俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

群居動物

2015-04-20 09:48:57 | Weblog
 布団の中で突然妙なことを考えた。社会契約論は根本的に間違っているのではないだろうか、と。人は自然状態に逆らって社会を作るのではなく、自然な欲求に基づいて社会を作るのではないだろうか。なぜなら人類は群居動物だからだ。
 犬が人類の友であるのは犬が群居動物だからだ。群居動物同士だから相性が良い。
 人類はホモ・サピエンスに進化するずっと以前、猿人や原人の時代から群居生活を続けていた。単独でも生きられるゴリラとは違って人類は余りにも弱かったから群居生活をしなければ食料を得ることさえできなかった。当初は「必要」であった群居生活がやがて「本能」に組み込まれた。農業を知って他の動物のテリトリーに入る必要が無くなって初めて独居も可能な動物になった。
 群居動物の変種が独居動物であり、独居動物が集まって群居動物になった訳ではない。海の一部が波飛沫であって波飛沫が集まって海になった訳ではない。
 元々群居動物である人類は社会を作るために契約などしない。本能的に群居するだけだ。人が犯罪者を憎むのは契約を破ったからではない。快適な群居生活を脅かすからだ。群居生活を一層快適にするためであれば自己を縛ることさえ厭わないのは本質的に群居動物だからだ。群の中では価値観が共有されており、契約が必要になるのは群の外と繋がらねばならない場合だけだ。
 人が道徳を好むのは快適に群居することが第一原理として潜在しているからだ。群居するために好ましいことを人は善と呼んで高く評価する。人間にとっての第一原理は、自分の欲望を満たすことではなく、快適な群居生活を営みたい、ということではないだろうか。だからこそ他人のために自分の欲望を制御できる。性愛においてさえ人は自分だけの快楽を求める訳ではない。相手が悦ぶことによってその快感は増加する。
 江戸時代までの日本人は典型的な群居動物だった。我よりも先に我々があった。だからこそ明治時代には西洋的な自我の確立が国民的課題となった。
 猫や象は死期を悟ると仲間から離れて秘かに死を迎えると言う。人類は徹頭徹尾群居動物だから死ぬ時でさえ仲間と一緒に迎えようとする。
 ホッブズからロックを経てルソーへと至る社会契約論に日本人の大半が違和感を覚えるのではないだろうか。これはキリスト教文化が生んだ妄想だろう。神は群の外にいるから神と繋がるためには契約が必要だった。神と人との契約という神話の延長として社会との契約や黙約という虚構が作られたのではないだろうか。人類とは契約する動物ではなく単に本能的に群居を好む動物に過ぎない。哲学者は群居が苦手な人が大半だったから社会性を特異なものと考えたが、共感や連帯は自然な感情であり、個別化こそ本能に背く特殊なあり方なのではないだろうか。

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