瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

思考では大物は捕まらない

2012年10月09日 | 瞑想日記
先日紹介した、三回目のヴィパッサナー瞑想合宿のレポート「天女」をに読み返して、ある箇所が心に残った。以前から気にはなっていた言葉に久しぶりにであって、また刺激を受けたという感じか。合宿中の面接で、地橋先生が何回か強調していた言葉だ。

「思考はエゴの働きであり、エゴが中心になってエゴが裁量している。だからエゴが許す範囲のことしか見えない。雑魚は多く引っかかっても、大物は捕まらない。『撤退』型のサティに徹してある程度思考が納まってくると、思考という小さな網ではすくい切れない大物が現れるのだ」と。

ここで「撤退」型のサティとは、知覚対象だけではなく、どのような心の動きにも巻き込まれず、一歩退いてサティし(気づきを入れ)、それを限りなく続けていくということだ。

自我は、自ら認めたくないことを抑圧しているのだから、自我が裁量する思考によって気づけることはたかが知れている。しかし、腹や足裏などを中心対象にしてサティを続けるとどうなるか。抑圧されたエネルギーは、集中しようとする自我を裏切り、その裏をかいて、特定の知覚への関心や傾向、連想、イメージ、投影などに姿を変えて浮上してくる。中心対象をはずれて心が何かに向かったり、囚われたりしたら、それは抑圧されものの磁力による場合が多いのだ。だから「優勢の法則」にしたがって、そのつど心に優勢になった対象にサティをすることが、抑圧されたものへの気づきと解放につながっていく。これは、自我が裁量する思考では出来ない仕事なのである。

以上は、私にはとてつもなく大切なことだと思える。思考に巻き込まれず、そのつどサティを入れて、再び中心対象へのサティに帰って行くことが大切なのは、「思考という自我の産物」を越えた英知が働きやすくするためなのだ。

日常生活の中でのサティや、通勤中のサティなども、以前はずいぶん力を入れて行い、このブログに毎日のように報告していた時期があった。そんなサティからもしばらくご無沙汰していた。昨日、久しぶりに土手を歩いたり走ったりしながらサティしていて、以前に比べ力みが取れたのか、楽にできるようになっている感じがした。

今日も夕食前、7時過ぎに土手を歩いた。昨日ほどではなかったがサティはクリアであった。

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