電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『ネット王子とケータイ姫』

2004-11-18 20:46:59 | デジタル・インターネット
 香山リカ+森健著『ネット王子とケータイ姫』(中公新書ラクレ)を読み終えた。そして、実にタイミングよく朝日新聞(11月17日朝刊)で「インターネットと携帯電話の世論調査」が発表になった。それによれば、携帯電話を使っている人は64%であり、インターネットを使っている人は40%であった。携帯電話をメールに使うのは女性のほうが多く、男性は仕事で電話に使うのが多いようだ。また、インターネットは男性の利用者は46%で、女性は36%になっている。一般的な傾向としては、「ネット王子とケータイ姫」と言えないことはない。
 ただ、全体として、携帯電話もインターネットもかなりの人たちが肯定的に見ており、時代の流れに前向きな人が多い。子どもに使わせるかどうかについても、親が携帯電話やインターネットを積極的に使っている人ほど、許容度が大きいと言うのも特徴である。ある意味では、携帯電話もインターネットも生活に必要な機器になりつつあると言える。

 『ネット王子とケータイ姫』は、少年犯罪が起こるたびに、ネットやケータイが悪玉にされるが、必ずしも根拠があるわけではないので、よく考えるべきだと言う。実際、「ゲームをしすぎると『ゲーム脳』になる」とか、「テレビを見すぎると発達が遅れる」というような懸念は、科学的に証明されたわけではないが、ケータイやインターネットに対しても同じような見解がなされている。そういえば、私は、昔、「本ばかり読んでいると、現実とフィクションが区別つかなくなって来る」と脅されたことがある。どんなものでも過度になれば弊害も出てくるに違いない。

 香山リカ+森健さんは、「少女たちは自己への不安から関係性を確認するためにケータイに走り、少年たちは世界に特権的な存在として君臨できない失望を埋めるためにネットに走る」と言う。もちろんすべての少年少女がそうなるわけではない。しかし、IT機器の普及により、そうした傾向が見られることも事実だという。そのこと自体が問題ではない。社会が彼らを突き動かしているだけだ。だが、彼らがネットとケータイにのめり込んでいったときに、問題が起きる。

 ネットやケータイがつながっているかぎりは、世界を手に入れたような気にも、世界が自分に向かって語りかけてきているような気にもなれるネット王子やケータイ姫がいちばん恐れているのは、ネットやケータイがなくなることやつながらないことではない。実は、ネットやケータイがそこにあるのに、だれからも連絡がないこと、こちらから連絡してもレスがないこと、さらには自分を傷つけるような書き込みやメールを見つけることなのだ。
(『ネット王子とケータイ姫』p178)

 「ネット王子とケータイ姫にとって、ネットやケータイのない世界こそはバーチャルな世界である」という香山リカさんの言葉は、鋭い。その昔のネットやケータイのない時代は、彼らには想像もできないような世界であり、ロビンソンクルーソーのような孤島に隔離された世界に違いない。つまり、彼らにとって非日常的な世界こそ、ネットやケータイのない世界なのだ。

 でも、せめておとなにもわかってもらいたい。子どもにとってネットやケータイは、どれほどなくてはならないものか。そこがどれだけ大切な居場所になっているか。そして、それを取り上げただけで、子どもたちはすぐに現実の中に居場所や自分の存在価値を見つけることができるわけではない、ということを。(同上・p180)

 そういうわけで、香山リカさんは、親や教師に次のような提言をしている。

①子どもとネット、子どもとケータイについての専門家、企業、役所の発言は、まず疑ってかかれ。
②他人の発言を信じずに、自分の責任で言いたいことを言えばよし。
③新しい学術的知見には、敏感であれ。場合によっては自説を変える柔軟性も必要。
④ネット、ケータイを禁止したあと、自分の子どもは何をするか。それを具体的にイメージできないうちは、禁止すべきではない。
⑤新しい技術をてにした人間を、後戻りさせることはできない。


 不思議なことだが、もう後戻りすることはできない高度情報社会の中で、ネット王子やケータイ姫に対して親ができることは、リアルの世界で適切な社会的振る舞いをしてみせることである。ネットもケータイも既にリアルの世界の一つの事実である。私たちが、ネットやケータイをどのように使いこなしているのかが、今問われているのかも知れない。
コメント (1)
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