存在を疑え
人間は視覚から受ける影響が全体の9割を占めるというのをどこかの本で読んだことがある。視覚から得られた存在は実存的存在であるから、まさにそれがアプリオリの真実であり、その存在を無仮定に受け入れてしまうのが人間の通常の認識である。しかし存在というのは無仮定に受け入れてしまうほど自明ではない。我々が見ている存在とは、背後にある存在のある一足面的な現象に過ぎないのである。故に我々は存在を疑うことから始めなければならない。昨今存在は重要視されず、物事の関係性を重要視する向きがあるが、その関係性を打ち崩すほど、存在論とは根本的である種絶対的な謎なのである。それ故、存在を疑うことは大いに有益である。そして存在の虚像性を我々は暴き、それを粉砕するのだ。
自分から自分を解放せよ
人にはポリシーがある。ポリシーをもって生きることは大切なことであるが、ポリシーとは経験から得られる者であって、初めから与えられたものではないから、ポリシーをもっている人は過去何らかの理由でポリシーを破って、もしくは曲げて、反ポリシーを経験した人でないと、本当の意味でもポリシーの意味を分かってはいない。人間は失敗を経験して、初めて真実の真なる物を獲得するのである。そのために自身の束縛しているポリシーを一旦捨てる覚悟をする必要がある。私は言いたい。自分が今束縛している自身の自分から解放せよと。
アラフィフ世代の結婚観
アラフィフ世代と若者世代との結婚観は違う。若者は家庭を持って、子供を育ててと、明るい将来像を描く。アラフィフ世代では、若者ほどの明るい結婚観を持つのは難しい。第一子供はもう諦めざるを得ない。やってくるのは老後の孤独である。そこで最後のシニアライフだけでも、愛する人と共に時間を過ごしたいと考える。セックスなどよりもプラトニックな関係を大切にする。要はお互い適度に礼節をもって清き関係を築き、有事には自分の身を捧げても相手に尽くすということである。ただ一つ条件がある。それは愛する人より先に死ぬことである。まるでミケランジェロのピエタのように愛する人に抱き抱えられて死ぬのである。もしこれが可能なら、私はいつ死んでも後悔はないと考える。そういう意味でも、いつ死んでも後悔しない生き方を日頃から意識することである。そしていざとなったら愛する者に全てを託すのである。骨を拾ってもらい、彼女には第2の人生が始まる。そこに私は口を挟む余地など、これっぽっちもない。後は彼女が残りの人生を好き勝手に生きてもらえばそれでよい。所詮、人生とはそんなものである。
お風呂の謎~完全密室事件~
昨日お風呂を沸かして、たっぷりお湯に浸かり、栓を抜かないままにしておき、今日は昨日のお湯が残っているからと”追い焚き”にしたら、いつまで待ってもお湯が沸かない。お風呂を見たら、栓はされえたままで、お風呂の蓋もされたまま。なのにお湯だけが忽然と姿を消していた。完全密室事件。謎だ。今日またお湯張りをし直して明日様子を見る。。。うーん。謎だ。
クリスマスイブ goo.gl/6Fzs8c
— ナカナカピエロ (@NakanakaPierrot) 2017年12月25日 - 00:17
調和写像って何だ!?わっかんねー!
— ナカナカピエロ (@NakanakaPierrot) 2017年12月25日 - 08:29
ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%BF…
【数学カフェ微分幾何回】【1/21】予習セミナー#5 を公開しました!いよいよ別テキスト「幾何学的変分問題」に入ります。 connpass.com/event/75381/?u…
— 数学カフェ (@mathcafe_japan) 2017年12月25日 - 11:29