山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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野島家来分限帳

2022年07月17日 22時03分54秒 | 野島村上家 家来分限帳
一、四拾石  村上 甲斐守

 右隠居分ニ古尾なと申家老代所被仰付、次男彦兵衛相続仕候而甲斐相果、
 彦兵衛走申候

 村上甲斐守とは不分明なれど、甲斐を名乗るは、村上河内守義統の二男、
 村上甲斐守義教ならんか?

 村上甲斐は相続をさせた後、死亡したが次男彦兵衛は逃亡したとある。
 兄、村上左馬助と行動を共にした逃亡と思われるが、能島系図によると
 行きつく先は筑前、黒田家のようであるが、同系図は同人を甲斐の孫
 とするので紛乱か同名異人かも知れません。

 黒田家へ出仕するのは他に、村上左馬右衛門とする、甲斐守の兄の系列に属する
 人物もいるので、系図の混乱か、別人か、今後の研究がまたれます。

 村上左馬右衛門は筑前黒田家文書に出て来ますので、こちらが黒田家出仕
 したことは確認できます。この左馬右衛門は、「周防大野系図」によると
 この分限帳にある友田次兵衛(大野兵庫直政)の父、大野隆直の養子と
 なり黒田家へ仕官とあります。この左馬右衛門の子供たちが、大野三兄弟
 (直生、直成、吉乗)と言われ、黒田如水の豊後国石垣原の戦いに於いて戦功をあげ、
 後の黒田家を支える重臣となり明治を迎えると黒田家文書は伝えます。

 ただ、現在のこの三兄弟家の黒田藩大野系図は、苗字は大野を受け継ぎながら
 家紋は来島村上が継承したとする、伊予河野家の「折敷縮三文字紋」を
 踏襲していますので、豫州、河野家、大野家、村上家が混在します。
 それぞれ、婚姻関係を重ねていますのであながち間違いでもありません。

野島家来分限帳

2022年07月17日 22時02分42秒 | 野島村上家 家来分限帳
一、五拾石  嶋又兵衛

右越前嫡也、丑ノ年八代嶋より落付、越前より御断被申、御家中御仕組も武吉様
景親様、家老共被召出被仰付、別ニ御仕組茂無之、縁ニ者御小身ニ被為成候、兄弟
多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何ヘ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀との儀
ニ候、又兵衛 善兵衛儀ハ御暇被遣、私儀若斯罷居候間、助右衛門被召仕候様ニ
と被申被遂御分別候、和田罷出、御目見被仕、退被申候ヘハニて候処、和佐より直様兄弟立退申候故、越前立腹、一代不通ニて候、即越前御隠居被仰付、後助右衛門相続被仰付候、又兵衛儀者久留嶋様参、四百石被下、家老役仕、嶋与左衛門
と申候、善兵衛儀同被召仕、子又左衛門嶋原ニて打死仕候。


 嶋又兵衛は嶋越前の嫡とあるので、村上一族の嶋越前守吉利の嫡男と思われる、
五拾石は全盛期の石高であり、毛利が防長二州に閉じ込められた時の屋代島での
石高でないであろう。この分限帳そのものが、最盛期の分限高を記した上でその後の減封による悲惨さと一族離散の記録であることが特徴です。

現代で言う破産と殆ど同じと考えた方が分りやすい。

この記録でも、兄弟多いのは一人は雇用継続しますが、ほかは縁を見つけて好きな所へ行きなさいと言っている。即ち暇(解雇)である。嶋越前守吉利には又兵衛、善兵衛、助右衛門の三人の子がいたようであるが、長男の又兵衛は関ヶ原の勝ち組で豊後の大名となった久留嶋通親(康親)に仕官し家老役となり、村上家の報録の五拾石以上の四百石で召し抱えられたとされる。この主君(武吉)に対する不義不忠の態度に親・吉利は激怒する、村上武吉も親の責任を問い、吉利に隠居を命じ三男助右衛門に代替わりさせたようである。

慶長六年前後の混乱が目に浮かぶようである。
地名の和田と和佐の間で往復している様子が見てとれる。和田は武吉が居住している所である。

この分限帳は嶋善兵衛の子、嶋又左衛門に言及し、彼は島原の乱で討死したと記録しますので、この書の成立は戦国末期ではなく1638年以降であることが分ります。

なお、この慶長期の混乱期に一家離散せざるを得なかった嶋家の子孫は江戸末期
に一族で思い出の屋代島に「嶋吉利碑文」を建立し、一族の結束を訴えているのはそれぞれの家に脳裏から離れない一族への思慕の念があったのであろう。

この「嶋吉利」碑文は周防大島町に現存する。
この別スレッドでも紹介しているので興味のある方はどうぞ・・。

野島家来分限帳

2022年07月17日 22時01分35秒 | 野島村上家 家来分限帳
一、四拾石    大濱内記

右村上丹後次男内記、弟右京進兄弟共ニ被召置、十人並ニ而候へとも内記心有仁ニて其上算勘達者ニ候、嶋越前本役被仕、老年ニて奉行役被仰付候、長門へ御座候て御親子様不断筑前ニ御座候、長門周防周防御領越前へ御預ケ、内記筑前へ被召連、奉行役被仕候、其後竹原御国替被成候へ者、東右近本役、内記奉行役屋代嶋
ニて者右近立退候て、内記老役ニ被仰付、相果候て跡目村上休庵嫡子大濱九郎左衛
門相続被仰付候事、

さりげない分限帳ではあるが、中身は天正13年の能島下城から、竹原、江田島、屋代島の領地替え、能島親子の主君小早川隆景とともに、筑前名島へ行き、豊臣秀吉の横やりにより、長門大津へと移動となり、隆景の隠居にともなう、竹原へ戻り、隆景の卒去により、臣下の礼を小早川家から毛利家へ変更し、屋代島へ移動した慶長6年のことまでが書かれてあるので興味深い。

能島村上晴天の霹靂は天正13年11月1日に起こった。

天正13年 11月1日 大日本史料
小早川隆景、伊予能島の村上武吉・同元吉父子に誓書を与へ、同国務司・中途両城を放棄すべきことを命じ、且つ周防屋代島・安芸能美島等に相違なきことを約す、


天正13年 11月1日 萩藩閥閲録1-572  条敷


村上図書 一、(伊予)務司・中途両城披相渡、御下城之事
一、最前御忠儀之辻、以一通申定事
一、(周防)屋代島之内、来嶋(通昌)知行分之事
一、(安芸)能美嶋并江田嶋之事
一、今岡分之事     以上
 右御所勘之地少茂不可有相違候
日本国中大小神祇・八幡大菩薩・殊當国三嶋大明神・天満大自在天神
可罷蒙御罰者也、仍起請文如件
  天正十三年十一月一日    小早川左衛門佐隆景 御判
   村上掃部頭殿  同 大和守殿

能島退去の命令である。これから流浪が始まる。


大濱内記は本姓は村上であるから大濱村上と言ったほうが分りやすい。

系図によれば因島村上流で因島村上吉房の系統で吉房が備州・大濱に在城したことにより大濱村上と呼ばれるようになったようである。

父親村上丹後とは吉房の子、内記介と思われる。
また、跡目相続した大濱九郎左衛門お親、村上休庵とは忽那島を領していた
村上右衛門義統(吉和)のひ孫と思われます。

大濱内記の条で面白いのは、村上親子の領分は竹原、能美島、屋代島、熊毛郡、玖珂郡、大津郡と四千五百石以上を有していたことであり、大津と屋代島は後に逃亡する、東右近が預かっていたとします。

毛利家の記録によると、

毛利家八箇国分限帳 ○能島家所領の6、775石の内訳はおよそ下記のようである。

 元吉 村上掃部 長門大津郡 3807石余
 景親 村上三郎兵衛 長門大津郡 235石余
周防熊毛郡 129石余
玖珂郡 34石余
大島郡 228石余
 景広 村上八郎左衛門 長門大津郡 51石余 計4、484石

とありますが、安芸(竹原・能美島)・筑前は記録に含まれていません。

NO3の東右近が大船(安宅)に財宝と村上の主だった家来を連れて逃げだしたのは怒り心頭に発したものと思われます。

そもそも、来島村上が、伊予河野家を継げないからと疳癪をおこし、秀吉になびいたことが、能島村上、毛利・小早川、伊予河野家没落の発端でもあります。

関ヶ原の戦いに於いて、本領安堵を家康は毛利に約束をしていながら、反古にして防長二州に押し込めたのが事の始まりです。

恨みはらさでおくものかと、毎年毛利本家は正月に誓い、幕末の最大なるアジテーター松陰先生の許、毛利家重臣、高杉晋作ら松下村塾の塾生や、多くの長州人によって明治維新は成った。天地が逆になる まさに「回天」でもあったのです。

関ヶ原敗戦が無ければ、明治維新は変わったものになっていたでしょう。

長州人は神輿(目標・理想)が決まれば、次から次へと担ぎ手は集まる、不思議な集団です。
神輿の発頭(ほっとう=リーダー)が決まれば、私欲を捨て、一心不乱に突き進む傾向にあります。

時代により神輿は変わります、最初の神輿は松陰先生であり、次は高杉晋作であり、
伊藤博文であり、桂太郎であった。

近代では、岸信介、佐藤栄作、現在その血を受け継ぐ、安倍晋三である。
国別では長州は内閣総理大臣制になって最長不倒記録が続く、基本が「滅私報国」であるからでしょう。

よって、長州人にはあまり金持ちはいない。

今、例外の金持ちはユニクロの柳井会長ぐらいだが、登記上の本店を山口市に置き
せっせと税金を山口県に収めているから故郷を忘れてはいない「男」です。

壇ノ浦の戦いに源氏に合力し、柳井市から出陣した柳井一族の面目躍所ですね。

豊臣政権、徳川政権の流れを見るに少々脱線しました。

悪しからず。

野島家来分限帳

2022年07月17日 21時59分58秒 | 野島村上家 家来分限帳
一、五拾石   和知孫兵衛

右和知主計と申候て河野様御家物頭仕候、為何縁ニ候哉御家ニ参、主計相果、
孫兵衛、元吉様別而忝被召出頭仕候、其身慥成仁ニて 無不参、伊予ニて
元吉様御座敷之庭ニて涯分戦と相見、打死御用ニ立申候


これによると、和知孫兵衛は伊予河野家(当主牛福通直)の物頭の家来であったが縁あって能島家に来て元吉に仕えたようである。しっかりとした人物らしく
村上元吉と共に、伊予の関ヶ原の戦いと言われる、「正木(松前)の戦い」に
出陣し、加藤方の奇襲を受けた時、元吉がいた陣屋の庭で討死したと書かれています。

となるとこの出来事は、慶長5年9月16日のことなのでしょう。
前日には青野ケ原(関ヶ原)の戦いが始まっています。

その前日15日には、大坂城に居る毛利輝元の許に徳川家康から、毛利家不戦を条件に「毛利家本領安堵の書」が届いている。
この交渉は吉川広家がしたとされます。

この毛利家本領安堵の約束が守られなかったことが、徳川幕府に雌伏すること
250年、明治維新の朝敵征伐に発展する。この動きの精神的指導者が吉田松陰先生に他ならなりません。

この文章からも加藤方佃らに城受け渡しの準備をしますからと、前日に酒の差し入れを受け、酔っぱらった所を襲われて様子が分る、孫兵衛が庭で討死しているから元吉は屋敷内で殺されたのでしょう。

この分限帳の3番目に出てくる友田冶兵衛(大野兵庫直政)はこの時、元吉の側にあって、応戦し、敵の槍を頬に受け、生涯消えなかったと「屋代島大野家文書」は記しています。

元吉討ち死にの時に一緒に討ち死にした配下の者たちを、村上図書(宗家)の
記録によると、下記のようである。

  元吉一同予州三津忠死之面々

一朝智入信士   馬場 六太夫
千山智億信士   團 與一
大観了圓信士   大塚 大炊助
越山智州信士   番匠 式部
高山忠海信士   馬場 九郎右衛門
山翁道海信士   和智 孫兵衛
天嵓吹心信士   大島 傳兵衛
宗圓利心信士   村上 宗四郎
寛山元花信士   高橋 半右衛門

彼らは元吉と一緒に安芸竹原珍海山に眠っているようである。

ここでも「能嶋家家来分限帳」が不思議に見える。

① 通常分限帳は石高の高い者から低いものへと書かれるが、これはその順番
  にはなっていない。

② 序列順かと思えばそうでもない。

③ 和知孫兵衛のように死んで存在しない人間の過去の分限も書かれている。

私が参考にしているのは「村上水軍博物館」保管の「能島家家来分限帳」であるが、村上水軍博物館の史料は村上宗家元吉系ではなく、弟の分家、景親系の文書
群である。

よって、この分限帳は本家元吉の家来の分限帳として成立していたのを、分家の
景親家が謄写していたものが村上水軍博物館に預けられているものと思われます。

この分限帳の原本を書いたのは、村上与兵衛が書いています。
この村上与兵衛は、名前と石高のみを書いただけと思われます。

一、○○石   誰誰

と書いてあったのに、説明文(行方覚え)を付け加えた人物が別にいます。
なぜなら原本作者、村上与兵衛は慶長6年に屋代島から逃亡していますので
その後の説明文は書けないからです。

後に加筆した人物はいまの所わかりません。

しかし、加筆した人物は、修整編纂物の意識はあったたしく

村上与兵衛の筆なる「能嶋家来分限帳」を表題とし、副題として
「分限帳給人行衛覚書」としるし書き始めている。

「分限帳にある人達のその後の行方(いくえ)を覚書で書きました」と理解すべき
でしょう。

この形式は「河野家家来分限帳」ともにていますね。

野島家来分限帳

2022年07月17日 21時59分01秒 | 野島村上家 家来分限帳
一、三拾八石  村上与兵衛

走り申候、是ハ物續被仕、能筆ニて御座候 此分限帳与兵衛筆ニて候


ここで「能嶋村上分限帳の元本は村上与兵衛が書きました」と、後の「分限帳給人行衛覚書」を補作した作者本人が記しています。

村上与兵衛が宗家村上を裏切って屋代島を逃亡するのは慶長6年7月とされますので、この分限帳の説明書の部分は江戸中期まで下るので、石高は戦国末期であり、説明分は相当後に付け加えられたことがわかります。

村上与兵衛が村上系図のどの位置にいるのか現在の所わかりません。