一、四拾石 村上 甲斐守
右隠居分ニ古尾なと申家老代所被仰付、次男彦兵衛相続仕候而甲斐相果、
彦兵衛走申候
村上甲斐守とは不分明なれど、甲斐を名乗るは、村上河内守義統の二男、
村上甲斐守義教ならんか?
村上甲斐は相続をさせた後、死亡したが次男彦兵衛は逃亡したとある。
兄、村上左馬助と行動を共にした逃亡と思われるが、能島系図によると
行きつく先は筑前、黒田家のようであるが、同系図は同人を甲斐の孫
とするので紛乱か同名異人かも知れません。
黒田家へ出仕するのは他に、村上左馬右衛門とする、甲斐守の兄の系列に属する
人物もいるので、系図の混乱か、別人か、今後の研究がまたれます。
村上左馬右衛門は筑前黒田家文書に出て来ますので、こちらが黒田家出仕
したことは確認できます。この左馬右衛門は、「周防大野系図」によると
この分限帳にある友田次兵衛(大野兵庫直政)の父、大野隆直の養子と
なり黒田家へ仕官とあります。この左馬右衛門の子供たちが、大野三兄弟
(直生、直成、吉乗)と言われ、黒田如水の豊後国石垣原の戦いに於いて戦功をあげ、
後の黒田家を支える重臣となり明治を迎えると黒田家文書は伝えます。
ただ、現在のこの三兄弟家の黒田藩大野系図は、苗字は大野を受け継ぎながら
家紋は来島村上が継承したとする、伊予河野家の「折敷縮三文字紋」を
踏襲していますので、豫州、河野家、大野家、村上家が混在します。
それぞれ、婚姻関係を重ねていますのであながち間違いでもありません。
右隠居分ニ古尾なと申家老代所被仰付、次男彦兵衛相続仕候而甲斐相果、
彦兵衛走申候
村上甲斐守とは不分明なれど、甲斐を名乗るは、村上河内守義統の二男、
村上甲斐守義教ならんか?
村上甲斐は相続をさせた後、死亡したが次男彦兵衛は逃亡したとある。
兄、村上左馬助と行動を共にした逃亡と思われるが、能島系図によると
行きつく先は筑前、黒田家のようであるが、同系図は同人を甲斐の孫
とするので紛乱か同名異人かも知れません。
黒田家へ出仕するのは他に、村上左馬右衛門とする、甲斐守の兄の系列に属する
人物もいるので、系図の混乱か、別人か、今後の研究がまたれます。
村上左馬右衛門は筑前黒田家文書に出て来ますので、こちらが黒田家出仕
したことは確認できます。この左馬右衛門は、「周防大野系図」によると
この分限帳にある友田次兵衛(大野兵庫直政)の父、大野隆直の養子と
なり黒田家へ仕官とあります。この左馬右衛門の子供たちが、大野三兄弟
(直生、直成、吉乗)と言われ、黒田如水の豊後国石垣原の戦いに於いて戦功をあげ、
後の黒田家を支える重臣となり明治を迎えると黒田家文書は伝えます。
ただ、現在のこの三兄弟家の黒田藩大野系図は、苗字は大野を受け継ぎながら
家紋は来島村上が継承したとする、伊予河野家の「折敷縮三文字紋」を
踏襲していますので、豫州、河野家、大野家、村上家が混在します。
それぞれ、婚姻関係を重ねていますのであながち間違いでもありません。