暑苦しくて見苦しい選挙戦もあと3日、菅首相優勢という報道もあるが、とにかく早く終わってほしい。それにしても不思議でならないのは、いまだに態度を明確にしていない議員たちがいることだ。もう両候補の政権構想や主張の違いは分かっただろうに、これ以上何を判断の基準とするのか。とくに新人議員たちは、党内の動向を判断しようにも経験不足で読みきれない。また、次の選挙を考えれば世論も無視できぬとあっては、政治信条、主義・主張だけでは動けない。いかにして勝ち馬に乗って日のあたる場所に出られるか、これは馬券を手に、祈るような思いでレースを見守るのと同じようなものであろう。
「暑さ寒さも彼岸まで」というが、厳しい残暑も、この見苦しい戦いも、彼岸までには落ち着くだろう。が、国民が直接投票できないだけにイライラはつのるばかり、例年になく今年は彼岸が待ち遠しい。
もし小沢氏が勝利すれば鳩山外務大臣が誕生するとか。普天間問題で迷走を続け、どうにもならぬと辞任した人がこともあろうに外務大臣だなんてとんでもない。それこそ、この人には、しばらくどころか永久に静かにしていてもらいたい。それに、挙党体制とはいっても、小鳩が復権し、輿石氏が幹事長ということになれば、党も内閣も小沢氏の意のまま、これでは前政権よりまだ悪い。また、小沢氏の「剛腕」を期待する声が大きいが、政治は1人でできるものではなく、独裁的な剛腕は困るのだ。
菅、小沢両氏の政策はどちらがいいのかよく分からない。が、小沢氏は「無駄を省けばいくらでも財源はある」、「普天間問題は、沖縄、米国の納得するようないい知恵を出せばきっと解決できる」という。しかし、これまでの事業仕分けをみればそう簡単に行かないことが分かったろうし、普天間問題はいい知恵が出なかったから行き詰まっているのであろう。首相がやるといえばできるというが、ならば鳩山前政権下でその知恵を発揮して鳩山氏を助けていれば、2人して辞任することもなかったかもしれない。
ところで、先日、わが購読紙に上・中・下に分けて『宰相論 菅vs小沢』という題のコラムが掲載された。ノンフィクション作家の保阪正康氏はこの選挙を「負と負の争い」と評し、また、櫻田淳・東洋学園大准教授は「時代の要請を察知せよ」と題し、両氏を手厳しく評している。この論評は分かりやすくてうなずけるところが多い。(原文のまま)
『政治家は、時代に招かれ、時代に捨てられる。政治家が後世まで語られる何らかの業績を残すとすれば、それは、政治家の政策判断が「時代の要請」に適切に応えるものであった時に限られる。
そもそも、3ヶ月前には、民主党衆参両院議員は、首相指名選挙で一致して菅直人の名前を書いたはずである。菅直人、小沢一郎両氏の対決の構図となったこのたびの民主党代表選挙は、その意味では「必然性」の乏しいイベントだが、それを通じて、菅氏と小沢氏のいずれが「時代の要請」に応えられるかということを展望するのは、決して無意味はことではない。
というのも、宰相の資質の第一は、その「時代の要請」を鋭敏に察知し、それに応じた政策判断を適切に下せることにあるからだ。まず、小沢氏は、参院選敗北の責を菅氏以下の現執行部に負わせようとしている。けれども、政権交代以降の民主党の党勢失速を招いたのは、「政治とカネ」に絡む疑惑への小沢氏の誠に不十分な対応であり、鳩山由紀夫前内閣下の政権運営の迷走である。小沢氏は参院選敗北の責を免れないし、その意味で菅氏批判に走る資格もない。
加えて、何故、小沢氏の「剛腕」に対する期待が、自明のように語られるのか。彼は、二十数年前に務めた自治大臣や官房副長官の経験しか持たないし、政治の基本である「人間関係」の離合集散を幾度も繰り返してきた。彼は、過去20年、一貫して日本の政局の中心に位置したけれども、そのことは、「失われた20年」と呼ばれた歳月の中で彼が発揮すべき影響力を適切に発揮しなかった事情を暗示している。故に、筆者は、彼における「剛腕」が一種の幻影ではないかと判断する。
各種世論調査の結果が示すように、国民各層が小沢氏に冷淡なまなざしを向けるのには、正当な理由がある。小沢氏は多くの国民の意識の中では、わずか8ヶ月で政権を投げ出した鳩山由紀夫氏と並んで、もはや「お呼び」ではない政治家なのではないか。
次に、菅氏は、民主党の「脱小沢化」を進めることによって内閣支持率の反転上昇という評価を得ている。彼は、「子ども手当」の満額支給の見直しや消費税引き上げ論議の提起に象徴されるように、昨夏の政権公約の修正を模索しているけれども、それは日本の財政危機の現状を踏まえる限り、「時代の要請」には沿った対応なのである。
けれども、菅氏の政権運営の実態は、近時の経済情勢への対応に示されるように、拙劣極まりない。この拙劣な政権運営に、多くの国民は、どれだけ耐えられるのか。石原慎太郎氏は菅、小沢両氏の対決を「『無為無策』陣営と『金権』陣営の対決」と評したけれども、菅氏は自らへの「無為無策」評を払拭するため、たとえば野党との提携を推し進める「幅」を持てるのか。それが、彼の最たる課題であろう。
このように考えれば、小沢氏は、既に「時代から捨てられつつある政治家」である。菅氏は、民主党の「脱小沢化」という時代の要請に応えようとする限りは、政治家としての命脈を保つであろう。けれども、その要請を裏切り、あるいは応えきった後ならば、彼もまた時代から捨てられる運命をたどるであろう。
政治家が「時代の要請」から眼を背けつつ、「自己の信条」に固執し、その影響力の保全に汲々とする姿ほど、見苦しいものはないのである。』
「暑さ寒さも彼岸まで」というが、厳しい残暑も、この見苦しい戦いも、彼岸までには落ち着くだろう。が、国民が直接投票できないだけにイライラはつのるばかり、例年になく今年は彼岸が待ち遠しい。
もし小沢氏が勝利すれば鳩山外務大臣が誕生するとか。普天間問題で迷走を続け、どうにもならぬと辞任した人がこともあろうに外務大臣だなんてとんでもない。それこそ、この人には、しばらくどころか永久に静かにしていてもらいたい。それに、挙党体制とはいっても、小鳩が復権し、輿石氏が幹事長ということになれば、党も内閣も小沢氏の意のまま、これでは前政権よりまだ悪い。また、小沢氏の「剛腕」を期待する声が大きいが、政治は1人でできるものではなく、独裁的な剛腕は困るのだ。
菅、小沢両氏の政策はどちらがいいのかよく分からない。が、小沢氏は「無駄を省けばいくらでも財源はある」、「普天間問題は、沖縄、米国の納得するようないい知恵を出せばきっと解決できる」という。しかし、これまでの事業仕分けをみればそう簡単に行かないことが分かったろうし、普天間問題はいい知恵が出なかったから行き詰まっているのであろう。首相がやるといえばできるというが、ならば鳩山前政権下でその知恵を発揮して鳩山氏を助けていれば、2人して辞任することもなかったかもしれない。
ところで、先日、わが購読紙に上・中・下に分けて『宰相論 菅vs小沢』という題のコラムが掲載された。ノンフィクション作家の保阪正康氏はこの選挙を「負と負の争い」と評し、また、櫻田淳・東洋学園大准教授は「時代の要請を察知せよ」と題し、両氏を手厳しく評している。この論評は分かりやすくてうなずけるところが多い。(原文のまま)
『政治家は、時代に招かれ、時代に捨てられる。政治家が後世まで語られる何らかの業績を残すとすれば、それは、政治家の政策判断が「時代の要請」に適切に応えるものであった時に限られる。
そもそも、3ヶ月前には、民主党衆参両院議員は、首相指名選挙で一致して菅直人の名前を書いたはずである。菅直人、小沢一郎両氏の対決の構図となったこのたびの民主党代表選挙は、その意味では「必然性」の乏しいイベントだが、それを通じて、菅氏と小沢氏のいずれが「時代の要請」に応えられるかということを展望するのは、決して無意味はことではない。
というのも、宰相の資質の第一は、その「時代の要請」を鋭敏に察知し、それに応じた政策判断を適切に下せることにあるからだ。まず、小沢氏は、参院選敗北の責を菅氏以下の現執行部に負わせようとしている。けれども、政権交代以降の民主党の党勢失速を招いたのは、「政治とカネ」に絡む疑惑への小沢氏の誠に不十分な対応であり、鳩山由紀夫前内閣下の政権運営の迷走である。小沢氏は参院選敗北の責を免れないし、その意味で菅氏批判に走る資格もない。
加えて、何故、小沢氏の「剛腕」に対する期待が、自明のように語られるのか。彼は、二十数年前に務めた自治大臣や官房副長官の経験しか持たないし、政治の基本である「人間関係」の離合集散を幾度も繰り返してきた。彼は、過去20年、一貫して日本の政局の中心に位置したけれども、そのことは、「失われた20年」と呼ばれた歳月の中で彼が発揮すべき影響力を適切に発揮しなかった事情を暗示している。故に、筆者は、彼における「剛腕」が一種の幻影ではないかと判断する。
各種世論調査の結果が示すように、国民各層が小沢氏に冷淡なまなざしを向けるのには、正当な理由がある。小沢氏は多くの国民の意識の中では、わずか8ヶ月で政権を投げ出した鳩山由紀夫氏と並んで、もはや「お呼び」ではない政治家なのではないか。
次に、菅氏は、民主党の「脱小沢化」を進めることによって内閣支持率の反転上昇という評価を得ている。彼は、「子ども手当」の満額支給の見直しや消費税引き上げ論議の提起に象徴されるように、昨夏の政権公約の修正を模索しているけれども、それは日本の財政危機の現状を踏まえる限り、「時代の要請」には沿った対応なのである。
けれども、菅氏の政権運営の実態は、近時の経済情勢への対応に示されるように、拙劣極まりない。この拙劣な政権運営に、多くの国民は、どれだけ耐えられるのか。石原慎太郎氏は菅、小沢両氏の対決を「『無為無策』陣営と『金権』陣営の対決」と評したけれども、菅氏は自らへの「無為無策」評を払拭するため、たとえば野党との提携を推し進める「幅」を持てるのか。それが、彼の最たる課題であろう。
このように考えれば、小沢氏は、既に「時代から捨てられつつある政治家」である。菅氏は、民主党の「脱小沢化」という時代の要請に応えようとする限りは、政治家としての命脈を保つであろう。けれども、その要請を裏切り、あるいは応えきった後ならば、彼もまた時代から捨てられる運命をたどるであろう。
政治家が「時代の要請」から眼を背けつつ、「自己の信条」に固執し、その影響力の保全に汲々とする姿ほど、見苦しいものはないのである。』
小沢氏の豪腕というのは、ブレーンに対する影響力でしょうが、影響されるのが皆政治家だから始末に悪い。
自分を信じることの出来ない者が殆どの集団が、国民の代表ということが情けないですね。
小沢陣営の山岡国対委員長や松木委員が、「とにかくやらせてみてください」といいますが、やってみてダメでしたというのは困ります。
確実にやれるという自信があるのなら、なぜこの1年間にその知恵を出さなかったのか、知っていても教えないが、代表になったらやれるというのはおかしいです。
「国民生活が第一」といいながら、やはり権力を握るのが目的なのでしょう。もう古い政治から脱却すべき時が来たのではとないでしょうか。
どっちが首相になろうが、たいして期待できないし、だからって自民党もあんな調子では、日本の将来に希望なんて持てないのがあたりまえでしょう。
大企業も、企業そのものを維持するために、相変わらず企業イメージを悪くしない姑息なリストラを続けているし・・・。
ドラマの「龍馬伝」なんか見てると、本当に今の時代が求めているのは、こんな人達なんだろうな~と思います。
もはや同じ党内同士とは思えない熾烈な戦いをみているともううんざりします。
拮抗した結果では、この先「脱小沢」は期待できないでしょうね。
それにしても小沢さんへの恩義から票を投じるという新人議員たち、こういう人こそ議員仕分けして議員定数を削減すべきだと思います。