俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

リベラル

2016-10-06 09:58:01 | Weblog
 7日に福井市で開かれる人権擁護大会に日本弁護士連合会(以下「日弁連」という)が「2020年までの死刑制度廃止」の宣言案を提出することに決めたそうだ。私個人は死刑に対して余り強硬な意見を持ってはいない。「あっても構わない」というレベルで許容する立場だ。しかしその割には、日弁連の活動に何か妙な不快感・胡散臭さを感じていた。今回ようやくその正体が分かった。それは彼らの独善性・排他性・傲慢さに対する不快感だ。
 死刑廃止論と呼ばれているがその実態は廃止ではなく禁止だ。制度として廃止することではなく、日本での死刑を禁止すること、つまり日本人から死刑を執行する権利を奪い取ることが目的だ。
 私を含めて死刑を許容する立場の人の多くは人命を軽視する野蛮人ではない。制度として死刑が残っていても構わないと考えている人が大半だろう。たとえ存続しても100年間執行されないザル法になっても構わないと私は考えている。10月になったからと言って慌てて扇風機を片付けたり衣替えをすることは義務ではない。それは権利であって万人に強制すべきことではない。死刑廃止(禁止)論者はこれをルールにして強制しようとする傲慢な人に似ている。
 憲法は勿論のこと地方の条例でも滅多に認められない「させない権利」を平気で主張するのは「リベラルな」政治勢力だけだろう。こんな独善的かつ排他的な主張に違和感を感じないのは彼らがこれまでずっとマスコミや論壇を支配し続けていたためにそれを異様と感じる正常な感覚が失われてしまったからだろう。
 こんなことに気付いてから以前のアンケートを見直せば文化人の狡さ傲慢さを痛感させられる。2014年に内閣府が実施した「死刑制度に関する世論調査」でもやはり悪質な捏造が行われていた。この調査では、終身刑を導入した場合についても尋ねてそれによってその効果も検証しようとしている。〔現状〕における「死刑もやむを得ない」80.3%と「死刑は廃止すべきである」9.7%に対して〔終身刑を導入した場合〕では「死刑を廃止したほうが良い」が51.5%で「死刑を廃止するほうが良い」は37.7%だったと公表されている。
 当時はこの内容に疑問を持たなかったが改めて見直すと何とも酷いアンケートだ。○×△の三択であるように装ってはいるがさりげなく違った選択肢に差し替えている。〔現状〕での「死刑は廃止すべきである」が「廃止するほうが良い」に挿げ替えられているように結果を操作しようという意図が見え透いている。選択肢を変えてしまえば終身刑云々の話など無くても違った調査結果を作り出せる。
 彼らに悪意はあるまい。終身刑さえ導入すれば死刑好きという日本人の「悪い」国民性を改良できると本気で信じているからこんなアンケートを設計したのだろう。だからこれらは世論捏造でも世論操作でもなく正しい世論誘導だと彼らは信じて実行したのだろう。
 「文化人」は右も左も公正さを欠いた人が大半だ。マスコミはそれに加担してこの世論操作に協力する。この悪しきエリート主義は戦前・戦中から現代にいたるまで全然改善されていない。

オートファジー

2016-10-05 10:18:01 | Weblog
 1日に必要な蛋白質は約300gなのに食品から摂取されているのは約70gらしい。残りの230gがどこから湧くのかは長い間謎だったがそれを解明したのが今回のノーベル賞の対象になった「オートファジー」の理論だ。つまり外部から摂取するよりも多く、既に体細胞になっていた蛋白質が再利用されているということだ。
 外部にある蛋白質を新たに消化吸収するよりも体内に既にある蛋白質を多く利用するのは、後者のほうが使い勝手が良いために優先的に使用して足りない量を前者によって補っているからだろう。この仕組みは合理的だが大きな弱点も持っている。狂った細胞が一旦体内に入ってしまえばそれが何度も再利用・再々利用されることによって癌やパーキンソン病の原因にもなっているらしい。
 俄仕込みの知識で最新医療技術についてこれ以上論評しても意味は乏しいが、医療以外に対する応用について考えることなら素人にもできる。自然界で日常的に起こっていることの大半が現代科学のレベルを遥かに超えており自然界は無尽蔵とも思える知恵の泉だ。恒星で日常的に行われている核融合、眼の複雑な機能、あるいは生命活動そのものでさえ科学は殆んど解明できていない。碌に理解をせずに見切り発車をしようとした核分裂技術によって人類は手痛い打撃を被った。
 オートファジーの考え方は様々に応用できるように思えるが、私は咄嗟に、医学・科学技術・組織運営の3つの分野において有効ではないかと思った。
 コレステロールの8割が体内で生成され外部から摂取されるのは僅か2割に過ぎないという事実はこれまでずっと軽視されていたが、昨年ようやくこの事実に基づいてコレステローのル摂取制限が見直され摂食制限が撤廃された。
 紙などの素材産業において再利用は余り重要視されていない。アルミニウムなどの一部の金属だけが例外だ。ボーキサイトなどから精製するよりもアルミ屑を再利用したほうが低コストだからだ。素材を再利用していれば品質が劣化し続けることは産業界では常識なのだろうが、この際1から見直しても良かろう。ソバ屋や焼き鳥屋などの「秘伝のタレ」のように再利用が付加価値を生むことは決して珍しくなかろう。そもそも地球そのものが再利用によって成り立っている。地球誕生以来の約50億年間、地球の構成物は殆んど変化していない。原子レベルで見れば質量共に延々と破壊と再生を繰り返しているだけだ。持続可能(sustainable)な社会を目指すなら有限な資源の無限活用に頼らざるを得ないと断言できるのではないだろうか。
 組織に新しい血が必要であることを否定しないが、再利用はもっと重視されるべきだろう。せっかく自社独自の仕様で育成した人財≠人材を定年という理由だけで軽んじるべきではなかろう。オートファジーに学ぶ形で人財の有効活用を根本的に見直しても良かろう。
 「自食」には忌まわしいイメージが付き纏うが、意外なほど合理的な仕組みではないだろうか。

尺度

2016-10-04 09:55:37 | Weblog
 世間は一元的評価を好む。人類に評価する能力が不足しているせいか、評価する能力に対する不信感が強いからなのか分からないが、妙な尺度を作ってそれに基づいて評価をしようとしては失敗を繰り返している。この尺度はジャンルごとに作られ妙に流行り・廃れがありかなり恣意的に使われ勝ちだ。
 知能指数や偏差値は割と良くできた尺度だと思うが、差別を許すまいとする人々の圧力によってかなり限定した使用方法以外は許されていない。知的障害者を優遇することが目的でなければ余り大っぴらには使えない尺度だろう。
 カロリー論は社会に浸透しているだけに最も迷惑な一元論だろう。すっかり死語になってしまった「滋養が高い」と比べて何とか辛うじて定義されている分だけマシなのかも知れないが、科学の体裁を取り科学であるかのように装っているから害を及ぼす範囲も広くなる。栄養学を批判する人は必ず真っ先にカロリー論を批判するように胡散臭さ満載の理論ではあるが、科学に対する知識の乏しい女性から圧倒的な支持を得ているから最早覆すことは困難だ。こんなオカルト的な理論を中心に据えていれば栄養学そのものまでオカルト扱いされかねない。
 BMIも昔の「身長-100⁼体重」と比べれば遥かにマシな尺度ではあるが、健康を守るためには良くない。手足が長くて頭が小さければBMI値は小さくなること、あるいは筋肉と贅肉を区別しないことは、この数値がいかがわしいものであることの根拠にもなり得る。
 不快指数という概念は近年殆んど使われていないが、気温と湿度を一括するそれなりに便利な尺度だと思う。なぜ使われなくなったのか私は知らない。
 果物の評価に「糖度」という言葉が最近しばしば使われるようになった。しかしこれは果物の質を低下させる悪しき尺度であり早急に廃止すべきだろう。果物の質は様々な味が複雑に絡むことに基づいて評価されるべきであり、今後糖度ばかりを競っていれば、甘いだけの不味い果物の開発が促進される。それはかつて日本酒業界が犯して日本酒離れを招いた過ちの再現だ。料亭などで芸者などの女性向きの甘口の清酒が持て囃され始めるとそれに反発した酒好きが辛口を高く評価した。こんな低次元な甘辛競争をしている間に日本酒はその命とも言うべき「旨み」を見失った。ソムリエが清酒の魅力を再評価するまで日本酒は低レベルの酒という酷評に晒されることになってしまった。
 美女の評価も難しい。かつてはバスト・ウェスト・ヒップのバランスが重視されたものだが、最近では無視され勝ちだ。現時点では主観的な好き嫌いを勝手な基準で点数化してそれを単純に加算することによって辛うじて客観性を装っているだけだ。
 殆んどの一元的評価が失敗しても人はその尺度を諦めようとはしない。これは「便利だから」の一言に尽きるだろう。人の単純な頭脳には直線的な一次元評価が最も向いており平面的な二次元評価でさえ広く共有されない。例外は期待値であり庶民には余り理解されないまま広く秘かに応用されている。しかしこれは愚かな人から金を巻き上げる手法として悪用され勝ちであり、愚民化よりも啓蒙、実用性よりも広範な理解のほうが望ましい。

自由主義者

2016-10-03 09:59:03 | Weblog
 自由主義者は自分の自由だけではなく他者の自由も重視する。そうでなければただの我儘な利己主義者に過ぎない。その意味で、リベラル(liberal)と呼ばれる人々は自由主義者らしくない。明らかに全体主義的な傾向が色濃く見られるし、自分達の考え方に同調しない人を差別的に扱う排他的傾向も顕著だ。私は日本のリベラリストの主張に自由の欠片さえ感じたことが無い。彼らの理想はliberty(自由)でもrepublic(共和国・共和党)でもなく「人民共和国」なのではないのだろうか?
 自分の自由と他者の自由は必ず対立する。どこでその折り合いを付けるかが、リベラリストとリバタリアン、あるいはその他の社会思想との最大の違いになる。リベラリストは自分達の生活を快適にするために秩序を強制しようとする。特定のルールを普遍的な規則に祭り上げようとする。不気味なことに彼らが信奉するルールは大半が昔、学校で教え込まれた規則の延長線上にある。子供の頃に授かった知識を疑わずにそのまま正しいルールであると信じ続けている。正直な話、彼らはニヒリズムによる洗礼を受けていないから思想として浅薄であり幼稚だ。世界平和のためには「皆が仲良くなえば良い」と考え、犯罪を無くすためには「貧困を無くすべきだ」と信じている。民族暴動を見て「もっと話し合わねばならない」と口走る姿を見れば、怒りを通り越して軽蔑のレベルに到達する。こんな現実離れをした理想など全く無意味であるということにさえ気付かない。リベラリストは「リベラル系」と呼ばれるマスコミの報道だけを盲信する。彼らにとって好ましい情報が満載されているからだ。マスコミとリベラリストは事実ではなく綺麗ごとを軸にして密接に繋がっている。
 リバタリアンは普遍的価値の存在を信じない。食べ物の嗜好が異なるように、生き方の基準も人それぞれが違うとして、全員が守るべき、あるいは全員に守らせるべき規則も必要最小限であるべきだと考える。実は私の本音は、日本ではなぜか余り紹介されていないリバタリアンに近い。その一方で同じ「自由主義者」である筈のリベラリストには殆んど共感できない。
 私は個人の自由を尊重するからこそ洗脳を毛嫌いする。誤った情報によって人を誤った方向へと導こうとするマスコミはオウム真理教のマインドコントロールとほぼ同じだ。
 思考することを放棄して考えない人を私は軽蔑する。良い(善い)・悪いは本来、自分でじっくりと考えるべきことだ。そのための努力を怠ってマスコミや権威を盲信する人は主体性を失っており独立した個人ではなく群集の一部を占める構成物に過ぎない。
 自由には責任が伴う。自分の意思に基づいて行うのだから総てが自己責任になる。自力による判断を放棄して他人の言いなりになって総ての責任を他人に押し付ける人は無責任だ。自由を貫くためには常に責任が伴う。自由を放棄して他者の指示に従っていれば責任を免れられるがこれは奴隷が自分のことを自由人と思い込んでいるのと同じような妄想だ。言われたとおりにやる人を私は信じない。自分なりに工夫をして、言われた以上のことをやる人が自由人だ。
 先天的に群居動物であるからこそ私は極力他人には干渉しないし干渉されたくもない。社会の隅っこで自分らしい生活を営めるなら、彼らの我儘ぶりも我慢する。
 リバタリアンとリベラリストの明白な違いは、前者なら自分の自由を守るためであれば自分の権利を制約することも辞さないが、後者は他人の自由を侵害してでも自分の権利を拡大しようとすることだろう。前者の特徴を一言で表せば「寛容」であり、後者の特徴は「平等化」だろう。


責任者不在

2016-10-02 10:57:49 | Weblog
 豊洲市場への移転の問題について小池知事は「責任者不在だ」と怒る。この怒りは全く理不尽だ。責任者ならいる。本人にその自覚が無いだけだ。諸問題の責任者は東京都知事つまり小池知事本人だ。この問題を解決するための権限も責任も小池知事ただ一人だけが握っている。
 都民が知事に望んでいることは豊洲への移転計画を「いつ誰がメチャクチャにしたのか」でも「責任者を特定して処分をする」ということでもなく、安全な市場を早急に都民に提供することだ。いつまでも第三者の立場で探偵ごっこに興じているような暇は無く、一刻も早く解決策を実施すべきだ。勿論反省があってこそ改善が可能になる。しかしそんなことは二の次・三の次であり、今すぐに最優先して実施すべきことは現在可能な対策を実施することだ。根本的な改革への繋ぎとしての応急措置を今すぐに施さねばならない。急患を前にした医師と同様に最優先とすべきことは応急手当だ。
 現時点での小池知事の功績は都民の不安を煽っただけに留まる。こんな中途半端な幕引きにするぐらいなら当初のまま隠蔽していたほうがマシだったのではないかとさえ思える。
 もしかしたら小池知事は根本的な誤解をしているのかも知れない。国政は一元代表制で議員内閣制を採っており多数派が与党になる。しかし二元代表制を採る地方自治体やアメリカの政治制度の元では行政を担う首長の側が与党であって、議会での多数派が「多数派野党」になるということも起こり得る。こんなことぐらいは地方自治やアメリカの議会について多少の知識があれば分かり切ったことだ。議会での多数派を与党だなどと勘違いをしているから反体制=野党と思い込んでいるのではないだろうか。首長は「少数与党」の立場になら立てるが、文句を言っていれば勤まる野党の立場に立つことはできない。行政の責任者である首長には与党の責任者として働く以外に選択肢は無い。
 小池知事が都庁の責任を問い詰め始めた時点で舛添前知事は既に辞職しており、後任としての小池知事が就任していた。だから小池知事は自分で自分を訴えたということになる。
 これは決して異常な事態ではない。経済や医療や環境などのように多段階的に連鎖する社会では加害者と被害者を分別できないことが少なくない。劣悪な環境の鉄工所で働く中国人労働者は加害者であるのと同時に被害者でもあるだろうし、夫は妻の加害者であるのと同時に被害者でもあるだろう。誤った情報を垂れ流したマスコミもきっと誰かに騙された被害者だろう。もし原告が実は加害者だと分かったら、告訴を取り消さない限り原告席と同時に被告席にも座らなければならなくなるだろう。
 サラリーマンにとってこんなことは当然だ。人事異動があれば短時間で引き継いだ後は総てが自分の責任になる。前任者の就任中の不祥事が見つかった場合、流石に執行責任まで問われることは無かろうが、問題の解決は勿論のこと様々な改善も後任者の責任になる。この責任を前任者に転嫁することは許されない。かつての山一証券の倒産記者会見を覚えているだろうか。泣き喚いて醜態を晒した社長は実は倒産直前になって就任させられた臨時雇いの社長に過ぎなかった。どんな損な役回りであっても引き継がねばならないのが企業社会であり、増してや都知事のポストは彼女が自ら立候補して勝ち取った地位だ。
 小池知事はいつまでもお客様気分でいるべきではなく、唯一無二の権力者として速やかに都政改革に取り組まねばならない。天に向かって唾を吐けばいずれ己の頭上に落ちて来るものだ。

格差改善

2016-10-01 09:57:27 | Weblog
 昨日(30日)の朝、朝日新聞の朝刊を見て驚愕して一瞬で目が覚めた。素晴らしい覚醒効果だ。1面トップには「小中の学力 地域差改善」という見出しが掲げられていた。この記事は前日に私がネットやテレビから得ていた情報とは随分異なっていた。私がこの件に関して得ていた印象は、成績下位県での学力の向上と上位県での低下だった。
 学力テストは難易度のバラ付きが酷いために平均的が大きく変動しているから相対評価以外は難しいという欠点を持っている。そのために学力が向上したかどうかは、前回の自県ではなく今回の他県との比較に頼り勝ちだ。
 但しこれは必ずしも正しい理屈ではない。全体の学力が極端に変動していなければ、それぞれの得点を偏差値に換算することによってある程度正確に今回・前回対比をすることが可能だ。文部科学省は競争を煽らない方針のようで、原始データに基づいた様々な試算を許さないためにわざわざ大まかかつ加工後のデータしか公表せずに教育関係者を煙に巻いている。
 こんな悪条件の元で独自に「改善」と評価することは極めて難しい。順位が上がってもそれが自県の向上によるものか他県の劣化によるものか判定できない。
 緻密な分析をさせないために加工データしか公表されていない現状で朝日新聞はどんな根拠に基づいて「地域差改善」などと断言できたのだろうか?彼らはどんなマジックを使って学者でも不可能と思える大胆な結論を導いたのだろうか。
 私は謎解きへの期待に胸を膨らませて記事を読んだ。しかしその期待は100%裏切られた。これを「改善」と評価したのはロジックでもマジックでもなくただのトリックだった。高得点だった県が低迷して低得点だった県の得点が増加しただけだ。これを「格差改善」と評価できるものだろうか。少なくとも朝日新聞でさえデジタル版も含めて名古屋本社版以外はそう評価せず、他紙と同様、均質化や同レベル化としか評価していない。
 学力テストは4教科・2学年を対象にして延べ8教科で実施された訳だが、朝日新聞はこのデータからどうやって大胆な結論を導いたのだろうか。驚く勿れ、上位3県の平均点と下位3県の平均点だけが頼りだ。データの公表が不充分でありしかも全体の平均点まで使って加工しているから詳細な分析は困難だが、概して上位だった県では低下して下位だった県では得点が増加していたことぐらいはほぼ確実だったようだ。平均点の増減は様々な原因で起こるから一概には言えないが、もし上位だった県での成績低下が事実であるなら「地域差改善」などと無邪気に喜ぶのではなく上位県の学力低下問題として注目すべきなのではないだろうか。
 古代ギリシャ神話にはプロクルステスという盗賊が登場する。彼は捕えた旅人を自分のベッドに寝かせてはみ出した足を切り取り底に足が届かない人を牽引機に掛けたと伝えられている。彼にとっては彼のベッドが人間の身長の基準であり総ての人間がその基準に従わねばならなかった。
 現代のプロクルステスは世界全体を自分の基準に従わせようとする。平等性と対立しかねない人は総て敵だ。優等生も劣等生も格差の原因に繋がる悪人だ。戦後70年も経ったのにこんな平等至上主義が中部地区には今尚残っているようだ。こんな野蛮人は関東や関西では大昔に駆逐された筈だが中部地区にはまるでシーラカンスのように生き残っていた。丁度、縄文系の原語が中央から駆逐されても南北の端の沖縄と北海道には残っていたように、プロクルステスの末裔は中部の吹き溜まりでしぶとく生き残っていたようだ。

徴候

2016-09-30 09:54:21 | Weblog
 25日(日)の夜、肺炎で病院の救急外来に駆け付けたが、病気に対してこんな下手な対応をしたのは初めてだ。夜になってから苦痛に耐えられなくなって医師や薬剤師などを振り回すなど全く恥ずかしい話だ。常識ある人間なら昼間の内にもう少し対処しておくべきだったと反省している。しかしいい歳をしてこんな失態を演じたのは全く理由が無いままではなく多分2つの特殊要因が絡んでいる。1つは癌と癌治療による体質の変化であり、もう1つは鎮痛剤の常用が招いた体内のセンサー機能の劣化に気付かなかったことだ。特に後者の影響が大きかったように思う。
 肺炎の徴候は17日(土)辺りから現れていたようだ。喉の調子が悪く会話にも不自由するほどだったが、私は健康だった頃と同じように放置した。自然治癒力を過信していたからだ。ところが20日(火)辺りから微熱が出始めた。しかしこれも放置した。25日(日)になって38℃越えが出るようになってから初めて焦るという泥縄ぶりだった。
 今から考えれば17日の時点からこれら以外にも肺炎の徴候があった。何度も訪れた気付くためのチャンスを悉く見逃してしまったのは癌発症以降に私の体に生じた体質の変化を軽視したからだろう。
 癌が発症するまで私の体は大切に扱われていた。放置していたことがなぜ「大切に扱った」という評価に繋がるのか疑問に思われるかも知れないが、対症療法を避けることはほぼ確実に有益だ。治療効果の無い対症療法薬による副作用が病気そのものに加わることと比べれば、病気に罹ってもそれに手を加えずに放置したほうがずっと良いのは当たり前だろう。
 私の体は免疫力の低下だけではなく警報センサーまで劣化していた。免疫機能が充分に働かなければ微熱や軽度の不快感などを通じたセンサーの機能も鈍くなる。だから免疫力の低下が原因になって危機感知力も低下する。それだけでは済まない。鎮痛剤が痛みや発熱を誤魔化してしまうから私の体のセンサーはズタズタ・ボロボロの状態になっていた。こんな状況では病に対して多少神経質になる程度では全く不充分であり、自分の体が発病し易くしかもそれを感知しにくくなっていることを自覚してそれなりに慎重な生活を心掛けねばならない。
 薬の副作用はまるで「風が吹けば桶屋が儲かる」の喩え話のように無限に連鎖する。そればかりではなく薬は他者にまで感染する。少なくとも環境を汚染する。薬は最も身近にある毒物だ。食品添加物の毒性とはレベルが違う。
 

できないこと

2016-09-29 10:25:48 | Weblog
 私の記事は科学・医学・哲学に対する批判が多い。それはこれらがいい加減な学問ではなく最も真面目に取り組まれるべき学問だからだ。これらと比べれば経済学や工学などの重要性は低いから多少歪められても許容できる。しかし本来特に優れた学問であるべき科学・医学・哲学が歪められることは許し難い。
 西洋の学問は哲学と神学から始まったと思っている。その後神学が衰退する一方で哲学は深く根を降ろすと共に広く枝を張り広げて学問の主流を歩むようになった。数学も科学も自然哲学から派生したものであり、医学は自然哲学(科学)的手法に基づいて築かれた実学だ。
 私が最も激しく攻撃するのは偽科学と偽医学だ。それらの有害性が高まるのは、できないことをできると偽ることが主因となり勝ちだ。それは哲学が類似した失敗を犯すことによって学問としての存続の危機を招くという不名誉な行動の先駆者でありその恥ずかしい経験を有効活用すべきだと考えるからだ。かつて哲学は、理性に可能な限界を超えた超越論によって全く無意味な形而上学を肥大させてしまった。カントが「純粋理性批判」を著わしてこれらを否定していなければ、哲学は今も尚こんな空理空論を弄んでいたかも知れない。科学と医学に対する批判もまた可能な範囲を極力明確にすることから始めるべきだろう。
 医学においては既に内部から独自の見直しが始まっている。EBM(Evidence Based Medicine)つまり「根拠に基づく医療」が狙っているのは正しい情報分析に基づく医療だ。従来の医療がKKD(勘と経験と度胸)に頼っていたことを反省して統計的手法に基づく科学的な治療が目標にされている。
 基本的にはこの活動は有益かつ有効であり、医学の進歩に繋がり得る。しかし科学と数学に対する無理解のために科学と同じ失敗を続けつつあるのが恥ずかしい現状だ。それは科学的事実の多くが因果関係ではなく相関関係に過ぎないということに対する無理解だ。事実があくまで統計的事実に過ぎなければ事実が持つ意味も変わる。そのことに充分に注意しなければ相関性に過ぎない事実を因果性と思い込んでEBMそのものがオカルトに変質しかねない。プラシーボ効果やただの偶然に基づく相関性を真の因果性と見なすべきではない。
 哲学においては冷静な議論が当たり前で学者同士で議論をするから議論の技術もマナーも心得た大人による会話が可能だ。しかし科学においてはド素人や悪人まで参入する。だから科学技術を利用して一獲千金を狙う人も混じる。彼らが誇大広告を乱発するから科学も医学もオカルトによって穢されてしまう。既に侵入した害虫を駆除することは難しいが、できないことをできると詐称する詐欺師を徹底的に追い詰めて、学問と商売の両方から一刻も早く永久に追放する必要がある。
 科学と医学は俗世間から隔離して純粋な学問として培養したほうが良いのかも知れない。しかし折角民間利用が大いに進んでいて多くの民間人がその恩恵を蒙っているという事実があるのだから学問であるのと同時に民間人のために役立つ実学という立場も必要だ。丁度哲学が学問であるのと同時に高尚な市民のための教養であることと似ている。

落ちこぼれ

2016-09-28 09:59:06 | Weblog
 情報や知識の不足は誰にでも日常的に起こり得る。その際、人は様々な対応をする。最悪は不足しているという事実にさえ気付かないことだ。人の知覚には分断された情報の隙間を自動的に埋めようとする癖がある。だからこそアニメやパラパラ漫画が動いているように見える。それと同じように、知らないことを嘘や憶測によって埋めようとする。昔はこんな人しかいなかった。情報源が限られていたから庶民には宛てがわれた以上の情報は無く、人々は勝手に推測して独断を繰り返していた。マスコミがダイオキシンとか環境ホルモンとかいった訳の分からない化合物について報じれば大衆は無条件にそれを信じ勝手に尾びれを付けて過剰に怖がったものだった。
 しかし科学情報なら幾らでも検証することができる。関係する書物は無数に出版されているからだ。少し調べるだけでマスコミによる騒動が空騒ぎであることが分かる。意外なことだが、最も検証し易いのは科学情報だ。最も簡単に検証できる科学情報でさえ調べようとしない人は、政治・経済・社会といった調べにくい情報についてはマスコミ情報を鵜呑みにして、多少の矛盾など気にしない。不足している情報は推測や憶測やデマによって埋められる。
 ネット社会になってこの辺の事情は激変した。若い世代は分からないことがあればすぐにスマホで検索する。答を探すまえに少しぐらい考えたほうが良いと私のような旧世代人は考え勝ちだがそれが彼らの常識だ。答は考え出すものではなく見つけ出すものと位置付けられるようになった。私とは大いに異なるスタンスではあるが迷信や憶測のような不確かなものを信じず正しい情報を求めようとする姿勢は充分に評価できる。
 天気予報が外れたと愚痴をこぼす人は少なくないが、彼らはいつ取得した予報が間違っていたと怒っているのだろうか。多くの人は前日か前々日に発表された情報に文句を言っている。天気予報は刻一刻修正されており、どんどん正確な情報になる。だから1時間前の情報であればその正確性はほぼ100%に近い。もし情報を頻繫に見直していれば間違った情報を信じる可能性など殆んど皆無になる。
 勿論、数日前に立てねばならない計画もあるからこの場合は天気予報に裏切られる可能性もある。しかし文句を言っている人の多くは当日の天気に対する不満だ。洗濯物を干したまま外出して雨に会った人だ。彼らは直前のチェックを怠っている。社会は便利になっているのにそれを活用しないから自分だけ不便を強いられている。己の怠慢が招いた結果を他人の責任にすべきではない。
 天気予報と同じように、自らによる情報チェックを怠って他者に怒る人は少なくない。情報社会の落ちこぼれの人の多くが自らの怠慢のせいで情報不足に陥っておりその責任を他人に押し付けて怒っている。情報を求めるという行動は自己責任の元で行うべきだ。正しい情報を得るための努力を怠って損をすることは、現代のような情報社会においては自業自得に当たる。これを他人の責任にはできない。

沈黙の病

2016-09-27 09:58:36 | Weblog
 一昨日(25日)突然病状が悪化した。朝起きると右胸が痛み、当初は筋肉痛かと思ったがどうやら内臓が原因らしかった。日曜日でなければ迷わずに医師に頼るところだがどこも休診なので、それまで常用していた鎮痛剤を目一杯飲んで誤魔化そうとした。しかし全然治まらず夕刻には38℃台まで体温が上がった。この時点で初めてこれが肺炎だと確信した。
 食道癌を患って以来、頻繁に肺炎を起こすようになった。食道の癌が肺まで浸潤しており、放射線治療の際にそこに穴を開けてしまったらしい。ステントの装着によってこの穴が塞がっていると思っていたが小さな穴が残っているようだ。
 苦痛の原因が肺炎と分かれば対処方法は全然異なったものになる。食道癌の苦痛は鎮痛剤で誤魔化すことしかできないが、肺炎であれば抗生物質によって治療できる。治療可能な苦痛を対症療法で誤魔化したり苦痛に耐えることは全く不合理だ。市販の抗生物質を入手しようとして薬局に電話をしたところ、そこから医師を経由して紹介状を得、病院の救急外来での受診が可能になった。診断結果はやはり肺炎であり、数日前から発症していたとのことだった。
 思い当たる節がある。22日(火)頃から体調不良だったからだ。私はこれをいつもの癌による痛みと誤解して鎮痛剤で押さえようとした。私がそう思い込んだのは病気のシグナルが隠されていたからだ。肺炎に罹れば高熱が出る。ところが24日まではせいぜい微熱程度だった.だから肺炎の可能性を考慮しなかった。これが薬の落とし穴だ。鎮痛剤が熱を下げていたために発熱という警鐘が私に届かなかった。
 私の誤解もある。総合感冒薬に代表されるように、市販薬は様々な成分をブレンドしている。だから多少的外れであってもそれなりに効く。その一方で医師が処方する薬はピンポイントで効く。私は常用している薬を鎮痛剤と思い込んでいたが実は鎮痛解熱剤でありそれが肺炎による発熱を抑制していた。
 私が薬を避けようとする理由は主に3つある。①薬に対する耐性が高まり徐々に効きにくくなる②副作用③発熱・痛みなどのセンサー機能の低下、だ。
 今回肺炎に気付かなかったのは発熱が抑えられたからだ。今のところ露呈はしていないが、痛みを抑えることによる弊害はいつ現れても不思議ではない。だから私のような治療不可能な患者以外はこんなその場凌ぎの薬に頼るべきではない。今回のケースでは治療可能な病気の兆候が抑えられてしまったために対応が遅れて悪化させてしまった。対症療法薬の多くは症状を知覚しにくくするだけであり警報器の電源を切ってしまうようなものだ。知覚されにくくなった病気は音も立てず沈黙したまま進行する。鎮痛剤(実は鎮痛解熱剤)を常用していなければもっと早い時期に肺炎であることに気付いて早期治療をしていただろう。対症療法薬は病を沈黙させるだけであり病気の進行を妨げない。独裁者による言論弾圧のようなものだから効果は持続しない。