瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート10

2005年01月13日 | 瞑想日記
◆優勢の法則
6時過ぎから面接があった。地橋先生に、思考モードでの自省が多くなっているのではないかと指摘された。確かに心随観をしていると、ついついサティが甘くなり、思考に流されてしまう傾向がある。「心随観は、今日で打ち切りにしよう」と先生が提案した。自分の心の状態にラベリングしていく心随観ではなく、腹や足裏のセンセーションにサティを入れ続ける身随観に切り替えるということだ。イメージや思考が湧いても、その内容を深追いせずに、すぐ中心対象に戻る。何かを見たり聞いたりしても知覚対象の中身にまでは立ち入らず、「見た」「聞いた」とラベリングして「撤退」する。

今回の合宿で先生が何回か強調していた。思考はエゴの働きであり、エゴが裁量しているから、エゴが中心になっているときはエゴが許す範囲のことしか見えない。だから雑魚は多く引っかかっても、大物は捕まらない。「撤退」型のサティに徹してある程度思考が納まってくると、思考という小さな網ではすくい切れない大物が現れるのだと。

自我は、自ら気づきたくないことを抑圧しているのだから、自我が裁量する思考によって気づけることはたかが知れている。しかし、腹や足裏などを中心対象にしてサティを続けるとどうなるか。抑圧されたエネルギーは、集中しようとする自我を裏切り、その裏をかいて、特定の知覚への関心や傾向、連想、イメージ、投影などに姿を変えて浮上してくる。中心対象をはずれて心が何かに向かったり、囚われたりしたら、それは抑圧されものの磁気力による場合が多いのだ。だから「優勢の法則」にしたがって、そのつど心に優勢になった対象にサティをすることが、抑圧されたものへの気づきと解放につながっていく。これは、自我が裁量する思考では出来ない仕事なのである。

◆切り替え
先生に提案され、私自身も、心随観はここで打ち切りにし、身随観に切り替えた方がいいと感じた。納得して面接を終え、一階で座禅を始めた。

座禅をはじめてすぐにこれまでとの違いに気づいた。クリアなサティが次々と入っている。今回の合宿ではいちばんよい。ほとんど思考に巻き込まれず、思考が起こってもすぐにサティが入った。引き続き行った座禅も、どれもクリアなサティが続いた。心随観でガタガタになっていたサティが、心の切り替えで一気に立ち直った感じだった。
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