電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

ベートーヴェンの交響曲第1番ハ長調

2011-01-04 21:17:04 | 生活・文化

 久しぶりに、ゆっくりと、ベートーヴェンの交響曲第1番を聴いた。通勤電車の中や、散歩しながら、Walkmanで聴いていたときとはまた違った味わいがある。確かに、ベートーヴェンが、最初の交響曲をハ長調で作ったというのは、ベートーヴェンらしいと言えないこともない。まず、基本の調から始めて、すべてをとらえてみせると言う心意気が感じられる。そして、すべてから独立した、純粋音楽としての交響曲を作ったのだという自負が感じられる。勿論、ここからベートーヴェンは、更に交響曲を進化させて、9番まで作ることになるが、これはこれで、完璧にできあがっているという印象だ。

 音楽は、踊りや、歌や、祈りとともの発展してきた。私たちは、コンサートに行って音楽を鑑賞するとき以外は、ほとんど何かとともに音楽を聴いていると言っても良いくらいだ。バッハやモーツァルトの時代は、教会や舞踏会やまたは宮廷で貴族の集まりのBGMとして音楽は演奏されていた。特にモーツァルトの音楽は、そのために明るくて、軽やかであり、また、音が一定の大きさになっていて、ベートーヴェンのような極端な強弱がない。私が通勤電車の中で特にモーツァルトの音楽を聴いているのは、そのせいもある。ベートーヴェンの場合は、電車の音にかき消されて所々で音が聞こえなくなってしまったり、あまり大きくて慌てて、音量を下げたりしてしまうことがある。それに対して、モーツァルトの音楽は、とてもよく聞こえるのだ。

 勿論、バッハやモーツァルトは、BGMとして音楽を作ったわけではなく、それ自体を楽しめるように音楽を作ったのであり、始めてそうした音楽を作り始めたという意味で、今でも古典として残っているのである。むしろ、バッハやモーツァルトは、純粋音楽としての音の楽しさを私たちに示してくれたのだ。バッハの無伴奏チェロ組曲や、モーツアルトのピアノソナタを聴いていると、音の不思議さ、美しさ、楽しさよく分かる。まさしく、人工的な音の流れが、一つの世界を作っているのが感じられる。そこには、意味など何もないのに、一つの世界が、確かにあるのだ。

 これに対して、ベートーヴェンは、純粋音楽の中に、ある意味を込め始める。あるいは、音が意味を帯び始めたという風に行った方がよいかもしれない。つまり、バッハやモーツァルトより前の時代は、音楽ははじめから意味を持っていた。それは、踊りの伴奏であったり、宗教音楽であったりしたのだから当然だ。バッハやモーツァルトは、そうした意味を取り外し、純粋に音楽としての楽しさ、美しさを取り出そうとした。それに対して、ベーテーヴェンは、そこに新しい意味を込め始めたように思われる。それが、「皇帝」とか「運命」とか「田園」とか名前をつけられていくゆえんだ。しかし、この交響曲第1番は、そうした意味がない。まだ、バッハやモーツァルトと同じ純粋音楽としての美しさと楽しさがある。

 ただ、モーツァルトと同じように純粋音楽だといっても、ベートーヴェンらしさというものが確かにある。モーツァルトの持っていた、メロディーのようなもの、歌のようなものが消えて、楽器の個性による構造的なもの、器楽的なものになっている。モーツァルトの交響曲とベートーヴェンの交響曲は明らかにそれぞれ個性的である。そして、そこには、確かに時代と宿命が刻印されているようにも思われる。小林秀雄は、モーツァルトを選んだが、私は、なぜか、ベートーヴェンのほうに惹かれる。特に、交響曲は、ベートーヴェンのほうが、好きだ。そして、この1番は、聴けば聴くほど、味わい深い。まさしく、ベートーヴェンはここから出発したのだ。

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