Mercyさんの話から印象に残ったことを思い出すままに書く。私が来るというのでアドバイスをと思い考えていたことが二つあったという。ところが驚いたことに、その二つの内容が2005/11/17 (木)の「喪失や痛みの経験から」にすでに書かれていたという。Mercyさんは、「私がアドバイスしようと思っていたことを深いところで感じ取っていたのかもしれない」と本当に驚いた様子だった。
17日の日記の前半は、妻との関係で心を「もっと透明にしていくこと」、エゴで色づけられない心、エゴを超えた視点で妻の言葉を受け止めること、妻との関係の中で大切なことを学んでいくことなどに触れた。Mercyさんは、こちらを心解脱に関係するという。ハートが開くことに関係する。ハートが開くときには、名称(ナーマ)は認識できない。形態(ルーパ)は分かるが名称は分からなくなるという。それによってハートが開いたことが分かるという。こちらは名称の解脱と呼ばれる。
17日の日記の後半は、仏教でいう諸行無常、一切は生滅変化するということに触れていた。「人が生きるということのもっとも深くに組み込まれた苦を、深いレベルで味わうことによってスピリチュアルな次元に開かれていく。」」これは、慧解脱に関係するという。慧解脱はむずかしい。これは形態(ルーパ)の解脱といわれる。心解脱では煩悩は残るが、慧解脱では煩悩の消滅が起こる。
以上は、体験のない私にはむずかしいが、大胆に私なりに捉えると、心解脱、名称の解脱は、言語や文化的な条件付け(枠組み)から自由にものを見ること、言語的な認識の枠組みから解放されるレベルのことではないだろうか。慧解脱、形態の解脱は、もっと奥深い生命そのものの条件付け(煩悩)からも解放されることなのか。
Mercyさんは、このお話の関連でラマナ・マハリシに触れ、彼の臨死体験がいちばん信用できるという。彼の場合は、心解脱と慧解脱が、同時にいっきに来たのではないかとのことだ。
17日の日記の前半は、妻との関係で心を「もっと透明にしていくこと」、エゴで色づけられない心、エゴを超えた視点で妻の言葉を受け止めること、妻との関係の中で大切なことを学んでいくことなどに触れた。Mercyさんは、こちらを心解脱に関係するという。ハートが開くことに関係する。ハートが開くときには、名称(ナーマ)は認識できない。形態(ルーパ)は分かるが名称は分からなくなるという。それによってハートが開いたことが分かるという。こちらは名称の解脱と呼ばれる。
17日の日記の後半は、仏教でいう諸行無常、一切は生滅変化するということに触れていた。「人が生きるということのもっとも深くに組み込まれた苦を、深いレベルで味わうことによってスピリチュアルな次元に開かれていく。」」これは、慧解脱に関係するという。慧解脱はむずかしい。これは形態(ルーパ)の解脱といわれる。心解脱では煩悩は残るが、慧解脱では煩悩の消滅が起こる。
以上は、体験のない私にはむずかしいが、大胆に私なりに捉えると、心解脱、名称の解脱は、言語や文化的な条件付け(枠組み)から自由にものを見ること、言語的な認識の枠組みから解放されるレベルのことではないだろうか。慧解脱、形態の解脱は、もっと奥深い生命そのものの条件付け(煩悩)からも解放されることなのか。
Mercyさんは、このお話の関連でラマナ・マハリシに触れ、彼の臨死体験がいちばん信用できるという。彼の場合は、心解脱と慧解脱が、同時にいっきに来たのではないかとのことだ。
心が貪欲を離れることで心解脱があり、無明を離れることによって慧解脱が生まれる、と(いわゆる)原始仏教では説かれていると思います。
なるほど原始仏教では、そのように説かれるのですね。Mercyさんが、ご自身の体験に根ざしながら、原始仏教で説かれる区別をどのように踏まえて語ったのかは分かりませんが、いずれ機会があったら尋ねてみようと思います。
ところで、
「また、心解脱と慧解脱を説く。心解脱とは心に貪著を離れること、慧解脱とは無明をはなれていることをいうのである。あるいは心解脱、身解脱といって、精神的にはすでに解脱していても、肉体的には、どうにもならない束縛をもっている場合、たとえば釈尊の成道後の伝道生活のごときを心解脱といい、完全に肉体的な束縛を離れているのを身解脱といったりする。」(Wikpedia)
とありました。身解脱がもし慧解脱に対応するものとしてよいなら、「慧解脱、形態の解脱は、もっと奥深い生命そのものの条件付けからも解放されること」という私の解釈も、あながち外れてはいないかな、と思いました。
インターネットで「身解脱」を検索しても出てきません。肉体を離れるという意味でも離身解脱という言葉は出てくるのですが。
文脈からいって「離身解脱」を指すのでしょうね。
いずれにせよ、一切の渇愛(煩悩)から解放されることを、「心解脱」と呼ぶのだと思います。
『慈悲の実践で、存在が苦であることが理解できるかどうかは、少々疑問です。存在がすべて苦であることは、智慧の領域のことであり、ヴィパッサナーの実践で理解することです。・・・・
この二つの実践の目的は仏教用語で心解脱(慈悲)、慧解脱(ヴィパッサナー)と区別しています。』
心解脱(慈悲)、慧解脱(ヴィパッサナー)という区別は、私の日記の上と下にどこかで関係しているような感じですね。参考になりました。