瞑想と精神世界

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覚醒・至高体験をめぐって25:  (4)自己超越⑤

2010年08月26日 | 覚醒・至高体験をめぐって
《浄土宗僧・原青民》

つぎに挙げるのは、原青民という浄土宗の僧侶の体験である。彼は、肺病にかかり、かかりつけの医者にあと五年しか生きられないといわれ、非常に悩んだという。そのうち、大正の法然上人と称された弁栄聖者(べんねいせいじゃ、1859~1920)に出会い、その感化で毎日のように念仏を唱えるようになった。 その時の体験である。

『ある晩、一心に念仏を申しながら自分と自分を取り巻いている万物との関係を考えていました。ところが念仏を唱えているうちに突然なにもなくなってしまいました。 自分のたたいている木魚の音も聞こえません。周囲の壁もなければ、天井も、畳もありません。

すきとおった明るみもありません。色も見えなければ、重くも、軽くもありません。自分のからだすらありません。まったく無一物になってしまって、ただあるのはハッキリ、ハッキリだけになりました。はっきりした意識だけがあった、意識内容はまったくなくなってしまったわけです。

しかししばらくして平常の自分にもどり、その晩はそれで寝てしまいました。ところが翌朝目がさめて、庭から外を見ていると、変で変でしかたがありません。きのうまではいっさいのものが自分の外に見えていたものが、けさは自分の中に見えています。それはつぎの日もかわりませんでした。』(佐藤幸治『禅のすすめ (講談社現代新書 27)』)

この体験によって彼は、「いっさいが自分の心であり、いっさいの活動が自分の心の働きであることがわかってきて」、この大宇宙そっくりが真実の自己であると自覚されたという。そして、もう本当の自分は死なないのだという実感に至り、深い安心を得ることができたという。

「外に見えていたものが、自分の中に見える」という不思議な経験は、他の体験者にも見られる。たとえば気功家・島田明徳氏は、立禅による気功の修練中に、自分の意識が飛躍的に拡大する体験をし、次のように語る。(なお、島田明徳氏の事例は、後に気功家やヨーガ行者の身体的な変化に伴う事例を考察するときに詳しく取り上げる予定である。)

『この時の私は、自分の周囲に意識が拡がって、周囲の山々がみんな自分になってしまいました。単なるイメージではなく、自我意識が残っている状態ですから、自分を意識できる状況下において、その自分が、山であり、川であり、空であるといった状態をはっきりと認識できるのです。』(島田明徳『「気」の意味―仙道が伝える体の宇宙』地湧社、1991年)

以上のいくつかの事例からも推察できるように至高体験の核になる部分には「自己超越」と名づけてよいような体験が含まれるようだ。確かに表現はさまざまである。一方では「私の『自己』が、それよりも無限に大きなものに溶け込んで行く」と表現され、他方では「外に見えていたものが、自分の中に見える」、「自分の周囲に意識が拡がって、周囲の山々がみんな自分になってしまう」と表現される。「自己」が無限の中へと溶け込んでいくのと、「自己」が拡大して森羅万象を包みこむのとは、一見して方向が逆でように見える。しかし、いずれの場合にも共通しているのは、日常的な「自己」という堅固な体制が何らかの仕方で超えられているということである。
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