野本響子著『いいね!フェイスブック』(朝日新書/2011.4.30)を読む。とても読みやすくて2日で読み終えてしまった。フェイスブックというのは、アメリカで生まれた今はやりのSNS(Social Network Service)のことである。もちろん私も利用している。今まで読んだフェイスブックの入門書の中で、一番分かりやすく親しみやすい。たぶん、それは、著者のフェイスブックを利用しているスタンスが、分かりやすいからだと思う。樺沢紫苑著『Facebook仕事術』(サンマーク出版/2011.3.25)という本もいい本だが、これは、やはり、フェイスブックを使い込み、それでビジネスをしている人という立ち位置がはっきり現れている分、たぶん、普通の人は少し抵抗があるに違いない。
野本さんは、「あとがき」で、「友達は増やしすぎず、知り合いだけを承認するというスタイルで、ゆるく関わっていくつもりである」と述べているが、この立ち位置がいい。そういう野本さんだから、次のようなことに興味を感じるのだと思う。
では、削除も利用解除(停止)もしないまま、現実世界で死亡してしまったら? 実はアカウントが残るのだ。
友達が「亡くなった」ことをフェイスプックに知らせると、亡くなったユーザーは「追悼アカウント」になる。
迫悼アカウントは、その人のお墓のようなもの。ログインはできなくなり、友達だけがプロフィールを見られるようになる。追悼アカウントになった人のウォールには、家族や友達が追悼メッセージを書き込める。
人の生き死にまで考えて作られているフェイスプック。とことん、現実世界の人とのやり取りを写し取る仕掛けが施されている。
(野本響子著『いいね!フェイスブック』(朝日新書/2011.4.30)p119)
利用解除の話は、誰でも触れるが、もし、自分が使い続けて死んでしまったらどうなるだろうという興味の持ち方は、おもしろい。この本では、勿論、第2章で、フェイスブックの基本的な使い方について書いているが、それはそれで、さし当たり使うには十分な内容であるが、フェイスブックは常に変化しているので、基本的なこと以外は、役に立たなくなってしまう。その意味で、フェイスブックの特色を中心に書かざるを得なくなっていている。そして、誰もが、フェイスブックを使い始めて突き当たる次ような問題をいちばん大きな問題として取り上げているのも適切な解説だと思った。
しかし、人は自然と顔を使い分けている。会社での顔、家庭での顔がまったく同じ人のほうが少ないのではないだろうか。これまで上手に使い分けていた人は、両方に同時に見せる自分を作ることに疲れてしまうかもしれない。一般に人は年齢を重ねるほど、社会的な立場が強くなればなるほど、見せる顔が増えていく。これは、社会人ではなく現役の「学生たち」が作ったフェイスプックならではの問題かもしれない。フェイスブックが成長していく段階でも、やはりこの問題は議論されている。
大人のユーザーには「自分用のプロフィール」と「楽しめるソーシャル用プロフィール」の両方を用意すぺきだという声もあったが、フェイスプックの創設者でCEOであるマーク・ザッカーパーグは常に反対した。「仕事上の友だちや同僚と、それ以外の知り合いとで異なるイメージを見せる時代は、もうすぐ終わる」と彼はいう。「2種類のアイデンティティーを持つことは、不誠実さの見本だ」(『フェイスプック若き天才の野望』より)
このザッカーバーグの言葉は興味深い。果たして、彼の言う通りに、フェイスプックの登場で世界はより誠実になっていくのだろうか。
(同上・p92)
ここのところは、本当は、もっと、考えてみる必要がある。「建前」と「本音」には、二つの使われ方がある。一つは、表側の意味と裏側の意味ということであり、意識された世界と無意識の世界と言い換えてもいいかもしれない。もう一つは、公私という意味だ。マーク・ザッカ―バーグが言っているのは、どちらかというと後者の公私のほうの意味だと思われる。まさに、公私の区別のないマークらしい言い方である。私たちは、多分、それはとても難しいことだと思われる。私は、公私両方に通用するように気を配りながらフェイスブックに書き込んでいるように思う。
つまり、リアルの世界がそうであるように、インターネットの世界でも、実名で存在する以上は、常に第三者から目撃されているということは想定されていなければならない。確かに、表現されたものは、常に「ハレ」の世界に存在しているのである。本質的には、匿名掲示板においてであれ、表現されたものは「ハレ」の世界のものである。匿名掲示板の表現は、それ故、匿名の作者のものとしてしか存在できないのだ。「ハレ」は「ケ」に対応しており、「ケ」とは、日常性である。そして、「日常性」ということは、表現されないと同じことである。それは、無意識の世界のようなものだ。
フェイスブックは「建前」の世界だ。会社や家族、親戚が見ているなか、本名で本音を語るのは難しい。だから実社会から離れたい人や、他人に気兼ねすることなく本音を語りたい人は結局匿名のSNSや掲示板を使い続けることになる。ポルノや暴力的な内容のものなど、フェイスプックの規約で禁止されているコンテンツもフェイスプックの外に置かれることになる。
もちろん、そういったコンテンツのほかにも、匿名には匿名の良さ、気楽さというものがあることを忘れてはいけない。インターネット上では、決して悪意で匿名を使う人ぱかりではない。実名を出すからには人々は自分の立場を常に意識しなくてはならないが、匿名なら、立場を明かさないからこそ、気軽に他人を助けることができることもある。インターネットの掲示板で専門家がするアドバイスだって、匿名でなけれぱ数が減るだろう。署名をして意見を言うとき、人は慎重になるからだ。
その意味で、実名制のフェイスプックと対局に位置するのは、日本では巨大掲示板の2ちゃんねるだろう。(同上・p221)
ここで、野本さんは、フェイスブックは「建前の世界」であり、2チャンネルは「本音の世界」であると言っているように見える。しかし、それは、多分、間違っている。2チャンネルの世界もまた、「建前の世界」なのだ。匿名の人が「建前」述べていると考えるべきだ。彼は、匿名であるが故に、実名の世界に戻って来ることができない。
2ちゃんねるには、匿名であるがゆえの「真実」も数多く含まれている。もちろん、匿名の掲示板でも警察が捜査すれば個人を特定することは可能だが、それでも初めから本名を出して語るより、心のハードルも低くなる。
企業の従業員による内部告発や、いじめられている子ども本人へのアドバイスが書けるのもこういった匿名の掲示板なのである。
結局人々の本音を知るためには、匿名の掲示板を見たほうがいいということになる。だから、2ちゃんねるなどの匿名掲示板は影響力を保ち続けるはずだ。
実名を使った便利なツールの側面も持つフェイスプックとは対極の存在だが、どちらか一方しかない世界にはならない。道にも大通りがあれぱ、裏道もある。ネット・コミュニティーにもいろいろあっていいのだ。どれか一つに統一される世界のほうが気持ち悪くないだろうか。
(同上・p221・222)
最後の所は、同意するが、匿名であることは、常に「真実」ではない。それが、真実だと証明されるのは、常にリアルの世界に戻ってこなければならない。それは、2チャンネルがやっていることではない。ただ、「真実」らしく見えるだけである。ここで述べられている「本音」と「建前」の区別は、しかし、あまり適切ではない。つまり、「建前」がフェイスブックの世界で、「本音」の世界は2チャンネルというのは正しくない。もしそうなら、それは、抑圧された表現の世界が「本音」の世界だということになる。つまり、それは、「建前」の世界が、抑圧された世界であるということであり、本当のことは言えない世界だということになる。勿論、そういう世界はある。それは、独裁国家だけの問題ではない。炎上していくブログなどを見ていると、よく分かる。
フェイスブックには、大きく「個人ページ」と「facebookページ」がある。「個人ページ」は、おそらくは、「年賀状」や「暑中見舞い」の葉書の世界だと思えばよい。年賀状は、普通、家族の全員が見せ合う。最近では、家族そろった写真を印刷して送ってくる人が増えた。これなど、まさしく、フェイスブックで代用されそうな世界だ。そして、こうした人たちは、「仕事上の友だちや同僚と、それ以外の知り合いとで異なるイメージを見せる時代は、もうすぐ終わる」というマーク・ザッカ-バーグの言葉を実践している人たちだということができる。
ところで、こう書いてくると、フェイスブックの世界というのは、年賀状の自分の家族の写真を平気で載せられるようなプライベートをかくす必要のない場合しか上手く使えないもののように見える。野本さんの使い方は、基本的にそこまでを推薦している。彼女の節度は、そこまでについてなら、使った方がいいですよといっているのだと思う。それが外のフェイスブック推奨者と野本さんの違いであり、野本さんの良さだと思う。
しかし、フェイスブックの進んでいる道は、多分、もっと過激な内容を含んでいるように思われる。野本さんが引用しているデビット・カークパトリック著『フェイスプック若き天才の野望』(日経BP社/2011.1.17)によれば、アメリカでさえ、企業の中での使いかたはぎこちないという。多分それは、インターネットの世界が、一種の広場だからだと思う。つまり、フェイスブックの世界とは、生産者や消費者という立場を棄てて市民として立つことを強制するからだと思われる。それが、「建前」ということの本当の意味だ。
私たち普通の人が実名で不特定多数に表現するということは、すべての個人がある意味で自分の物語を表現するということを意味する。それは、文字通り作家と同じである。だから、会社や家族の中の出来事でも、ここに書くことにより、会社や家族の世界を越えて行くのだ。それは、ブログやツイッターの世界でも同じことが言える。ただし、ブログやツイッターは、登録者が個人とは限らない。しかし、フェイスブックは、あくまでも実名の個人が自分のページを持つのである。ここがポイントだと思う。個人として、表現を背負っていく人間を私たちは作家と呼ぶ。だから、フェイスブックの登録者は、すべての人が、自分の物語を作り上げて行かなければならない。それができなければ、多分フェイスブックは、名刺代わりであり、年賀状や暑中見舞いとなるだけだと思う。
戸惑ったことがふたつあり、ひとつは操作性そのもののわかりにくさでした。決して素人に親切なつくりになっているとはいえません。こちらに関しては頼れるサポーターがいて一歩一歩進んでいます。
もうひとつのもやもや感について、この記事を読んでそういうことかと気づきました。
私も複数の顔を持っているひとりです。どの顔のあたりに照準を置いてFacebookという社交の場に参加していけばいいのか、つかめないままスタートしています。
それによってセキュリティの設定なども変わっていくのでしょう。
>2種類のアイデンティティーを持つことは、不誠実さの見本だ
というザッカーバーグの言葉に全く賛成できません。
現時点ではWebでのコミュニケーションに慣れた人やビジネスでの活用を前提にした人が多数を占めるように感じられます。普及が一層進むと日本人にとってのFacebook文化が醸造されていくのでしょうか。
アメリカなどで利用されているように、普通の人の場合、就職の履歴書やおつきあいする人の履歴書として使われるという風になってしまうのかもしれませんね。もともと、それがfacebookの由来ではあるのですが。
近況報告をシェアすると、友達全てに伝わってしまうというのは、便利であると同時に、恐ろしいことです。
私に気になっていることが一つあります。それは、誰もがfacebookを使うようになったとき、どこまで友達として認めるかということです。人によっては、どうして、私を友達にしてくれないのかと、言う人が出てくるかもしれません。私たちは、どのようにして、友達を選別してよいのか分からなくなってくるのではないかということです。
現在、私は、現実の世界で会って、話をしたことがある人ということにしていますが、誰もが、facebookを使うようになったら、そういう限定では、処理できなくなります。そして、友達リクエストが来たら、断れなくなってしまうということが起きるかもしれません。
まあ、そのころは、おつとめも終わっているので、私としては、この人友達にするのはいやだと言って断ってしまうつもりですが。
おそらく、新しいfacebook文化ができていくと思います。