内容(「BOOK」データベースより)
ナンシー関へのオマージュ。大人気サイトの単行本化!180人の似顔絵&辛口批評の傑作集。
内容(「MARC」データベースより)
2002年に急逝した希代の消しゴム版画家ナンシー関へのオマージュ。mixiのコミュニティサイトで話題のナンシー小関が、総勢180人にのぼる「ナンシー関風」似顔絵スタンプを、辛口批評とともに紹介する。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ナンシー小関
1974年東京生まれの男性。コンピュータ・グラフィクス(CG)デザインの仕事を請け負う傍ら、2005年10月からmixi内で、故・ナンシー関さんの作風を限りなく再現した「顔面スタンプ」を発表し続けている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
ナンシー関(- せき、本名:関 直美(せき なおみ)、女性、1962年7月7日 - 2002年6月12日)は、青森県青森市生まれの版画家、コラムニストである。法政大学文学部第二部(夜間部)中退。
著名人の似顔絵を中心とした消しゴム版画と、これを挿絵として使った、テレビ番組の視聴を通じて芸能人を批評するコラムで知られた。
プロフィール
1962年、青森市中心部に生まれる。
実家は青森市堤町・堤橋商店街のガラス商、関ガラス店。当時は食堂も兼業していた。
1965年、聖マリア幼稚園に入園。
1969年、青森市立堤小学校に入学。その隣に関の在学中に建設された棟方志功記念館がある。
青森県は棟方志功の出身地のため、小学校の図画工作では版画の指導が熱心に行なわれている(ただし本人は、そのことは後の職業選択にあまり関係ない旨の発言をしている)。
1972年、小学4年生の10月、東奥児童美術展、図画の部で入選
1975年、青森市立浦町中学校に入学。卓球部に所属。成績は優秀だった。
1978年、青森高校の受験に失敗し、青森明の星高等学校普通科に進み。進学組に入る。
1981年、高校卒業。 大学受験に失敗して上京。高田馬場の早稲田予備校に通う。
法政大学文学部第二部(夜間部)在学中にえのきどいちろうに見いだされ、消しゴム版画イラストレーターとして各誌で活動開始。後に「ナンシー関」の名付け親となるいとうせいこうに認められ、コラムニストとしてデビュー。
2002年6月11日深夜、タクシーの中で倒れる。気付いた運転手が病院に運んだが、6月12日午前0時47分に虚血性心不全で死去。享年41(満39歳没)。心不全の原因は体重増加に伴う何らかの異常。
コラムニスト
テレビ番組をはじめとする様々な媒体における芸能人・有名人の発言や態度を自身のコラムの題材とした。シニカルで軽妙な語り口で書かれる辛辣かつ愛情に満ちた芸能界への視点にはファンも多く、業界関係者にも生前から高く評価されていた。
1987年創刊のテレビ雑誌「テレビブロス」の初期には、各頁の欄外に芸能人へのツッコミ的な内容のミニコラム「ブロス探偵団」があったが、関は無署名でそのすべてを担当していた。
消しゴム版画家
自筆コラムの挿絵として、テーマとなる著名人の似顔絵を消しゴム版画で製作した。シンプルでありながら特徴を掴んだ写実的な絵柄と、どのようなペンとも異なる新鮮なタッチ、いかにも本人がコメントしそうなネームが独特であった。
人物像
無名時代から『ビートたけしのオールナイトニッポン』の放送を録音し、膨大な数の録音テープを所有していたと言われる。また、何回か投稿したこともあるという。
週刊朝日2002年6月28日号「追悼ナンシー関」より
本人は絵を描いたり、文章を書いたりすることが特に好きであった訳でもなかった。青森生まれであるのと、視力が良くないことから棟方志功を連想させるなどと言われていたが、本人は全く意識をしておらず、「こんな仕事が長く続くわけない」と家族に話していたという。
消しゴムを彫り始めたのは高校時代のこと。当時は似顔絵ではなく、当時流行していた世良公則&ツイストやゴダイゴ、YMOといったバンドのロゴマークだった。出来がよく、クラス中から注文が舞い込んだ。
名づけ親のいとうせいこうによると、ナンシー関と付けた理由は「なんかさ、そういうほうが、ぽいじゃん」とのこと。
1993年1月から週刊朝日で「小耳にはさもう」の連載が始まる。当時の編集長によると、1992年いっぱいで連載が終わる松尾貴史に「誰かおもしろい人いないか?」と聞いたところ、関の名前が返ってきたという。合わせて山藤章二からも「あの絵は良い」と推薦を受けた。最初の打ち合わせは荻窪のレストランに自転車で現れた。企画、コンセプトからタイトルまでテキパキ固め実際の作風とは全く異なり、話し方は極めて素朴でほんわかとしていたという。
原稿を書く時には行替えを行うのを嫌った。書く以上は不用意にマスを空けたくないという意志があり、普通ならばいい加減に書き飛ばすテーマでも、生真面目に考え抜いたとのこと。
書くテーマは必ず自分で決めていた。本当の締め切りが何曜日の何時なのかも見抜いて、その上でギリギリに間に合わせていた。編集者泣かせではあったが、それでも休載は一度もなく、質も全く落ちなかった。
「小耳にはさもう」の第1回のテーマは貴花田光司、最終回は辻仁成。結果的に足かけ10年462回の長期連載となった。
1993年10月から週刊文春でも「テレビ消灯時間」の連載がスタートする。彼女は同じ週刊誌の連載ということで「小耳にはさもう」の担当編集者に相談した。「別にいいけど絵はうちより小さくしてくれ」という返答に対して、彼女は律儀にこの約束を守ったという。
1996年に掲載された文春の対談で、これまでで最もたくさん彫った人物が内藤陳であることを明かした。2008年のタモリ倶楽部での安斎肇の発言によると一位が内藤陳、二位がタモリ、三位がもたいまさこになるという。
一人暮らしのマンションには、4、5台のビデオデッキを備え、テレビを観察し続ける。朝は8時ごろに起き、夜は午前1時ごろ就寝、というライフスタイルだった。
大のカラオケ好き。2、3時間歌うのはザラで、夜10時から朝5時まで歌い続けたこともあるという。声量もあった。十八番は彼女が大ファンだった矢沢永吉。ザ・ピーナッツから最新の曲まで幅広く歌いこなしたという。聴くのは学生時代バンドでベースを弾いていたのも影響して、ジャニス・ジョプリンが好きと周囲に話している。また、リリー・フランキーとは松田優作の『ヨコハマ・ホンキー・トンク・ブルース』の話で盛り上がったことがある。
お気に入りの店は中目黒の「ビッグママ」、お気に入りの焼酎は「百年の孤独」。いつもカウンターの隅に座り、シャイでかわいらしく時折ボソッと呟いていた。最後に訪れた時は「今は締め切りに追われているけど、旅行がしたい」と話していたという。
ナンシー関の急逝には驚いた。そのナンシー関を模倣する人が出てくるとは・・・思わなかった。






