水に降る雪

おもに宝塚、そして日々のこと

舞台「blue egoist」②

2024-12-20 | OG

続き。

ネタバレしてます。

 

 

 

 

 

 

 

出て来る登場人物それぞれ心に大きな傷があり、葛藤を抱えながら生きている。

それは人の世に古くからある様々な問題と、最近の問題とを、観る側に投げかけてくるんですが。

 

観ていて一番辛かったのは、鬼の子の話です。

いつも鬼の面を被ってるその子は初めは何も喋らなくて。

でも狼男さんのギターに合わせ少しずつ話すようになり、歌い始めるんですよ。

そしてわかったのは彼が人間の子であるということ

人ではない異形の者たちの中に一人だけ人間がいる!捨てられた子どもが

 

 

実は初見の時、その歌を聴いて凄く嫌な気分になりました。ガッカリした、というか。

「お母さん、お母さん、置いて行かないで」って綺麗な声で歌うんです

 

これだけ尖ってて、世界に向けて問題提起してくる攻めた作品なのに、「お母さん」なのか~と

お父さんは?なんで「お父さん、お母さん、置いて行かないで」じゃないの?と。

 

でも配信を見て気づきました。

拾って育ててくれた鳥男さんのいるゴミ捨て場に、その子は歩いてきたと言ったんです。

そして母親と暮らしていた頃、周りに好奇な目で見られ、ひそひそと陰で色々言われていたことを覚えてるんです。

ということは逆に言うと、そのころまでは母親もなんとか育てようとしていたのではないのか。

そして父親の記憶が無いということは、その時すでにいなかった生まれる前か生まれた後に、母親は捨てられたのでは

 

誰の助けも無く困窮し、精神的にも疲れ果てて絶望し、子どもを置き去りにしてしまったとしたら、

社会は彼女を責められるだろうか

 

 

現実世界でもよくあります。妊娠がわかった途端に女を捨てる男。

あるいは重い障害があったり、見た目が普通でない奇形の子どもが生まれると

それを受け入れられなくて離婚を言い出す男。自分の子どもなのに。

 

そして母親は子どもを抱えて困窮し、捨てたり殺したりして逮捕されたり、裁かれたりする。

頻繁にニュースに流れますよね?それらのニュースを見るたびに「父親の責任は?」っていつも苦々しく思うんです。

母親を罰するなら、父親も同じように罰しなければ不公平ではないかと。

 

日本は男がやり逃げ出来る社会なんですよねそれは半世紀以上前から、全く変わっていない。

フランスのように子供が生まれたらDNA鑑定をして父親を特定し、結婚してもしなくても養育費を払わせる制度を作らなければ、

子どもを産みたがらない女性は増える一方では?と思います。

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舞台「blue egoist」①

2024-12-20 | OG

今更感がありますが舞台「blue egoist」について。

新宿での制作発表パフォーマンスの映像を見て「ぅわぁ、めっちゃカッコイイ」「観た~い」となり

チケット取って行ってきました大阪公演どういう内容なのか全くわからないまま

 

 

斬新で尖っていて、こんな演劇もあるんだという感じでインパクトがありました。内容は重かったですけど

映像も含め先進的でスタイリッシュな演出と、古典的でアナログな演出の組み合わせが面白いな~と思いました。

まぁ人が演じているという時点でアナログなのかもしれませんが

音楽やダンス、セットの使い方もめちゃくちゃカッコ良くてテンション上がりました

 

かいちゃん(七海ひろき)目当てで行って、オペラでロックオンするつもりだったのに、

みんなカッコイイからみんな観たいになって、始まって一瞬でオペラを諦めました。2階最後列だったのに

というわけで大楽の配信を買う羽目に。買って損はしませんでしたけどね~

 

大楽の配信があったのは助かりました。

配信は東京だけということが多くて、地方公演の後には配信が見れないということが結構あるので。

観劇してから配信を見たいという人間なので、ホント有難かったです

(最近配信買いすぎじゃない?は置いておいて

見るたびに新しい気付きがあって、見終わってもいろんなことを考えてしまう作品でした。

ネタバレしています。

 

 

 

 

 

 

 

ぼんやり予想していた範囲内からは、完全に外れてましたね

確かにライブパフォーマンス✖ダークファンタジーでした。

シュールでブラックで難解なお伽噺。

どんな作品も観た人(読んだ人)によって、違った感想になるのは当たり前ではあるんですが。

登場人物それぞれの過去、現在、未来、そして全員の出会いと別れの意味を、いくらでも考察出来てしまう。

それが出来るのはお伽噺だからこそかなと思います。いろんな解釈が出来る余白があるからかと。

 

 

ざっくり言うと、世界から存在をスルーされ疎外されてきた、人ではない異形のものたちが出会い、

人の世界で居場所を見つけ、SNSなどでバズったりして楽しく暮らしていたのに、ある事件が起きたことによって

今度は一転バッシングの嵐に。仲間うちに亀裂が入り、結果としてバラバラになってしまうというお話。

 

 

人類が生まれてからずっとある普遍的な問題に、現代的な問題も無理なくストーリーに取り込んでるのが凄いなと思います。

同族からもいじめられたり、はじかれたりして居場所が無かった者たちが、やっと見つけた居場所。

なのに鬼の子は「人のフリ」をして楽しく過ごしていることに疑問を持ってしまう。

それは偽り。本来の自分じゃない。

なんでそのままの自分を受け入れてくれないの?なんで自分たちは我慢しなきゃいけないの?それは悲しい問いで

 

確かにそのままの自分を受け入れてほしいというのはわかります。人間社会でもあるあるですものね。

ただ大なり小なりみんな我慢してるのが社会というものなんだよ、としか言えないかな

人を殺傷したい、他人の物を盗みたいという衝動は、社会で生きていく限り許されない。

お互いに譲り合って生きていくしかない。

 

 

これからどうする、となった時、吸血鬼さんが街に来る前にいた「森へ帰ろう!」と提案しますが、

蜘蛛男さんは反対します。「一緒にいない方がいい。」「また誰かを傷つけてしまう。」

割とキレやすいキャラですが、本質は優しいみたい

諍いが起きた時に仲間を傷つけてしまったことで自分が傷ついている。

それに対して吸血鬼さんは「嘘でもいいから」「また森で会おう」と言うんですよね

 

「ウソでもいいから」

 

楽しい時間は確かにあった。

その思い出を胸にそれぞれ旅立っていくけど、またどこかで会えるかもしれない。

森へ行ったら誰かが待っていてくれるかもしれない。

そしてみんなで笑いあえる日がくるかもしれない。

 

そんな希望を残した終わり方でした。

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