瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

「私」は何?

2005年06月24日 | 瞑想日記
◆「私」は何?
Mercyさんの Mercy Blog をほぼすべて読ませていただいている。最近ふたつ印象に残った文章があった。

ひとつは、2005/06/21 (火) 付けの「わたしは何処に?」という記事。

『わたしはこの身体だと思っている人、多いんじゃないかな。

わたしはこの身体でしょうかね。

手のなかにわたしがいるでしょうか?

足のなかにわたしがいるでしょうか?

胃や腸、肝臓、心臓にわたしがいるでしょうか?

いや頭がわたしだと言う人がいるかもしれませんね。脳みそがわたしですか?

あなたは脳みそなんですか。?

わたしとはいったいなんなんでしょう?

あれこれ考える心がわたしでしょうか?

だとすると思考がでてこない熟睡中、わたしはどこへいっちゃんたんでしょうか?

わたしはいなくなったんでしょうか?

熟睡中、行方不明ですね(笑)

わたしはいったいどこにいて、誰なんでしょう?』

なるほどな、と思う。逆にこの文章をきっかけとして、私は私を何であると理解し、どのような私に執着しているのかと。確かに自分の脳みそを見せられて、「これがお前の正体か」と聞かれれば、ハイとは答えられない。でも、私は自分のからだ全体を自分の体だと思い、それに執着している。では、自分の体に執着する私は、どこにいるのだろうか。脳みその中にいるのか。脳みその神経インパルスの活動が私なのだろうか。いやいや‥‥。

では、やはり私は、思考によって生み出された幻影なのだろうか。熟睡中は、確かに思考はなない。しかし、私には、「私」という記憶があって、その「私」は、睡眠中も潜在意識の記憶として行き続けている。

それにしても、からだを超えたこころが「私」なのか。では、そのこころとは? 

うーん、問いは果てしなく続いていきそうだ。

◆もう一つ

『修業したから、頭が輝くわけではない。

*1瞑想したから、ハートが開くわけでもない。

「わたしは誰か」と問いかけても、マントラを何千万回唱えたとしても、

悟れるわけではない。

それらは恩寵と縁による。

それが、ハートを一瞬に開き、

「わたしは誰か」を一瞬に理解させてくれる。

大切なのは、熱意、穏やかさ、尊敬の念だと思うよ。

*1:瞑想等が必要ないということではない。』

この言葉もまた、こころに深く留まるだろう。
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