「カバー写真 2017.6.15 5:40 何のお話をしてるの?」
わが購読紙の読者投稿欄にあった73歳男性の「米兵とチョコの記憶」。私にも同じような記憶があり、遠い昔を思い出してなつかしくもあり、切ない気持ちにもなった。(原文通り)
―前略―。学校前で車を止めて、正門前から校庭を眺めていたら、遠き昔のあのことを思い出した。
あの日、私たち級友の数人は校庭で遊んでいた。校庭前は国道だった。校庭脇の大きな木の下に1台のジープ型の車が止まり、木陰で休憩を始めた。そして手招きで私たちを呼んだ。私たちはその車のところへ行った。モスグリーンの車、青い目をした数人の米兵。それを目にした驚きを今でもはっきりと記憶している。
その時、とんでもないことが起こった。私たちにチョコレートを渡してくれた。初めて食べたチョコレートに、私たちは目を白黒させたに違いない。子どもを思う優しい心で、私たちを呼んでくれたのだろう。私が小学校低学年の昭和20年代の記憶だった。セピア色になったその記憶は今でも頭から離れない。 ―後略―。
この男性は私より3歳下だ。当時、小学校低学年とあるから6、7歳か? としたら私は9、10歳、昭和26年(1951年)頃である。終戦から6年も経つのに、岡山でこんな光景が見られたとは、私はまったく知らなかった。というのは私は終戦後すぐに、疎開先の母の実家から、父の赴任先である呉市へと引っ越したからである。
余談だが、呉港は1886年に大日本帝国海軍の鎮守府、また1903年には呉海軍工廠が設置された。戦前は 戦艦「大和」を建造した東洋一の軍港、日本一の海軍工廠の街として栄えたそうだが、どちらも1945年の終戦時に廃止された。
終戦後、アメリカ軍や英連邦占領軍が呉市へも進駐、連合国軍の占領下におかれた。撤退したのは1957年頃のことだが、それまでの呉市は夜ごと日ごと兵士が我が物顔で闊歩する基地の街として栄えた。
街角に立つ兵士相手の「夜の女」の姿は珍しくもなかったし、当然のごとく、白人や黒人の「合いの子」がたくさん産まれた。今なら「合いの子」も「ハーフ」と言われ、差別されることはないが、当時は「合いの子、合いの子」といじめられていた。その子たちも健在ならすでに70歳前後か、大部分の子は養子となって海を渡っていったというが、どのような人生を過ごしただろうか。
日本の子どもたちはというと、MP(憲兵)のジープを見ると、「ギブミー・チョコ、ギブミー・チョコ」と叫びながら追いかけていた。優しい兵士もいて、ジープを止めてチョコレートやチューインガムをくれるのである。今ではガムやチョコレートなど珍しくもなんともないが、食糧難でおやつなんて何もない時代、彼らがくれるチョコやチューインガムは何物にも代えがたいものだったろう。
私はジープを追いかけたという記憶はない。我が家では父親が時々、洗顔石鹼や缶詰、チョコなどの米軍物資の横流し品を手に入れて来ることがあった。父親は少し英語が話せたそうだが、いつの時代にも要領のいい者が得したということである。
占領下と言っても日常生活は少し変わらなかったし、被害を被ったという記憶もない。むしろ、彼らがいたおかげで町は栄え、住民の生活が潤ったのはたしかである。敗戦国日本の悲しい現実なんて子どもにわかるはずもなく、チョコやチューインガムをくれる兵隊さんがいてうれしかったに違いない。
見張っていました。
真白にペンキを塗った家は長い間主もなしに
ありました。我々が最後の生き証人になってしまいましたね。
戦後の日本の様子はどこも同じようなものだったのですね。進駐軍の撤退とともに街の様子も変わっていきました。私の高校は商業高校として独立したとき、米軍のかまぼこ兵舎が使用されました。
今では沖縄など、各地にある基地の街では同じような様子が見られるかもしれませんが、戦後の時代を知るものは私たちの年代で終わりでしょうね。遠い遠い昔の話です。