗の座禅でも、ヨーガの瞑想でも、瞑想である以上は共通にもっているだろう。何かに集中すれば思考は多少とも抑えられるから無意識的なものが浮上しやくなる。
しかし、深い層から浮上してきたイメージや感情に対して、これほど統合された仕方で適確に対処していく方法が、ヴィパーサナー瞑想以外にあるのだろうか。たとえあったとしてもサティという手段を持たないかぎり、きわめて一面的なものになるのではないか。
腹の動きや足裏感覚のようなセンセーションにサティが保たれる。身体感覚へのサティが深まれば自我の働きが抑えられて心の深層への扉が開かれやすくなる。一方、集中が乱れて妄想が出現したとしても、それはそれでサティがなされる。妄想に対してサティが持続されれば、その根元にある執着へと洞察を深めるチャンスとな。どちらにせよサティが保たれていれば、深い洞察への道に通じている。
さらに、センセーションへの集中が深まれば深まるほど、自我の働きは抑えられて、より深い層からイメージが浮上する可能性が高まるだろう。そこでもまたサティは力を発揮する。
先生はいう、「客観化、対象化することがサティの本質だから、そのサティがピュアに保たれているときには、たとえ一時的であれ、エゴ性は弱まる。エゴの裁量は抑えられ、深い無意識から浮上するような、エゴに不利な情報でもしっかりと捉えられる。
エゴが必死で隠し、抑圧していて見たくないものは、エゴ性が強ければ浮上しない。徹底的な客観視の態度を貫いて無意識の世界を追求していけば、自我意識やエゴ性が根底からくつがえされるものだって出てくる可能性がある。
ラベリングなしでサティをずっと保つのはかなりむずかしい。興味をそそられるイメージがチラッと見えたようなとき、エゴが強まってサティを忘れ、エゴの範囲を一歩もでない探索で終わってしまうこともある。あるいは、エゴがいかにも満足するようなストーリーが出てきて終わりになる。エゴの範疇内でやっているかぎり、本当にエゴを超越するような仕事ができるわけがないのです。」
以上は、「今の石井さんの状態だったらちゃんとラベリングに頼って、絶対にサティが壊れない状態でやった方がいいでしょう」という忠告の言葉でもあった。
しかしながら、心構え正しき、いとも聡明なる人は、決して正しい道を逸れることがない。 かれの明知が、正しい道を踏み外させないからである。 そしてそれは、誰に頼ることなく、誰に何をてらうことなく見いだされるものである。 人は、そのようにして円かなやすらぎへと到達する。
こころある人は、まさしくそのようにしてやすらぎに至れかし。
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