自宅と道志の日々

タイトルを「自宅と道志の日々」にしました。日記のようにつぶやいています

10分で富士登山

2021年02月07日 | なかま道志

我が家の近所に富士山があります。

徒歩でも15分くらいのところです。

昨日、運動不足解消?のために富士山に登頂してきました。

この富士山は明治14年5月境本村をはじめ近隣22町村の協力により作られ、かなり険しい傾斜がつき登山口には朱鳥居も創建されています。

さぁ~登頂開始です。

早くも一合目です。

結構急坂を上ります。

足元も滑りやすくなっていますので、注意が必要です。

やがて三合目に着きました。

更に登ると?八合目です。

やっと、山頂まで登りきれました。

手を合わせ、無病息災、元気でポックリの願かけです。

下山することにしました。

眼下には富士五湖?忍野八海?でしょうか、池が見えます。

無事下山することが出来ました。

所要時間10分です。

この富士山を造るために、周りから土を集めたそうです。

この池もそ一つなのでしょう。

社務所近くには大きな池もありました。

今では埋め立てられて駐車場になっていますが、そこからも土を運んで築きあげたかと思います。

この富士山は明治14年5月に造られいるそうです。

この神社は、杵築大社といい、今から三百五十年程前、徳川第三代将軍家光の従兄弟で、家康の二男松平秀康(越前国六十七万石領主、福井北ノ庄城々主)の三男、松平出羽守直政(出雲国松江二十九万石領主松江城々主)が、当所十二町四方を御用屋敷と定め鷹狩りをして遊ばれたところと伝えられております。

よく分かりませんが、鷹狩りの御用屋敷(番人小屋?休憩所?)として定められたのが元のようです。

御用屋敷の意味は定かではありません。

出雲の殿様、松平出羽守直政公は大変信仰厚く、当屋敷内に徳川幕府の繁栄と、天下泰平を祈願され、出雲の杵築大社(現在の出雲大社)と稲荷様を御創建された。とのことです。

したがって、由緒ある杵築大社なのです。

この日は中学校等の受験日でしたので、合格祈願にご家族の姿が見受けられました。

もう、受験などには縁が無くなった私です。

たしかに、我々は団塊の世代でしたので、受験戦争と言われる時代でした。

全てを終えて、退く世代になりました。

逃げ切り世代とも言われています。

この辺一帯は徳川家の御狩場として遊び場所だったのです。

この本殿の床下も私たちの遊び場でした。

これが当時の本殿です。

その床下に潜っては遊んでいました。

もう60年以上前のことです。

近くの私立の小学校に通っていました。

弁当箱を持っている、こうちゃんも10年くらい前に他界しています。

斉藤や吉井、広瀬もいる。

懐かしい写真です。

おっ!葵のご紋です。

徳川の石造があります。

承応年間、徳川第四代将軍家綱は、玉川上水を築き新田開発を行ったのです。

当所、松平家屋敷奉行境本䮎馬太夫は長百姓となり、境新田の開拓につとめ、子孫、境本仲右エ門は、境村の名主として村人と共に活躍したとされています。

貞享年中、当大社は御上地となり、境村の氏神社として大社様と呼ばれ、崇敬されるようになったようです。

承応年間は1637年には、島原の乱1639年 。

ポルトガル船の来航禁止1641年 。

  平戸商館を長崎出島に移した時代のようです。

約350年くらい前の時代でした。

御祭神
大國主大神(だいこくさま)
事代主大神(えびすさま)
御由緒
 当杵築大社は、三代将軍家光公の従兄弟で、出雲の松江初代藩主松平出羽守直政公の鷹狩場で、屋敷内に杵築大社(現出雲大社)と稲荷社両社を創建されて以来、本年で丁度350年武蔵境の鎮守様として、地元そして近隣の人々から厚い信仰をいただいている場所でです。
 
徳川家関係の遊び場(鷹狩り)で、私たちも遊んでいたのですね。
 
 
運動不足解消のために、参拝したと言っては罰が当たるかも知れません。
新たな生活様式は若い方々にお願いして、アナログ生活をしようと思っていますが、ブログもスマホもデジタルでした。
自宅での晩酌が唯一のアナログ生活かも知れません。
 
Hiro