ここ数日、課題として意識しているのは、 日常生活の中でいかにサティを持続できるかということだ。もちろん、ヴィパッサナー瞑想に出会ってから幾度となくこの課題を意識してきた。しかし、せいぜい職場へ向かう途中や廊下を歩いているときなど、特定の状況でしかサティは持続しなかった。
しかし最近少し違う。思考を伴う文書作りなどの仕事中は、まだほとんどサティ出来ないが、それ以外では少しづつサティの時間が増えている。たとえばちょっと休んでイスから立ち、お茶を入れるときの個々の動作、ドアを開閉し、人とすれ違い、またドアを開閉し、そしてトイレに入っての一連の動作など。
こうして書いて見ると、何だ、まだやはり特定の状況が少し増えただけじゃないか、という感じもする。それでも私には何かが違って感じられる。
意欲だろうか。また、こうしてサティの時間が少しでも増えていくことへの一種の達成感だろうか。日常の中ではほとんど野放しだった想念の自己展開が、わずかでも自覚化され、連鎖が断ち切られる可能性が見えてきたからだろうか。
一昨日も書いたが、いままでほとんど無理だと感じられていたことが、今は、このまま持続していれば可能だという自信に変わっている。サティは日常生活のかなでも充分に持続しうるとう自信。それが大きいかもしれない。
今日の帰り、駅までの歩行では、仕事で少し心が動揺することがあったり、疲れも出ていたので、サティをすることが面倒くさく感じられた。そんなときは、「サティはめんどうくさい」と思ったと確認するのがよいようだ。疲れているのに努力をして知覚対象へのサティをしていくより、まずは、「疲れ」「意欲なし」「めんどうくさい」など、今の素直な気持ちを自覚化してラべリングする。無理をしないで気持ちや状態をサティしていく。すると気持ちも変化して、意欲が再び湧いてきたりする。
しかし最近少し違う。思考を伴う文書作りなどの仕事中は、まだほとんどサティ出来ないが、それ以外では少しづつサティの時間が増えている。たとえばちょっと休んでイスから立ち、お茶を入れるときの個々の動作、ドアを開閉し、人とすれ違い、またドアを開閉し、そしてトイレに入っての一連の動作など。
こうして書いて見ると、何だ、まだやはり特定の状況が少し増えただけじゃないか、という感じもする。それでも私には何かが違って感じられる。
意欲だろうか。また、こうしてサティの時間が少しでも増えていくことへの一種の達成感だろうか。日常の中ではほとんど野放しだった想念の自己展開が、わずかでも自覚化され、連鎖が断ち切られる可能性が見えてきたからだろうか。
一昨日も書いたが、いままでほとんど無理だと感じられていたことが、今は、このまま持続していれば可能だという自信に変わっている。サティは日常生活のかなでも充分に持続しうるとう自信。それが大きいかもしれない。
今日の帰り、駅までの歩行では、仕事で少し心が動揺することがあったり、疲れも出ていたので、サティをすることが面倒くさく感じられた。そんなときは、「サティはめんどうくさい」と思ったと確認するのがよいようだ。疲れているのに努力をして知覚対象へのサティをしていくより、まずは、「疲れ」「意欲なし」「めんどうくさい」など、今の素直な気持ちを自覚化してラべリングする。無理をしないで気持ちや状態をサティしていく。すると気持ちも変化して、意欲が再び湧いてきたりする。