◆泡沫のような思考
日常生活の中では、様々な思考が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。そのほとんどは直後に記憶のかなたに消え去っていく。しかし、そういう無数の思考の集積が、「私」を形作っている。
瞑想をし、サティをしていると、そういう浮かんでは消える泡沫のような思考が、はっきりと捉えかえされる。とりとめもない思考が、どこから出てくるのかも自覚される。私の場合、その多くが元を正せば「自我」の優劣意識に根ざしているような気がする。「自我」の不安に根ざす無数の思考が流れに浮かび出ては、消えていく。
そういう思考が、サティによってそのつど自覚化され客観視されると、「自我」もまた、客観視され相対化される。「私は私だ」と思っているこの「私」がいかに根拠のない、泡のようにはかないものかが、少しずつ分かってくる。現実には、「私」にしっかりとしがみついていても、サティによって思考が自覚化されればされるほど、「私」もまた思考とともに消えていくものであることが、少しずつ実感されるようになる。
◆かすかな夢
瞑想中に昨晩の夢を思い出した。ささいな夢だった。生徒たちを募ってグループを作り、ある活動をしようとしていた。集まってきた生徒たちに連絡をしているとき、一人の生徒に「Aちゃんを忘れているよ」といわれた。「Aは、確かグループに入っていなかったはずなのだが」と思いつつ、「私が忘れてしまっただけなのか」と不安で、必死になって思い出そうとしていた。そんな夢だった。
瞑想していなければ、思い出すこともなかった夢かもしれない。現実には、Aはそのグループに参加していなかった。しかし、現時にAをグループに誘うことに何か意味があるのかも知れないと思った。
日常生活の中では、様々な思考が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。そのほとんどは直後に記憶のかなたに消え去っていく。しかし、そういう無数の思考の集積が、「私」を形作っている。
瞑想をし、サティをしていると、そういう浮かんでは消える泡沫のような思考が、はっきりと捉えかえされる。とりとめもない思考が、どこから出てくるのかも自覚される。私の場合、その多くが元を正せば「自我」の優劣意識に根ざしているような気がする。「自我」の不安に根ざす無数の思考が流れに浮かび出ては、消えていく。
そういう思考が、サティによってそのつど自覚化され客観視されると、「自我」もまた、客観視され相対化される。「私は私だ」と思っているこの「私」がいかに根拠のない、泡のようにはかないものかが、少しずつ分かってくる。現実には、「私」にしっかりとしがみついていても、サティによって思考が自覚化されればされるほど、「私」もまた思考とともに消えていくものであることが、少しずつ実感されるようになる。
◆かすかな夢
瞑想中に昨晩の夢を思い出した。ささいな夢だった。生徒たちを募ってグループを作り、ある活動をしようとしていた。集まってきた生徒たちに連絡をしているとき、一人の生徒に「Aちゃんを忘れているよ」といわれた。「Aは、確かグループに入っていなかったはずなのだが」と思いつつ、「私が忘れてしまっただけなのか」と不安で、必死になって思い出そうとしていた。そんな夢だった。
瞑想していなければ、思い出すこともなかった夢かもしれない。現実には、Aはそのグループに参加していなかった。しかし、現時にAをグループに誘うことに何か意味があるのかも知れないと思った。
私も自分の日記に書かせていただいたことがありますが、
ヴィパッサナーのサティを丁寧に行っていると、この現実の世界で展開している人生が、実は全て自身の意志(チェータナー)で選択していたものだと気づいたりしますよね。同じように夢の中でのストーリー展開も、いかに奇抜でトンデモないような感じがしても、実は現世の場合と同様、自身の選択で夢のストーリーは展開しているようなのです。だから、「Aさん」を登場させたこと自体が、ひょっとしたらNoboruさんが意図して書いたストーリーだったのかも知れませんね。
一方で、そういう私の表面的な思いと、もっと深いところの何かが共鳴しあって、見られた夢かもしれません。その辺は、様々な可能性を否定せず、開かれた態度で、夢に接していきたいと思っています。