瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

ランニング瞑想

2012年10月08日 | 瞑想日記
夕方5時40分から40分ほど荒川の土手をウォーキングと軽いランニング。日が暮れると青く浮かび上がるスカイツリーがことさらきれいだ。

昨日書いたようにランニングもまた、瞑想、気功、断食、ゆる体操などとともに総合的に修行効果を高めていくための一つと意識するようになった。今日は、昨日よりも意識的にサティをしながら歩き、走った。

昨日よりもはるかにサティ(気づき)が続いていった。後半、ランニングをし、歩き、また少しランニング、そして歩いて家に帰るまでサティが途切れることなく続いていった。日中よく知る道を歩くときよりは、薄暗い土手を歩くときの方が注意すべき対象が多いから、思考に溺れず、サティが続くという面もあるが、それだけではない。具体的には次のようにラべリングが続いていく。

見た→音→光→音→足の痛み→音→光→不安→思考→悲しみ→見た→音→かゆみ→‥‥‥

音は虫の音だったり、人声だったり、車の音だったりする。光は、ネオンだったり、川面の光だったりする。ともあれ一瞬一瞬、意識が向かう中心対象が入れ替わっていくが、それに即座に対応してラべリングがされていく。

ヴィパッサナー瞑想を始めた10年ほど前、やはり土手をよくサティをしながら歩いたが、今はあの頃に比べると中心対象への即座のラべリングがはるかに出来るようになっている。そのためか、思考に飛んでもすぐにラべリングが入る。また浮かんだ思考に伴う感情にもすぐにラべリングがはいる。上のラべリングで「思考→悲しみ」となっているのがそれだ。

わずかな思考に、それぞれある感情が伴い、それがクリアにサティされていく。10年前、土手を歩きながらサティしているとき、悲しみというラべリングが何度も入ったことを思い出した。今日も、「悲しみ」のラべリングが多かった。しかし、以前に比べると他の知覚や思考とはっきり識別される。妻や子供たちを一瞬想い、それに伴う感情がサティされる。その感情は日常的思考の中では気づきにくい微妙なものだが、生きるということの根幹にかかわる深いものだ。
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