山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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野島家来分限帳

2022年07月17日 21時57分42秒 | 野島村上家 家来分限帳
一、三拾八石  村上忠兵衛

右能嶋久留嶋御取相之時、手ヲ負有之ニ入居被申候、大形快時節ニかにし様
御座後御目見仕由承、早懸付参与被申、右之手疵口明候て其後色々養生
仕候共終ニ平癒不仕、廿ケ年程間有之竹原ニて被相果候、男子無之、後
忠平衛嫡養子ニて候、村上新兵衛仰付候節、同善内小泊り屋敷取籠候
忠兵衛懸付被申候を弐つ玉ニて打相果与申、彼嫡左太右衛門・次男
忠右衛門、其後暇被遣候叓

彼、村上忠兵衛は前述の村上与兵衛と同じ石高である。

能島村上と来島村上が小競り合いをした時に右の手に大怪我をして、家で
養生していた。少し快方に向かった時に西様に御目見えが叶ったがやはり
治らず、20年あまりして竹原で死にました。男の子が居なかったので
村上新兵衛を嫡養子としましたと記録しているようである。

能島村上と来島村上が仲たがいして、能島は毛利・小早川へ、来島は秀吉・織田
側へ分れたのは天正10年(1582)4月10日の秀吉の招きにより姫路浅野邸での姫路会談からとされます。その後、来島を追い出すために伊予・河野家、小早川・毛利家は小競り合いを繰り返します。この過程に於いて村上忠兵衛は手疵を負ったものと思われます。

また能島村上が小早川隆景から下城指示を受けたのは、天正13年(1585)11月
1日です。この指示により能島村上家は隆景の領地、竹原に移りますので、忠兵衛もこの流れの中で竹原に移住したものと思われます。

怪我をして20余年で死亡したから嫡養子を任命したとあるが、いきさつがはっきりしない。この分限帳の作者は寛永時代にも生きていたらしく、にし(西)様
との御目見えをと表現しているが、これは村上元吉との対面か景親との対面か
武吉との対面かが分らない。西家は本来、宗家武吉・元吉家を指しており、対して東家は分家の景親家を指しているものと思われます。それもこのような表現は屋代島に移動してからの表現です。【大野是水文書】ただ、寛永5年に西家と東家が所替となり、大龍寺と昭岩寺も寺と名前を入れ替えたとしますのでゴチャゴチャになります。

この村上忠兵衛も村上系図上どこに位置するのか現在のところ分りません。

野島家来分限帳

2022年07月17日 21時56分36秒 | 野島村上家 家来分限帳
一、五拾石 田窪 神八郎

右四兵衛一同ニ走り申候


田窪神八郎は村上四兵衛らとともに主家を裏切って逃亡した30人の一人であるとしている。田窪の直接の主人が誰かはよく分らないが、石高からして嶋越前と
同じであるから相当上の人物と思われる。

追伸、田窪氏は伊予河野家の家頼の中にもいるのでその一門かもしれません。

野島家来分限帳

2022年07月17日 21時54分39秒 | 野島村上家 家来分限帳
一、三拾八石  山口五郎右衛門

 右高麗御陣之時虎を打留、御褒美ヲ得申候由候、
 是も四兵衛一同走り申候


山口五郎右衛門は高麗の陣で虎を仕留めて褒美を貰ったとされるので、
これも秀吉の朝鮮征伐と思われます。能嶋村上が小早川隆景に属して
破竹の勢いで朝鮮の都京城を陥落させた、天正20年(1592)の
出来事と思われます。よって褒美を呉れたのは小早川隆景とも考えられます。
小早川隆景はこの時一万の軍勢を整えていたとされます。

朝鮮半島に虎がいたとの証にも成りますが、水陸両用の兵士としての村上
海賊の活躍の描写とも言えます。

毛利、小早川の警固衆とされる水軍は船子と兵士は別々とされ、海でも陸
でも戦える村上海賊とは戦力が格段に弱かったとされます。

彼も村上四兵衛と共に逃亡してしまいます

野島家来分限帳

2022年07月17日 21時53分32秒 | 野島村上家 家来分限帳
一、三拾八石  三嶋 正右衛門

  右四兵衛一同ニ走り申候


三嶋正右衛門が能嶋村上党の中でどのような立場なのか現時点ではよく分らないけれども、村上四兵衛らとともに逃亡しているから、能嶋村上家からは少し遠い
位置付けなのであろう。名前からすると、大山祇神社の三嶋家の一員であること
が想定できるが、今後の研究が待たれます。