俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

向上心(続・晩年)

2016-10-16 10:48:49 | Weblog
 私は決して明朗快活な人間ではない。陰鬱とまでは言わないがかなり悲観的なほうだ。性格的には悲観的であっても行動面では楽観性を重視するから外見上は明るい。これまではそんな生き方をして来た。向上心の強さがあったからそれが可能だった。高い向上心を満たすためには積極的であらねばならない。しかし向上心は諸刃の剣だ。目指すべき目標があれば積極的になれるが目標を失うと途端に糸の切れた凧のように失速する。その点、私は目標設定が巧みだった。目標を二段構え・三段構えにすることによって常に積極的な生き方を選んだ。
 水泳の例が分かり易い。35歳頃までは泳ぎたい時に泳いでいれば良かった。ところが加齢に伴う体力低下によってそれでは不充分になった。夏になってから俄か仕込みで鍛えても基礎体力が備わる前にシーズンが終わってしまう。これでは気軽に楽しく泳げる期間が無くなる。そこでシーズンオフには屋内の温水プールで泳ぐようにした。退職後は時間的にも余裕が生まれたから毎日泳ぐようにした。この間、全く無理をしていない。ゆっくりと泳ぐから距離を増やしても負担増にはならなかった。
 最初のレベルダウンは里帰りをしてから起こった。環境の変化のために気力が萎えて長く泳げなくなった。この難局に対して私はやはり現実的に対応した。それまで最低2㎞だった目標値を1㎞に減らした上でそれ以上については「体調およびプールの込み具合次第」という何とも温い目標を定めた。こんな目標なら毎日続けても負担にならない。その後、癌を発病して体重が20㎏以上減ってからは一気に「50m以上」にまで目標値を下げた。こうやって常に現実的な目標を設定することによって向上心を満たし続けた。劣化を遅らせるということは充分に向上心を満たす。
 現在私は生き方に悩んでいる。退職後は老春を楽しむことを目標として80歳ぐらいまでのんびり生きれば良いと考えていたが癌によって台無しになってしまった。15年計画を1年計画に短縮することは不可能でありしかも不治の病という全く想定外のハンディまで背負うことになった。目標を再構築しなければ糸の切れた凧になってしまう。
 ここ数か月は病状が不安定だったために病気に振り回されていた。目標値の切り下げなら可能だが目標設定さえできないほど不安定な状況であれば意思に基づいて目標を立てそれを達成することなど到底できない。病状さえ安定すればたとえ低レベルではあっても意思に基づいて計画してその実現へと邁進することができる。
 ニーチェの根本思想であるDer Wille zur Machtを私は向上心に近いものと考えている。主体性を持って現在可能な範囲内での向上を目指すことはたとえ余命1年の病人であっても可能なことだ。残された1年間で可能なことと不可能なことに仕分けして不可能なことはあっさりと諦めて可能なことに絞り込んだ生き方に構築し直せばそれなりに充実した生き方が可能になる。可能なこと以上を望むべきではないしできないことを目標に定めても徒労に終わって虚しいだけだ。理想も目標も現実的であるべきだ。
 しかしこの新たな目標設定には大きな難点がある。ゴールが近過ぎるしいつゴールに到着するのか全く分からないことだ。癌による突然死は殆んど無いのでその点は少しだけマシだが、ゴールが近くにありながらそれが分からないというレースは精神を少なからず不安定にさせる。
 

文学賞

2016-10-15 09:56:44 | Weblog
 13日(木)には興味深い表彰が相次いだ。「こちら葛飾区亀有公園前派出所」を先日完結したばかりの秋本治氏が菊池寛賞を受賞して驚いていたら、夜になってシンガーソングライターのボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。日本では文学賞を小説家に対する表彰だと思っている人が多いが、世界的には必ずしもそうではない。サルトルは辞退したがベルグソンとカミュの二人のフランス人哲学者が既にノーベル文学賞を受賞している。「異邦人」などの小説も著わしたカミュとは違ってベルグソンは哲学書しか書いていない。
 今回なぜか「ロックの神様」と紹介されることが多かったボブ・ディランだが'60年代においては「フォークの神様」や「フォークロック」と形容されることが多かったと記憶している。当時のアメリカは今よりも随分偏った国で戦争や人種差別に批判的な歌はそのことだけで「プロテストソング」と一括りにされることが多かった。なお代表曲とされる「風に吹かれて」はディラン本人のオリジナル曲よりもPPM(ピーター・ポール&マリー)によるカバー曲のほうがヒットした。
 数年遅れてなぜか京都を中心として「反戦フォークソング」が流行った。「山谷ブルース」「友よ」「手紙」などの問題作で知られる岡林信康氏と「帰って来たヨッパライ」などのヒット曲を連発してテレビのレギュラー番組まで持っていたフォーククルセダーズはどちらも1968年のたった1年間だけしか活躍しなかった。この1年は日本のフォークソングにとって極めて特別な1年だった。
 イデオロギー丸出しの反戦フォークは論外だが、岡林氏にせよボブ・ディランにせよ今の感覚からすればさほど過激な歌詞とは感じられない。当時の社会はかなり偏向していたからこれらが単なる政治的な歌と誤解されたのだろう。その一方で当時の歌謡曲は「恋・酒・女・港」といった陳腐な言葉の羅列であり、岡林氏やフォーククルセダーズの北山修氏による歌詞は非常に斬新だった。ボブ・ディランが「米国の歌の伝統に新たな詩的表現を創り出した」かどうかは私のような素人には分からないが、岡林氏らによって日本の流行歌の歌詞が大幅にレベルアップしたことは間違いあるまい。
 今回ノーベル文学賞に音楽家が選ばれたことが妙に問題にされているが日本の菊池寛賞の受賞者もかなり広範だ。今回の秋本治氏以前にも2013年にはサザンオールスターズ、2012年には医師の近藤誠氏、2006年には漫画家のいしいひさいち氏と旭山動物園、更に1956年には「くらしの手帖」編集部など、以前から文芸に限らずかなり幅広いジャンルの人が受賞している。
 文学賞の対象を小説や詩に限定する必要など無かろう。少なからず絵に依存する漫画はともかく、言葉を使った芸術である限り総てを文学賞の対象にしても構うまい。文学賞の対象を文芸だけに絞ることは狭いジャンルだけを文芸扱いすることであり、それは却って文学賞の価値を低下させることになる。詩と音楽の組み合わせは文芸に劣らず歴史のある芸術だ。かの村上春樹氏も「ノルウェイの森」というタイトルをビートルズから借用しているではないか。変なエリート意識を持って他の芸術を蔑視すべきではない。

晩年

2016-10-14 09:40:45 | Weblog
 楽しい老後は自ら捏造した幻想だったのではないかと発癌後はしばしば考えるようになった。歳を取ると本人にも周囲にも嫌なことが増える。時の経過と共に楽しみは減り苦痛や苦しみは増え続ける。生きる苦痛や苦しみがその楽しみを上回った時が死に時なのかも知れない。
 勿論その時点だけを見て幸不幸を判定すべきではなかろう。それまでの経緯を含めて総合的に判定せねばならない。例えば何かを目標にした努力であればそれが成就した時点でそれまでの経緯まで含めて総てが肯定される。合格であれ優勝であれ、あるいは初勝利であれ、目標が達成されればそれまでの経緯が丸ごと浄化される。
 但し過去が浄化されるのは希望を持って邁進できる若い世代に限定されるのではないだろうか。少しの希望と多くの持病しか持たない老人にとって不確かな未来は不確実な分だけ価値が低くなる。現在の確実な報酬のほうがずっと魅力に富む。歳を取るほど希望は空手形になり易くなる。
 向上心こそ意欲の源泉ではないだろうか。良くなる、あるいは現状を維持できるという期待があればこそ頑張れる。ジリ貧になると分かっていれば捨て鉢にもなりかねない。それはペナントレースの消化試合のようなものだ。癌の発病以降、私が最も前向きになれたのは放射線治療によって快癒の可能性が見えた時期であり、その逆になったのは治療を諦めてステント装着による延命策を選んでからの時期だ。
 向上への意欲が失われた時、歩くことによって得られる喜びよりも苦痛のほうが大きければ歩きたくなくなるし、食べることによって得られる喜びよりもそれが招く苦痛のほうが大きくなれば楽しい筈の食事でさえ排泄と同レベルの生存のための義務に格下げされてしまう。
 人は加齢に伴って喜びを失い苦痛を増やす。そうなるに従ってこの世に対する未練はどんどん薄らぎ生存に執着しなくなる。彼をこの世に引き止めるものは最早死に対する恐怖と盲目的な生への意思だけになってしまう。
 そもそも苦痛に耐えてまで生きる義務などあるまい。総ての行動が苦痛であるなら何も無いほうがマシだ。マイナス点を幾ら積み重ねてもプラス点に化けることは無い。マイナス掛けるマイナスがプラスに転じるのは若い世代だけに許される特権だろう。
 生きることが苦痛であれば逆に死ぬことが苦痛ではなくなる。穏やかな死を迎えるためには苦しい老後が必要なのかも知れない。幸福の絶頂で死ぬことが不幸であるなら不幸の最中に死ぬことは決して厭うべきことではなくむしろ歓迎すべきことなのではないだろうか?

怖い薬

2016-10-13 09:58:50 | Weblog
 「薬は怖い」は私の持論だが先日実際に恐怖を感じた。深夜3時頃に突然訳の分からない不安と興奮に捉われた。脈拍は高まり多分体温も上昇していただろう。試験やスポーツ直前の昂揚感に似ていた。常飲している3種類の鎮痛剤の内、麻薬に近い成分を含む2種類の向精神薬の副作用が現れたものと思われる。
 向精神薬の薬効は概して不安定なものだが私の使っている鎮痛剤もまた厄介な薬だ。基本的には鎮静効果を発揮するが稀に覚醒効果などの想定外の反応を起こさせる。あるいは頭は朦朧としているのに眠れないという訳の分からない副作用に苦しめられることもある。
 鎮痛剤を飲み始めてから既に2か月以上経つが症状は一向に安定せず一進一退の状態だ。医師から勧められて一部の鎮痛剤を2倍に増量したのはほんの数日前のことだった。当初は痛みがかなり治まって安心しかけていた矢先に精神的な不安定が発生した。
 鎮痛剤という名は必ずしも体を表していない。大半の鎮痛剤の薬効は痛みを鎮めることではなく中枢神経系を狂わせて痛みを感じにくくすることだ。通常であれば痛みが緩和されるだけだが体質や体調によっては全く想定外の副作用が現れる。向精神薬がしばしば麻薬のような形で悪用されるのはそんな特性があるからだ。
 自慢できる話ではないが私は子供の頃から眠るのが下手だった。飲酒を始めたきっかけも寝酒だった。食道癌を患って以来、飲酒を自粛できるようになったのは、鎮痛剤の多くが鎮静効果を持っておりアルコールによる睡眠導入効果が以前ほどには必要ではなくなっていたからだろう。
 鎮静効果をがあると信じていた鎮痛剤が逆の覚醒効果を発揮すると困ったことになる。深夜になって全く場違いな情動に見舞われると人はパニック状態に陥りかねない。この時に眠らねばならないと焦ればますます眠れなくなる。この不眠パニックはかなり強烈なものでありこれから逃れようとして強い薬に溺れて死んだ著名人は決して少なくない。ビジネス競争における勝利者は普通以上に強い精神力を持っていると思われるが彼らでもこのパニックに耐えることは難しかったようだ。
 薬が怖いのは人間の心も体も余りにも微妙なバランスに依存しているからだ。私が軽度の精神錯乱に陥る直前の数日間は痛みから解放されてここ数か月では最も快適な日々だった。やや逆説的な言い方だが良く効く薬は怖い。仮に日毎においては最適量であってもそれが蓄積された場合にどう働くかは誰にも分からない。蓄積された水銀やカドミウムが想定外の害毒をもたらすように薬品類の蓄積は怖い。アルコールの休肝日が必要と言われているが休薬日も必要だろう。痛みや抑鬱から解放する筈の薬が感情のバランスを滅茶苦茶にしかねないのだから人間の浅知恵に基づく精神操作は余りにも危険だ。薬は怖い。

民主的

2016-10-12 09:52:13 | Weblog
 10日付けの朝日新聞の「天声人語」は国民投票の問題点について書いていた。日本の「文化人」を代表する朝日新聞として、6月のイギリスでのEU離脱や今月2日のコロンビアでの内戦和平合意の否決といった許し難い事態が続くことに対して黙っていられなかったのだろう。あるいは投票率が43.35%と50%に満たなかったために不成立になったもののハンガリーでは難民の受け入れ反対が何と98%を占めていたし、アメリカでは共和党の大統領候補にトランプ氏が選ばれた。こういう状況に対してリベラルを代表してガツンと言わなければ気が済まなかったのだろう。
 天声人語は「複雑な問題をイエスかノーかで問う手法は、危険を伴う」とし「気に入らないのは中身の一部でも白か黒かの決着しかない」ことを根拠にして国民投票という制度に対して明確に否定的な見解を示している。酷い結果を招いたのは国民投票という制度に問題があったからであり決して社会がこんな変な方向へと向かっている訳ではないと言いたげだ。
 しかしこれは国民投票という制度の問題ではあるまい。同じ記事の中で「国民投票はきわめて民主的である」と書いているとおり、逆に国民投票という制度こそ民主主義の典型的な姿であり、国民投票において露呈した問題点は民主主義の欠陥そのものだ。本当に危険なのは「多数決」という仕組みなのだが、民主主義の擁護者を自認する朝日新聞としては民主主義と多数決の欠陥を不問にして、国民投票という制度の欠陥と主張せざるを得ないのだろう。この辺りが首尾一貫して変わらない朝日新聞の嫌らしさであり実に滑稽だ。
 事実から目を背けることに終始して綺麗ごとに執着することなどもういい加減に諦めたらどうなのだろうかと思う。本音におけるエリート主義とタテマエにおける民意尊重のギャップは最早埋まらないほど拡大してしまっている。トランプ氏のように露悪的な姿勢を示す必要などあるまいが、民意など所詮偏差値50程度の凡庸な人々の総意に過ぎない。そんな低レベルな意見ではなく偏差値80のエリート集団が熟慮して導き出した結論を鵜呑みにせよと言いたくても言い出せず、ヒステリーを起こしているのではないかと思えるほど支離滅裂になりつつある。
 人は個々の案件についての正しい判断などできなくても、明らかに差がある二人の優劣の判定ぐらいなら下せる。それさえ困難な人でも既存政党が推薦した人の名前を書くぐらいならできる。その意味で間接民主制のほうが安全な政治制度だ。直接民主制では民意がフィルターを通さずに表明されるからとんでもない結論も現れ得る。今尚民主政治とは衆愚政治の同義語だ。その事実を隠蔽し続けているからこそ民主主義に対する幻想が生き残っている。このギャップが肥大して取り返しが付かなくなるまでに一度や二度破綻したほうが良かろう。それを妨害していれば単なる破綻では済まずに恐ろしいカタストロフィに向かうということにもなりかねない。

平等

2016-10-11 09:52:56 | Weblog
 フランス革命の理念である「自由・平等・博愛(友愛)」が余りにも当たり前のように教えられているせいか日本人の大半が誤解しているようだが、平等は決して無条件に肯定されるべき理念ではなかろう。かなり疑問を挟む余地のある際どい理念であり、これをまるで公理のように思い込んで武器として振り回して作られた理屈は少なからず狂気を孕んだものになる。
 ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフによる犯罪肯定論(作品中では「非凡人論」)が実は暴力革命のパロディと解釈できることに今年の4月になって初めて気が付いた。暴力革命の経済的裏付け、つまりブルジョワジーが所有する財産をプロレタリアートに解放せよという理屈は、高利貸しの老婆が抱え込んでいる資産を奪い取って貧者に分け与えることを正当化するのと同様かなり歪んで独り善がりな論理だ。
 もっと極端なこんな比喩ならどうだろうか。全盲の人と両眼共に健常な人がいることは著しい不平等だ。無理やり平等にしようとするなら全員を等しく隻眼にすべきだろうがそんなことをすれば折角の健常な眼が大量に廃棄されることになってしまう。何らかの基準に基づいて全盲者の人数分の眼を健常者の一部から1個ずつ摘出して移植をすれば、社会には全盲者がおらず両眼と隻眼しかいないという現状よりずっと平等な社会が実現する。尚、誰の片目を奪うべきかについては、刑罰やくじ引きなどの様々な手法から選べば良かろう。
 幾ら平等好きな人でもこんな制度に賛成する人は殆んどいないだろう。ではこの制度はなぜ不合理なのか?一部の人に不幸を強制することによって平等化を図ろうとしているからだろう。平等を、個人が既に持っている権利よりも優先しようとするから無理が生じる。所有、中でも肉体の所有は平等などの如何なる理念以上に生得的であるから最優先されるべきだと誰もが考えるのではないだろうか。
 かつて社会主義国で行われていたように全員を貧乏にすることによって平等化を図ることは根本的に間違っている。もし目標にすべき平等があり得るならそれは全員が豊かになる中で額ではなく率として貧富の格差を縮小することだけではないかと思える。所有の総量が変わらないなら平等化は理想たり得ない。それは貧者による富者からの収奪以外にはあり得ないからだ。それは貧者に対する優遇であり平等化ではなく逆差別と見なすべきだろう。平等が理想たり得ないのはその素性が健全な群居欲求ではなく妬みの正当化というかなり歪んだ心理に基づいているからだろう。
 勿論私のようなリバタリアンは資本主義に対しても大いに不満を持っている。資本主義は大資本が小資本よりも必ず有利になる仕組みだからだ。大資本を前にすれば庶民の権利など蟷螂の斧のようなものであり全く太刀打ちできない。せめて資本の大小による不平等だけでも少しは解消できないものかとあれこれ考えてはいるが一向に妙案は見つからない。それだけ巧妙に作られた仕組みということだろう。

聡明化

2016-10-10 09:57:21 | Weblog
 人類は今後かなり短期間で随分賢くなれるのではないだろうか。これは数万年掛けての進化のような気の長い話ではない。僅か数十年のことであり、その間に人間の学習能力が飛躍的に向上できると期待する。
 研究において出典探しに要する時間は半端ではない。根拠を記すための文献漁りは大変な作業だ。たった1つのデータを探すために何日も掛かることなどザラであり、その煩雑さから孫引きなどによる弊害が無数に発生している。それはまるで伝言ゲームのように歪み続ける。一旦誤った情報が拡散してしまえばそれを正すことは容易ではなく、巷だけではなく学会にまでその誤った情報は氾濫する。しかしインターネットの普及によってこの状況は革命的に改善されつつある。
 自分自身のことを振り返っても何と無駄なことに多くの時間を割いていのかと思うと嫌になる。できるものなら失った時間を取り返したいとさえ思う。研究は文献探しから始まる。主要な文献を入手しなければ何も始まらない。この文献探しが大変だった。現代のようにネット上で探すことなどできなかったから古本屋巡りに一体どれだけの時間を割いていただろうか。
 運よく本を入手できても読解に負けず劣らず重要な業務があった。いつでも引用できるように整理しておくことだ。天才的な記憶力の持ち主であれば原典を正確に記憶できるかも知れないが、私のような凡人には抜き書きのノートが頼りだった。そしてそのノートを整理し続けていなければすぐに使い物にならなくなってしまった。
 この不自由さには研究者だけではなく知恵や知識を求める市井の人の総てが辟易していただろう。最も時間を取られたのは本調査ではなくそれ以前の予備調査だった。調査だけで膨大な時間を要することが誰にも分かっていたから誰もが少しでも手抜きをしようとしてたとえ俗説かも知れないと思っても利用せざるを得なかった。だから嘘やハッタリしか取り得のない人が不当に高い評価を得た。
 現代人はパソコンやスマホを使ってこんな大変で無駄な作業を瞬時で終えることができる。ネット情報の便利さを理解できない人はこれらを「便所の落書き」と酷評したがるがそれは以前の情報事情を知らない人だ。今も昔も情報は味噌糞混合の状態であることに変わりは無く、誤った情報が淘汰されるのに要する時間は今のほうが圧倒的に短い。ネット上の情報のほうが20年前の文献情報よりも却って正確なのではないだろうか。
 情報がいつでも・どこでも・無償で入手できるという素晴らしい環境があるのだから、人は嘘やデマに振り回されずに正しい情報を取捨選択できる。こんな状況を上手く利用できれば人は以前とは比べられないほど簡単に聡明になれる。知識が知恵のレベルにまで高められて初めて学識と言えるのだがこれまではただの情報通が「知識人」と名乗って跋扈していた。こんなガリ勉型秀才の努力もそれなりに意味があろうが彼らは決してクリエイティブではない。学者に限らず一般の市民も情報探しに使う無駄な時間が激減するのだから、この状況を生かせるだけで人々は尽く現状よりも聡明になれるだろう。

内臓の痛み

2016-10-09 09:49:03 | Weblog
 残念ながら出典が分からないが「心の痛みは体の痛みよりも耐え難い。体の痛みは一過性だが心の痛みはその後もずっと続いて苦しませる。だから体以上に心を労わるべきだ。」
 あるいは沢田研二さんのこんな名曲がある。「♪体の傷なら治せるけれど心の痛みは癒せはしない♪『時の過行くままに』」少し青臭い表現ではあるが心身の痛みの違いを上手く表現していると思う。
 私は大事故に遭って大怪我をした経験は無いが二番目に痛い疾病と言われる腎臓結石なら患ったことがある。そんな経験からも心の傷にこそ気を付けるべきだと考えていた。ところが心の傷にも負けないほど辛い痛みがあることに最近気付かされた。それは内臓の痛みだ。内臓の痛みから人は死ぬまで逃れられない。但し内臓の長期の痛みは大半が人工的な痛みだ。私は今食道癌で苦しんでいるが、普通の病人である間は食べられないだけで苦痛に悶々とすることなど無かった。抗癌剤による治療やステントの装着などによって食事をできるようにすることの代償として生涯続く痛みを受け入れさせられることになった。正直な話、この苦痛は想定以上に辛い。
 体の痛みに耐えられるのはいつか快復できるという希望があるからではないだろうか。明日は今日よりも良い日になると確信できれば明日が楽しみになるが、もっと悪くなると予想されるなら希望を持つことは難しく痛みに耐えることも一層虚しくなる。心と体と内臓のそれぞれの痛みを経験した立場に立って改めてこれらを再評価するなら、内臓の痛みが最も耐え難い。心の痛みなど内臓の痛みを前にすればすっかり消し飛んでしまいそうにも思える。心の痛みなど実は大した痛みではなく贅沢な悩みに過ぎなかったとさえ酷評しそうになる。
 追い詰められた人はどんどん低レベルへと退行する。これはマズローが「欲求分類」で説いた欲求の高次元化とは全く逆の進展だ。今後自分がますます「貧すれば鈍する」を実践することになると思えば一層自分の未来に希望を持てなくなる。高邁な理想に基づいて生きられるのが元気な間に限られるのなら堕落する前に死んでしまったほうが、辛い思いや醜態を晒したりせずに済む分だけ、本人のためにも周囲のためにも良いことなのではないかと思うことさえある。

リバタリアン(1)

2016-10-08 09:53:49 | Weblog
 リバタリアンという言葉は余り知られていない。バタリアンとそのパロディであるオバタリアン、あるいはベジタリアンとそのパロディのジベタリアンのほうがずっと認知されているのではないだろうか。
 正直な話、私もまたリバタリアンについてはよく知らない。10年近く前に「リバタリアン宣言(朝日新書)」という入門書を読んで以来興味を持ってはいたが、この著書は哲学書と言うよりは経済学書に近く、しかもこれまでは他の適切な文献にも余り巡り会えなかったために勉強が進展していなかった。だから私のリバタリアニズムについての理解は主にロールズやサンデルのような政治哲学者によるリバタリアン批判に対する反論として勝手に考えたことが大半を占める。私がこれまでにリバタリアニズムについて論評したことは主にリベラリズムに対する批判が目的であり余り深く考えられていない。勿論体系立てて説明できるレベルにも達していない。とは言え借り物の考え方ではない分だけ地に足が付いていると評価できるだろう。
 経済学や現代史のような殆んど手付かずだったジャンルについての勉強もある程度進んだのでそろそろリバタリアニズムについての勉強を始めようかと思っていた矢先に発病してしまった。発病後は思考力や理解力が低下したばかりか机に向かうための体力や精神力まで不充分になった。ここしばらくは投稿する記事も、殊更目新しいものではなくこれまでの知識を食道癌患者の立場から見直した内容が大半になってしまった。
 ところが成り行き上、リバタリアンについて触れてしまうとそのまま放置できなくなってしまった。他人のためではなく自分のためにもう少し詳しく知りたくなった。死ぬまでの時間は余り多く残されていないから出し惜しみをしていれば書けるレベルに到達する前に死んでしまうということもあり得る。思想として自分なりに熟成していない時点での執筆は不本意ではあるがやむを得ない。
 しかしいざ文章にしようとするとこれが随分書きにくいテーマであることに気付かされた。消化不良だからだけではなく慣れ親しんだヨーロッパ系の哲学や日本の常識とはかなり違った発想に基づいているから術語の説明をするだけでも一苦労をする。何とも難しい条件下での執筆ではあるがここは老骨と言うよりむしろ病骨に鞭打ってこのシリーズを書き上げたい。初めから「シリーズ」と銘打っているのは内容が新奇でしかも私の知力が低下しているからだ。コンパクトに纏めることなど到底期待できそうに思えない。全然熟成していないから書いている間に主旨が変わってしまうかも知れないような記事で申し訳ないが、時間的制約と現在の自分の能力を考慮すれば書きながら考えを深めて行く以外の方法は今の私には難しい。
 記事を小出しにする理由は3つある。勉強中のテーマだから未だ纏まっていないこと、長時間連続して執筆するだけの体力と精神力が欠けていること、そして最近パソコンの調子が悪くて執筆の途中で原稿が飛んでしまうことが時々あるからだ。1000文字を越え始めると消失することが怖くなって気が散り始めるという情けない状況だ。
 決して出し惜しみをしている訳ではないのだから数か月掛けて分散して掲載することをお許し願いたい。

味覚と栄養価

2016-10-07 10:36:40 | Weblog
 食べることによって得られる喜びは大きい。食べることが最大の生甲斐である人さえ少なくない。私自身も癌細胞によって食道が塞がれてしまった時に、吐いてしまうことを覚悟した上で食べたことがある。たとえ嘔吐という苦痛を招き栄養として全く役に立たないと分かっていても美味という快楽に浸りたかったからだ。1回限りのことであれば多少の苦痛に耐えてでも食べようとするのは味覚がもたらす快感がそれだけ大きいからだろう。
 7月の下旬に食道にステントを装着して食道をこじ開けた状態のまま保っている。それ以来嘔吐することは無くなった。しかしこのことによって食事を存分に楽しめるようになった訳ではない。1日中鈍痛が続いており食後しばらくは更に強い不快感に苦しめられる。全く不本意なことだが鎮痛剤が生活必需品になってしまった。
 こんな異常な状況は食欲の本質を探るために有効だ。延命策に頼るまでは食べたいが吐いてしまうという状況だったが今では吐かないけれども苦痛が続くという状況に変わった。私の対応はどう変化しただろうか?
 食欲は4つに区分できると思う。①旨い物が食べたい②空腹を満たしたい③健康と長寿のために役立てたい④文化による特殊な適応。これらが複雑に絡み合って欲求行動が選択される。
 通常であれば④以外は矛盾しない。進化の過程で栄養価が味覚に指示をして調和させるからだ。健康のために有益でしかも入手し易い食物を「旨い」と感じる人が生存のための適者でありそんな人々が増殖するからこそ健康食と美食が一致した。しかし進化によって作り出された調和は文化によって意外なほど簡単に崩されてしまう。現代社会においては「栄養価が低い」を「ヘルシー」と呼ぶような明らかに誤った言い換えであっても強引に定着させることができる。
 私のように食べることが苦痛になった人は食べることによって得られるメリットに基づいて優先順位を付けることになる。多分それは①命と健康を良好な状態にするための高栄価食品②美味しいと感じる物、となりそれ以外はごく軽視されることになる。だからこれらが食欲の本質なのだろう。
 この場合の高栄養価も一般常識とはかなり異なったものになる。重視されるのは5大栄養素ではなく4大栄養素、つまり蛋白質・脂質・ビタミン・ミネラルであり糖質は対象外だ。糖質は3大栄養素どころか5大栄養素にさえ含まれない。10年以上という長期でならともかく、5年以内に糖質が特別な栄養素として働くという事例は未だ嘗て確認されたことが無かろう。ではなぜ糖質が3大栄養素に紛れ込むような誤った思い込みが定着してしまったのだろうか?
 進化の仕組みから考えて、生命維持と生殖に役立つ食物は「旨い」と判定され有害な物は「不味い」と判定される筈だ。もしそう判定されないような異変が起こったならそれは動物の進化に背く重大な変異が起こったことが原因であり、人類に起こったそんな異変の正体とは「農業」だろう。文明による環境変化が自然によるものよりも激烈であることは決して珍しくない。
 文明はしばしば自然と対立する。文明の進歩が多くの病気から人々を救ったが、その一方でグローバル化によって感染症は世界中に蔓延した。人類と病気との関係が多面的であるように糖質と健康の関係もまた多面的であらざるを得なかったものと思われる。
 人類にとって糖質のメリットとは何か。生産性と保存性が高いことだろう。農業によって安定的に糖質を入手できるようになったからこそ人口は爆発的に増加した。逆に言えば糖質に対する過大評価を共有し続けない限り、地球は現在の人口を維持できないというとになる。
 人口を維持するために人類は糖質食を奨励した。それと同時に大変な努力を注ぎ込んで糖質文化を磨き上げた。パスタ類が世界各地の料理を代表するのは澱粉食こそ民族を守るために最も重要な食物だったからだろう。糖質においてのみ栄養価と味覚が一致しないのはこれが人類が文明つまり反自然的な営みとして意図的かつ大々的に行った価値転換策だったからだろう。