昨年末のある日、わが購読紙のコラム欄『ふる里の風景』に、「七輪」の話が載っていた。
【鮮魚店で旬のサンマを見つけると、今でもすぐに連想するのが七輪である。僕らが子どものころ(昭和30年代)、祖母が炭火を入れた七輪を勝手口の外に持ち出し、夕飯のおかずにするサンマを塩焼きにしていたのを憶えている。台所の煙と匂いを避けるためだったが、外でもその煙は強烈で、涙目になりながらウチワでバタバタやっていた。近所迷惑だったと思うが、つられて、お隣さんの食卓にもサンマが上ったりする長閑な時代だった。
当時は、それがごく普通の秋の夕暮れの光景だったのである。そんな七輪も新しい料理器具の登場で、一時退場させられたかに見えた。ところがアウトドアブームで蘇った。勝手口から河原や公園へと舞台は移ったが、七輪はどっこい今も生きているようだ。】
私が子どもの頃、もう60年以上も前の話だが、その時代の電気製品といえばラジオくらいで、豆炭こたつ、湯たんぽ、練炭火鉢、薪で焚く五右衛門風呂、ご飯はかまどに薪をくべて炊いていた。そして、七輪で汁、煮物、焼き物などの副菜を作る。燃料は炭、1つの七輪で焼き物から煮物、汁まで手際よく作っていった。
母の実家にいた小学校高学年の頃、時々だが叔母の手伝いで七輪を使ったことがある。七輪の炭火は火の調節が難しいので、煮こぼれしないように鍋をふたをとったり置いたり。また、魚を焼くときは、風の向きで煙がきて目が痛くなるので、七輪の回りをあちこち場所を変えて焼いたが、よく焦がしたものである。
七厘で初めて1人で作ったのはカレーである。見よう見まねで覚えたもので、鍋に牛肉、ジャガイモ、玉ねぎ、人参を入れて炒め、水を差してぐつぐつ煮る。その時代には今のようなカレールーはなく、カレー粉を溶いて入れ、小麦粉でとろみをつけた。本当は、小麦粉を油で炒め、さらにカレー粉を加えてルーを作るのだが、それを知らなかった。小麦粉をよく炒めなければ不味いのだが、美味しかったかどうか、まったく記憶にない。
次の思い出は中学生の頃。秋のマツタケのシーズンに、父の友人たちとその子どもたち10人以上でトラックに乗ってマツタケ狩りに行った。当時はマツタケが豊富に生えており、子どもでもおもしろいほど簡単に見つけられた。程よい収穫のあとはゴザを広げて、焼きマツタケとすき焼きパーティーである。すき焼きに必要な食材や調味料、鍋や七輪はあらかじめ用意して持って行った。採れたてのマツタケをふんだんに入れたすき焼きの美味なこと、大人は酒盛り、子どもたちは一心不乱に食べていたことを思い出す。
今こそマツタケは超高級品で、庶民の口にはなかなか入らないが、その頃は、八百屋に行くと店先に皿に盛られて1皿いくらで売られていた。嘘みたいな話だが、学校へ持ってゆくお弁当のおかずがマツタケだけという日はしょっちゅうあった。マツタケを塩・コショウで炒めていっぱい食べる、そういう日常が当たり前の時代が実際にあったのだが、それも今では夢の中の話のように思える。
家庭で七輪を見かけることはなくなったが、七輪で手間ひま掛けて作られた子どものころの家庭の味が懐かしい。
異物混入のハンバーガーや工場栽培のレタスしか知らない昨今の子供たちの不幸はやっぱり大人がもたらしたのでしょう。
昔は野菜や果物は旬のものしかありませんでしたし、冷蔵庫のない時代、保存ができないので食べ物の消費は速くなければなりません。買い置き、作り置きなどできないので主婦は大変だったでしょうね。
でも、手間暇かけて作られた料理は愛情いっぱいの「おふくろの味」でした。それが家族の絆の一つでもあると思うのですが、今の子ども達には「おふくろの味」といえる料理が与えられているでしょうか。
私の「おふくろの味」は叔母の料理ですが、思い出すものがたくさんあります。食の思い出は幸せを呼びます。
家族の多かった我家では母は台所でコマネズミのように働いていました。
季節を感じながら食べてこそ“おいしい”。
余りにも便利すぎてリスクばかり目に付きます。
同年代の方ならみんな同じような経験をしていますね。
今では旬のものというのはごく一部で、ハウスものがいつでも手に入ります。便利なようでつまらないような…。
だんだんと食の楽しみが減ってゆくようです。