月面に降り立ったとき、ニールが最初に発した言葉は、
「ヒューストン、こちら静かの基地。イーグルは着陸した(Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed.)」
であった。もっとも実際に月面に着陸した瞬間に乗組員が発した言葉は、オルドリンの「接触灯が点灯した(Contact Light.)」だった。着陸脚には長さ1.5mのセンサーが取りつけられていて、先端が月面に接触すると船内の表示灯が点灯するようになっている。オルドリンは手順に従ってそう言ったまでのことだった。その3秒後には再びオルドリンが「オーケー、エンジンストップ(Okay. Engine Stop.)」と言い、ニールが「エンジン停止(Shutdown.)」と答えた。この直後、二人は握手して成功を祝っただけで、すぐさまマニュアルに従い、不測の事態が発生した時に備えて月面から緊急脱出する準備を始めた。
月面への第一歩
月面に足を踏み降ろすアームストロングNASAの飛行手順では、乗組員は船外活動(EVA)をする前に休息を取らなければならないことになっていたが、ニールは休息を取りやめてEVAをヒューストン時間の夜に行うよう要求した。とてもではないが、眠ってなどいられなかった。管制センターは要求を受け容れ、二人はただちに宇宙服を着て船内を減圧した。ハッチを開き、はしごを下り、左足を月面に踏み降ろしながら、1969年7月20日2:56(UTC)、アームストロングは次のように言った。
これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。
(That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.)
【右上の動画中のアームストロングの発言内容】
I'm, ah... at the foot of the ladder. The LM footpads are only, ah... ah... depressed in the surface about, ah.... 1 or 2 inches, although the surface appears to be, ah... very, very fine grained, as you get close to it. It's almost like a powder. (The) ground mass, ah... is very fine.
いま着陸船の脚の上に立っている。脚は月面に1インチか2インチほど沈んでいるが、月の表面は近づいて見るとかなり…、かなりなめらかだ。ほとんど粉のように見える。月面ははっきりと見えている。
I'm going to step off the LM now.
これより着陸船から足を踏み降ろす。
That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.
これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。
ニール自身も認めているが、このとき彼は間違えて不定冠詞の "a" を省略してしまった(one small step for man)。確かにこの用法だと、man は「人類」の意味になってしまう(直訳すると、『これは人類にとって小さな一歩だが、人類にとって偉大な飛躍である』になる)。しかし彼は、「歴史が私の言い間違いを許し、人類が一つになる方向に向かって進むことを希望する」とも述べている。
一方で音響分析の専門家の中には、失われた「a」の存在を主張する者もいる。オーストラリアのコンピューター・プログラマー、ピーター・シャン・フォードは、「アームストロングは実際には "a man" と言っていたのだが、当時の通信技術には限界があったため "a" は録音されなかったのだ」と分析している。フォードと、ニールの伝記の著者であるR.ハンセンは、この分析結果をニール本人やNASAの代表者たちに提示した。フォードの論説は自身のウェブサイトでも紹介されているが、言語学者のデビッド・ビーヴァーやマーク・リバーマンはこの意見に懐疑的である。ニール自身は、文章に書くときは「one small step for "a" man」とカッコをつけて表記することを好んでいる。
月面に第一歩を記そうとしているアームストロングニールの声明は、「これより着陸船から足を踏み出そうと思う(I'm going to step off the LM now.)」の後に発せられた。それから彼は後ろを振り返り、左足を月面に踏みおろした。彼の言葉はVOA(ボイス・オブ・アメリカ、アメリカ合衆国政府が公式に運営する国営短波ラジオ放送局)から、BBCをはじめ数多くの放送局を通して、世界中に発信された。当時の世界の人口36億3,100万人のうち、およそ4億5,000万人がこの言葉を聞いたとされている。
「小さな一歩」のくだりについては、ニールはロケットが発射してから月面に着陸するまでの間に、何度も練習していたという。
ニールから遅れること15分、オルドリンも月面に降り立ち、月に行った二番目の男になった。両名は、月の表面では人間はいかに身軽に動けるかということを実感しながら、予定されていた各種の行動を始めた。はじめに彼らの飛行を記念したプレートを月面に置き、次に星条旗を立てた。この旗は宇宙空間でも展開できるように中にワイヤーが入っていたのだが、旗竿を十分に伸ばすことができず、また旗自体もきつく折りたたまれていたため、真空中であるにもかかわらず、たなびいているように見えてしまった。地上では国旗を立てることに関する是非を問う声もあったが、ニールはそんなことは全く気にしていなかった。旗を立てている最中、スレイトンが緊急連絡が入っていることを知らせてきたが、彼はわざとそれがニクソン大統領からのものであることは伏せておいた。
着陸船の傍らで船外活動をするアームストロング。彼を写した5枚の写真の中の1枚オルドリンは旗を立てるのに手間取り、おまけに大統領から予定外の電話が入ってきたため、写真を撮る暇がなくなってしまった。全計画を通じて撮影された写真のうち、月面で活動するニールをとらえたものは5枚しか残されていない。オルドリンは後に語っているが、この計画の主目的は月面でのニールの写真を撮ることだったのだが、大統領の電話で予定が狂い、むしろ自分が撮影された写真のほうが有名になってしまったという。このハプニングのために、予定が5分遅れた。彼らの行動は分刻みでスケジュールされており、ぐずぐずしている暇はなかった。なお11号の月面活動の写真のほとんどは、ニールが持っているハッセルブラッド社製のカメラで撮影された。
科学実験装置を設置した後、ニールは着陸船から60m東にあるイースト・クレーターまで歩いて行った。今回の計画で、着陸船から最も遠くに離れる行動であった。彼の月面における最後の任務は、ユーリ・ガガーリン(ソビエト連邦出身の史上初の宇宙飛行士。この前年の1968年3月27日に飛行機事故で死亡)、ウラジミール・コマロフ(同じくソ連の宇宙飛行士。1967年4月24日、ソユーズ1号の墜落事故で死亡)、そしてアポロ1号の火災事故で亡くなったガス・グリソム、エド・ホワイト、ロジャー・チャフィーらの業績を称えた記念品を収めたパッケージを、月面に置いていくことであった。11号の月面での船外活動の時間は2時間半ほどで、全6回のアポロ月面着陸の中で最も短いものだったが、この後の5回のミッションでは徐々に延長され、最後のアポロ17号では合計21時間に達した。
地球への帰還
船外活動を終え、着陸船に戻りハッチを閉めたとき、彼らはかさばった宇宙服で上昇用ロケットエンジンのスイッチを壊してしまっていたことに気づいた。エンジンが点火できなければ、地球に帰還するのは不可能になる。そのためオルドリンはボールペンの先でスイッチを入れ、ロケットが上昇している間もずっとそれで押し続けていた。司令船とのランデブーとドッキングにも成功し、3人を乗せた司令船は7月24日16:50:35(UTC)、無事太平洋上に着水し、空母ホーネット(USS Hornet)に回収された。
11号の飛行士たちと会見するニクソン大統領帰還後ただちに、月から病原菌やウィルスを持ってきていないかを検査するため、特殊な病棟に18日間隔離された。異常がないことが確認されると、3人は「偉大な飛躍(Giant Leap)」ツアーと銘打った親善旅行で、45日間にわたって全米や世界各国を訪れた。1969年、コメディアンのボブ・ホープとともにベトナム戦争に従軍する兵士たちの慰安に訪れた際には、「我々が戦場に縛りつけられている最中に、どうして月に行く必要があるのか」という質問を浴びせられたこともあった。また三流紙の中には、この時同行していた歌手で女優のコニー・スティーブンスとの関係を取りざたするものもあったが、根も葉もないことであった。
1970年5月、ニールはソ連で開催された第13回国際宇宙調査委員会に出席した。ポーランドからレニングラード(現サンクトペテルブルグ)に向かう途中、モスクワでコスイギン首相(当時)とも面会した。彼は西側の人間として初めてツポレフTu-144の現物を見て、そのあと「自然の中に造られた、ちょっとヴィクトリア朝風の建物(ニール談)」の、ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士訓練センターを訪れた。その日の終わりに、ソユーズ9号発射のスロー映像を見せられたが、そこに搭乗しているアンドリヤン・ニコラエフ飛行士は、いま目の前で彼をもてなしているヴァレンチナ・テレシコワ(世界初の女性宇宙飛行士)の亭主であることを知らされて、少なからず驚いた。
アポロ計画後の人生
教育
パデュー大学ニール・アームストロング技術会館
1999年7月16日、ケネディ宇宙センターで講演するアームストロングアポロ11号の飛行を終えてしばらく経ってから、ニールは宇宙飛行士を引退することを表明した。彼は、国防高等研究計画局(Defense Advanced Research Projects Agency, DARPA)航空部門管理者協会副会長への就任を要請されていた。もっともこのポストにとどまっていたのは13か月だけで、1971年8月にはNASAからも退官し、シンシナティ大学で航空宇宙工学の教鞭を執った。
彼はシンシナティだけでなく、母校のパデュー大学でも教壇に立つことを決めた。パデューの航空宇宙学部は規模が小さいし、博士号を持っていない自分が他の有能な人材を差し置いて教授になることで、余計な波風を立たせたくなかったからである。彼が持っている最高の学位は、南カリフォルニア大学で得た航空宇宙工学の修士号であった。ニールはかつてエドワーズ空軍基地に配属された時に航空宇宙工学の勉強を始め、アポロ11号の飛行を終えた今、「アポロ計画に関する様々な見地」というテーマでようやく修士論文を提出することになった。
シンシナティ大学での彼の公式な立場は「航空宇宙工学教授」であった。そこで8年間学生たちを指導した後、他からの誘いもあり、また大学も自治大学から州立大学に改変されることにともなって、1979年に同校を退職した。
NASA事故調査委員
ニールは二つの宇宙船事故の事故調査委員を務めた。初めは1970年に起きたアポロ13号に関するもので、エドガー・コートウェイトが調査報告をする際、彼は飛行記録の詳細を提示した。彼は個人的には、事故原因となった機械船の酸素タンクの設計を根本的に見直すべきだとする報告書の勧告には反対だった。1986年には当時のレーガン大統領から、この年に起こったスペースシャトルチャレンジャー号の爆発事故を調査するロジャー委員会の副委員長に任命され、委員会の執行を任された。
実業家としての活動
1971年にNASAを退官した後、いくつもの企業から誘いの手があったが、初めのうちはいずれも断っていた。最初にニールとの契約を獲得したのはクライスラーで、1979年1月から宣伝媒体となった。彼は同社は製造部門は強いものの、財政的に困難を抱えているのではないかと考えていた。クライスラーの他には、ゼネラル・タイム・コーポレーションや全米銀行協会など、アメリカを代表する企業のCMに出演した。
CMの他には、マラソン・オイル、リアジェット、シンシナティ・ガス&電力会社、タフト・ブロードキャスティング、ユナイテッド航空、イートン・コーポレーション、オール・システムズ、サイオコールなどの企業で経営に参加した。特にサイオコールに参加したのはロジャー委員会の副委員長を務めた後のことで、チャレンジャー号の事故の原因は、同社が製造した固体燃料補助ロケット(SRB)によるものであった。2002年、エド・コーポレーションに勤めたのを最後に、企業経営からも引退した。
個人的側面
人類で初めて月面を歩いた男に対しては、民主・共和両党からアプローチがあったが、宇宙飛行士から上院議員に転身した先輩のジョン・グレンやハリソン・シュミットらとは違い、ニールは政治的な誘いは一切断った。彼は個人的には「合衆国の正義」を支持し、アメリカが「世界の警察官」として行動することには反対であった。1971年には国家への貢献を表彰され、合衆国陸軍士官学校からシルヴァヌス・サイアー賞(Sylvanus Thayer Award)を授かった。
1972年には、アームストロング一族の出身地であるスコットランドのラングホルム(Langholm)に招待された。ニールはこの地が自分の遠い故郷であると宣言し、この自治都市の初めての自由市民として認定された。儀式の中で、治安判事(Justice of the Peace)は「この地で見つけたすべてのアームストロングを絞首刑にせよ」という、400年前に施行され現在でも廃止されていない法律の条文を読み上げた。
1979年、オハイオ州レバノン(Lebanon)の自宅の農場で農作業をしていた時の事である。刈取機から飛び降りた際、結婚指輪が機械に引っかかり、指輪をはめていた指が切断されてしまった。しかし彼は全く慌てることなく、すぐさま切断された指を拾うと氷に詰めて、ケンタッキー州ルイスビルのジューウィッシュ病院まで持って行き、縫合手術を受けた。
1991年、コロラド州アスペンで友人とスキーをしている際、軽い心臓発作に見舞われた。この1年後には父親が、さらに9か月後には母親が、同じ心臓発作で他界した。
1992年、あるゴルフトーナメントでキャロル・ヘルド・ナイトという女性と知り合った。この時は朝食で短い会話をしただけであったが、二週間後に彼女が自宅にいると、ニールから「いま何をしているのか」という電話があった。「庭の桜の木を刈っているところだ」と答えると、35分後にニールが手伝いに来た。1994年6月12日、ニールはオハイオで、この女性と二度目となる結婚式を挙げた。披露宴はカリフォルニア州のサン・イシドロ・ランチ(San Ysidro Ranch)で行なわれた。
1994年、彼の自筆のサインが高額で売買され、多数の偽物が出回っていることを知ってからは、サインの要求は一切断ることにした。eBayなどのオークション・サイトでは1,000ドルで取引されることもあり、乗組員のサインが書かれた11号の写真などの中には、5,000ドルに達する物もあるという。現在ではニールのところにサインをねだる手紙を送った者は、「申し訳ありませんが、サインはお断りしております」と丁重に書かれた定型文書を受け取ることになる。
ニールのサイン拒否の方針はよく知られていることだが、それでも中には「誰かが(ニールが)サインをする事を妨害しているのなら、すぐにやめさせろ」などと言う者もいるため、作家のアンドリュー・スミスは2002年のレノ航空レース(Reno Air Races)で、改めて人々にニールはサインをする意図がないことを知らしめた。サインの他には、ボーイスカウトのイーグル賞受賞者への祝福の手紙を送ることも取りやめた。そのような手紙は、受賞者を個人的に知る者から送られるべきだと考えたからである。
ニールはあまりにも有名になりすぎたため、彼の名声を利用したトラブルもまた、何年にもわたって発生するようになった。1994年にはホールマーク社(Hallmark Cards)が、彼の名前と "one small step" の一文を無許可で使用したとして、同社を訴えている。ニールのパデュー大学への寄付金の金額が公表されていないとして訴えられた件は、訴訟が却下された。このような問題が発生したことにより、ニールおよびNASAは宇宙飛行士の名前、写真、記録などの使用に許可を与えることに対して慎重になった。ただし非営利団体や公共的な組織に対しては、彼は常に使用許可を与えている。
2005年5月には、妙な法律的闘争に巻き込まれることになった。20年来通っているマルクス・サイズモアという床屋がニールの髪を切った後、それを彼の許可を得ることなく、収集家に3,000ドルで売ったのである。ニールは床屋に対し、髪の毛を取り戻すか、もしくは彼が指定する慈善活動をしなければ訴えると通告した。サイズモアは髪の毛を取り戻すことは不可能だったので、慈善活動のほうを選択した。
ニールには、北アイルランドティロン州バリゴーレイ(Ballygawley, County Tyrone in Northern Ireland)の血が混ざっている(※ 一般にアイルランド人は生真面目で融通がきかず、血の気が多いとされている)。
遺産
2004年7月21日、アポロ11号の飛行から35周年を記念してホワイトハウスで。左からコリンズ、ブッシュ、アームストロング、オルドリン
ホワイトハウス中庭で大統領犬バーニーと。2004年7月ニールは、大統領贈呈自由のメダル(Presidential Medal of Freedom)、合衆国名誉宇宙飛行士勲章、ロバート・H・ゴダード記念トロフィー、シルヴァヌス・タイラー賞(Sylvanus Thayer Award)、国有飛行協会からのコリアー・トロフィー(Collier Trophy)など、数多くの栄誉や賞を授かった。11号の着陸地点から50km離れたところにあるクレーターや、小惑星6469などは彼にちなんで「アームストロング」の名がつけられている。またカリフォルニア州ランカスターの「宇宙飛行通り(Aerospace Walk of Honor)」やフロリダ州タイタスビルの「宇宙飛行士記念館(Astronaut Hall of Fame)」などの設立では、名誉会長に就任した。
アメリカ全体でも、1ダース以上もの小・中・高校が彼の名を冠している。世界中でも多くの通りや建物、学校などが、アームストロングやアポロの名を借りている(日本でも明治製菓が『アポロ』という製品を販売している)。1969年にはフォークソング歌手のジョン・スチュワートが、月面に記した第一歩のために「アームストロング」という曲を作ってニールに捧げた。
2004年10月パデュー大学は、新設の講堂を「ニール・アームストロング技術講堂」と命名することを発表した。2007年10月27日、同講堂は5,320万ドルの費用をかけ竣工し、ニールは同大学出身の14人の宇宙飛行士とともに落成式に出席した。故郷ワパコネタにはニール・アームストロング航空宇宙博物館が建てられているが、ニール本人は同館の設立には特に関わっていない。また彼が初めて飛行訓練をしたニュー・ノックスビル(New Knoxville)の空港にも、彼の名がつけられている。
2005年、自らの伝記「最初の男:ニール・A・アームストロングの生涯」を発行することを許可した。伝記については、これまでもステファン・アンブローズやジェームズ・A・ミシェーナーなどの作家から著作したいとの打診があったが、その都度断ってきた。しかしジェームズ・R・ハンセンが書いた他の人物に関する伝記を読んで、彼に発行の許可を与えた。
出版社はしばしば、ニールに宇宙飛行の将来に関する展望を尋ねている。それに対し2005年には、有人火星飛行は1960年代における有人月飛行よりも容易に行なえるであろうと答えている。
「様々な課題はあるかもしれないが、それらは我々が1961年にアポロ計画をスタートさせた時に直面したものほど困難なものではない」
彼はまた、アポロ11号で感じていた懸念についても回想している。最初のうち、彼は月面に着陸できる可能性は50%しかないと思っていた。
「着陸した瞬間、我々は意気揚々とし、有頂天になり、本当に成功したのかと信じられない気分だった」
と語っている。
「宇宙」へ行った人・・・「地球全体を見た人」はその後、どんな人生を送っているのか、気になって調べてみた。