一、三拾八石 村上忠兵衛
右能嶋久留嶋御取相之時、手ヲ負有之ニ入居被申候、大形快時節ニかにし様
御座後御目見仕由承、早懸付参与被申、右之手疵口明候て其後色々養生
仕候共終ニ平癒不仕、廿ケ年程間有之竹原ニて被相果候、男子無之、後
忠平衛嫡養子ニて候、村上新兵衛仰付候節、同善内小泊り屋敷取籠候
忠兵衛懸付被申候を弐つ玉ニて打相果与申、彼嫡左太右衛門・次男
忠右衛門、其後暇被遣候叓
彼、村上忠兵衛は前述の村上与兵衛と同じ石高である。
能島村上と来島村上が小競り合いをした時に右の手に大怪我をして、家で
養生していた。少し快方に向かった時に西様に御目見えが叶ったがやはり
治らず、20年あまりして竹原で死にました。男の子が居なかったので
村上新兵衛を嫡養子としましたと記録しているようである。
能島村上と来島村上が仲たがいして、能島は毛利・小早川へ、来島は秀吉・織田
側へ分れたのは天正10年(1582)4月10日の秀吉の招きにより姫路浅野邸での姫路会談からとされます。その後、来島を追い出すために伊予・河野家、小早川・毛利家は小競り合いを繰り返します。この過程に於いて村上忠兵衛は手疵を負ったものと思われます。
また能島村上が小早川隆景から下城指示を受けたのは、天正13年(1585)11月
1日です。この指示により能島村上家は隆景の領地、竹原に移りますので、忠兵衛もこの流れの中で竹原に移住したものと思われます。
怪我をして20余年で死亡したから嫡養子を任命したとあるが、いきさつがはっきりしない。この分限帳の作者は寛永時代にも生きていたらしく、にし(西)様
との御目見えをと表現しているが、これは村上元吉との対面か景親との対面か
武吉との対面かが分らない。西家は本来、宗家武吉・元吉家を指しており、対して東家は分家の景親家を指しているものと思われます。それもこのような表現は屋代島に移動してからの表現です。【大野是水文書】ただ、寛永5年に西家と東家が所替となり、大龍寺と昭岩寺も寺と名前を入れ替えたとしますのでゴチャゴチャになります。
この村上忠兵衛も村上系図上どこに位置するのか現在のところ分りません。
右能嶋久留嶋御取相之時、手ヲ負有之ニ入居被申候、大形快時節ニかにし様
御座後御目見仕由承、早懸付参与被申、右之手疵口明候て其後色々養生
仕候共終ニ平癒不仕、廿ケ年程間有之竹原ニて被相果候、男子無之、後
忠平衛嫡養子ニて候、村上新兵衛仰付候節、同善内小泊り屋敷取籠候
忠兵衛懸付被申候を弐つ玉ニて打相果与申、彼嫡左太右衛門・次男
忠右衛門、其後暇被遣候叓
彼、村上忠兵衛は前述の村上与兵衛と同じ石高である。
能島村上と来島村上が小競り合いをした時に右の手に大怪我をして、家で
養生していた。少し快方に向かった時に西様に御目見えが叶ったがやはり
治らず、20年あまりして竹原で死にました。男の子が居なかったので
村上新兵衛を嫡養子としましたと記録しているようである。
能島村上と来島村上が仲たがいして、能島は毛利・小早川へ、来島は秀吉・織田
側へ分れたのは天正10年(1582)4月10日の秀吉の招きにより姫路浅野邸での姫路会談からとされます。その後、来島を追い出すために伊予・河野家、小早川・毛利家は小競り合いを繰り返します。この過程に於いて村上忠兵衛は手疵を負ったものと思われます。
また能島村上が小早川隆景から下城指示を受けたのは、天正13年(1585)11月
1日です。この指示により能島村上家は隆景の領地、竹原に移りますので、忠兵衛もこの流れの中で竹原に移住したものと思われます。
怪我をして20余年で死亡したから嫡養子を任命したとあるが、いきさつがはっきりしない。この分限帳の作者は寛永時代にも生きていたらしく、にし(西)様
との御目見えをと表現しているが、これは村上元吉との対面か景親との対面か
武吉との対面かが分らない。西家は本来、宗家武吉・元吉家を指しており、対して東家は分家の景親家を指しているものと思われます。それもこのような表現は屋代島に移動してからの表現です。【大野是水文書】ただ、寛永5年に西家と東家が所替となり、大龍寺と昭岩寺も寺と名前を入れ替えたとしますのでゴチャゴチャになります。
この村上忠兵衛も村上系図上どこに位置するのか現在のところ分りません。