伝統と近代化のはざまに苦しむ辺境の女性
ペマ・ツェテン監督『羊飼いと風船』
越川芳明
ここはヒマラヤ山脈の北に広がるチベット自治区の高原地帯。辺境に暮らすチベット族はだいたいが伝統的な牧畜に従事しているという。
本作に登場するのは三世代にわたる家族で、現代のチベット族の典型的な家族と言えるかもしれない。父タルギェと妻ドルカル、タルギェの老父、そして子供三人である。
冒頭で「中国政府は、一九八〇年代から家族計画を実施した」というクレジットが流れる。中国の人口動態に詳しい若林敬子によれば、中国が一人っ子政策を始めたとき、チベット自治区の遊牧民の少数民族は四人まで子供を持つことを許されていたらしい(「中国少数民族の人口研究序説」国立社会保障・人口問題研究所、一九八八年)。
そうした家族構成の変化は、牧畜の働き手としての子供をたくさん産むことを義務づけられた女性たちの意識をも変化させる。夫にタバコや酒以外に気晴らしがないように、妻ドルカルも、日常の家事の他に羊の世話で忙しく余暇を楽しむ余裕などはない。だが、夫婦は乏しいお金を使ってでも子供たちに教育を受けさせようとする。
この家庭でも長男ジャムヤンは、家を離れて都会の寄宿中学校にいる。親たちは牧畜以外の仕事に就かせようとしているのかもしれない。
伝統的な暮らしの変容と言えば、昔は交通手段として馬を使っていたが、今では、タルギェもドルカルもオートバイを乗りまわしている。これは近代化の象徴なのかもしれないが、何千年と続いてきた遊牧のための土地が国家戦略で縮小させられて、狭い土地に定住せざるをえなくなった結果、わざわざ馬で移動する必要がなくなったのだ。
映画には一貫してチベットの「伝統と近代化」というテーマが流れている。その一つの変奏として、宗教と科学の対立がある。チベット族に根づく仏教の教えと、医療の浸透とが時にはげしくぶつかりあう。
仏教の教えを説くのは、妻ドルカルの妹シャンチュと老父である。シャンチュは恋愛に破綻をきたし出家して尼僧になっている。お寺の本堂の修理がおこなわれることになり、近隣の住民たちに寄進を募りに帰ってくる。
かたや字の読めない老父は、羊の皮をなめすときにもひたすら呪文を唱えている。これは、観世音菩薩の慈悲を説くマントラ(真言)の一種で、チベット語で六文字となることから「六字真言」ともいわれる。これを飽きずに一億回唱えると成仏して、その後、この世の誰かに転生できるという考えだ。この二人によれば、長男は亡くなった祖母と同じホクロが背中にあるので、祖母の生まれ変わりだという。
一方、科学を代表する人物は、ドルカルが避妊手術を頼みにいく診療所の女医だ。女医は、自分には子供が一人しかいないが、それでもなんの不都合もない、とドルカルに告げる。都市社会で男性と対等に生きている、合理的な現代人である。四人目の子を宿したドルカルに中絶を勧める際も、まったくブレがない。科学の「進歩」というイデオロギーを信奉しているからだ。
かくして、ドルカルはその胎児が急死した老父の生まれ変わりであると信じる妹や夫、長男から産むように言われ、一方、女医からは産んではいけないと言われ板挟みにあう。
ところで、ツェテン監督は漢語とチベット語の両言語で書くことのできるバイリンガル作家である。本作は彼自身の小説を映画化したものだ。それは『すばる』二〇二〇年三月号に、大川謙作によって翻訳された「風船」である。大川の解説によれば、小説は漢語で書かれているというが、映画はチベット語である。ツェテンは「チベット語母語映画の創始者として国際的に名高い映画監督」だという。
両言語に堪能であるということは、漢族とチベット族の双方を外から見られるということで、「他者」の視点を生かした創作が可能になる。たとえば、ドルカルの中絶についても、ドルカルの深い悩みに寄り添う。決して「宗教」や「科学」のイデオロギーのどちらかにくみしたりしない。
さて、原作と映画とでは、大きく異なるシーンも出てくる。ここでは三つだけ取りあげておこう。一つは、尼僧になった妹シャンチュだが、小説では尼僧になった動機は明かされないが、映画でははっきりと男女関係のもつれが原因であるとわかるようになっている。相手の男性が長男の学校の先生として登場する。
辺境に暮らすチベット族は、従来、未婚率も高かったといわれるが、この二人のエピソードは、都市に暮らすチベット族の現代の「家族問題」、とりわけ自由恋愛と離婚に言及しているのだろうか。
二つめは、長男を都会の寄宿学校に連れていった後に、タルギェが雨の中しばし文成公主(ぶんせいこうしゅ)の大きな像の前で佇むシーンである。文成公主は、七世紀の唐の時代に、中国からチベットに嫁いできた女性で、チベットと唐との和親に貢献したと言われる。だから、このシーンは遊牧民のチベット族文化を代表するようなタルギェが、中国文化(妻の中絶の決断)を理解しようとした瞬間なのだろうか。
三つめは、父親が町で買ってきた赤い風船が空に飛んでいってしまうシーンだ。小説では、飛んでいく風船を眺めるのは子供たちだけだ。父親にねだってせっかく手に入れたものなのに、取り合いをしているうちに飛んでいってしまう。その風船には、子供たちの後悔や失望、父親の徒労感が重なるような気がする。
一方、映画では、子供たちだけでなく、登場人物たちのほとんどが空を見あげている。僕には、飛んでいく風船は亡くなった老人の魂、あるいは、老人の「生まれ変わり」として生まれてくるはずだった赤子の魂の象徴のように思える。ドルカルは中絶するが、その後、妹に連れられて山籠りを決心するので、女医と違ってドライでなく、死者の霊魂は信じている。
最後に特筆すべきことに、チベットの大自然の美しさをことさらに誇示するような映像が一切出てこない。むしろ雨にぬかるんだ舗装されていない道路や布団をしまう場所もないほど手狭な家の中など、地を這うリアリズムの手法で撮られている。そんな中で、この風船の飛んでいくシーンだけはあまりに幻想的で、一瞬だけ観客に想像する機会を与え、多義的な解釈の余地を残す。
牧畜に従事するチベット族の女性の生きづらさに焦点を当てながら、国家戦略としての近代化のしわ寄せを食ってしまう辺境に暮らす女性たちにも思いを寄せることができる素晴らしいボーダー映画である。2625字 6枚半 ゲラで25行オーバー。
『すばる』2021年1月号に加筆。
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