山口県周防大島物語

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Re: 戦国期の伊予の武士たちを網羅した記録

2022年07月28日 07時27分11秒 | 伊予河野家と屋代島(周防大島)
> 屋代源三様、初めまして。
> ネット検索をしておりましたところ、こちらの掲示板が目に留まりましたので
> 失礼ながら投稿させていただく次第です。
>
> 屋代様がご紹介して下さった「戦国期の伊予の武士たちを網羅した記録」の中に
> 友近式部・友近大学の名がございます。
> もう20年ほど前に先祖調べで愛媛県立図書館に出向いた際、河野氏関連の書籍の中で
> この2名を発見しコピーをとっておいたのですが、不覚にも紛失・・・
> 中部地方に居住しており松山へ容易くは行けませんし、今となっては書名も思い出せず
> どうしたものかと気に掛かっておりましたところ屋代様のご投稿を発見!
> お示し下さった河野家臣団の記録と愛媛県立図書館所蔵本の内容は同一のように思われます。
>
> 不躾なお願いで恐縮ですが、ご投稿の元になった資料名をご教示いただけますと
> 幸いでございます。よろしくお願い申し上げます。

友近さん江
資料名は未だに分りません。たぶんメモのようなものです。

友近式部は風早衆の内、下記の人たちと同一グループと思われます。
この中で井門氏は河野家支族ですので格は一番高いものと思われます。
友近大学はどのグループかはまだよく分かりません。

風早郡は後に温泉郡に統合され、旧北条市、中島町、松山市の一部となります。
国広、宮脇、井門氏の子孫たちは現認されます。

國弘源左衛門 末房総五郎 宮脇新左衛門 吉原新右衛門 武任備前 若野修理 友近式部 井門大和 井門九郎右衛門 行元又四郎


●【また、そのついでに広島にて、熊谷氏文書に出てきます「安芸国三入荘友近名」や
安芸熊谷氏の九代当主・熊谷宗直の次男とされる「友近直春」、広島市安佐北区大林の「友近城址」
などにつきましても調査出来ればと思う次第です。愛媛の「友近」とは無関係と思いますが、
歴史的に関係の深い芸予両国に「友近」の地名・姓があることに、極めて個人的な感慨がございます。】

熊谷系図によると、熊谷宗直の二男、直春(彦五郎)は友近と書いてあるので、熊谷家家臣の友近家へ
養子に出されてものと思われます。行った先が可部大林の友近城だと思われます。可部全域が熊谷家の
領地ですから、友近城は石見街道の可部駅を見張っていたのかも知れませんね。交通の要所です。
兄、膳直が享徳元年(1452)に生まれていますので、直春は同じ、享徳か康生年間の生まれと思われます。
前述の可部の木原氏が伊予から来ているので、友近氏も伊予から熊谷家に来たか、それとも安芸から伊予に
渡ったか双方とも考えられます。伊予、久万大除城の大野氏は安芸熊谷家から養子を貰い、以後通字を熊谷直実
の「直」を踏襲して現在に至っています。

伊予の友近氏は風早郡や和気郡にいますから、古い時代から伊予に居た可能性が高いですね。
河野家に属していたとすれば、風早郡(旧北条市)のどこかに居たと思われます。
松山の友近神社は友近忠吉ゆかりとしますので、こちらは昔は和気郡和気村ですから、友近領は
伊予のあちこちにあったことになります。


●屋代様

三入荘の所領分与を巡る熊谷直時と熊谷資直の相論があったのが1200年代の中頃でございますが、
それに関する鎌倉幕府の下知状等に「友近名」が出てきますので、そこが安芸・友近氏の発祥地で
間違い無いと思われます。
そして、後に安芸・友近氏が熊谷氏の家臣となり、「直春」が養子に入ったものと私も思うのですが
東京大学史料編纂所データベースで確認出来ます熊谷系図によりますと、
 https://goo.gl/W5MqD8
「ともちかひこ五郎、若狭へ上る」との書き入れがございます。
直春の弟直祥の書き入れの注記には、「直祥信直(兄膳直の孫?)と争いが若狭に去る」とありますので、
直春の若狭行きも関連していると思われます。となると熊谷系友近氏は直春一代のみとも考えられます。
そのあたりも調べてみたいところですが、ネット検索したところ広島県立文書館の古文書収集事業で、
平成12年度にマイクロフィルムにより「友近家文書」という史料が収集されています。
これが手掛かりに成りはしないかと期待しつつも公開の有無が定かではありませんし、
仮に閲覧が可能であっても素人の私には古文書の解読は出来そうにございません。


話は変わるのですが、屋代島所縁の村上武吉関連の番組が来週放送されますね。楽しみでございます。

 NHK-BSプレミアム 9月28日午後8時00分~午後9時00分
 英雄たちの選択「海賊王・村上武吉vs.天下人・豊臣秀吉」
 http://www4.nhk.or.jp/heroes/



●【安芸の友近氏】
確かに関東下知状に友近名が2ケ所でてきますね。

ただこれを以て友近氏の発祥地とは断定できませんね。
他の名田が当時の開発領主の氏名等が付けられていると思われますので、
未だ地名の無い所を開発(開墾)したので開発者が自分の名を付けたように思えます。
であるなら友近の名は安芸三入庄に元々あるのではなく他の所が想定されます。

三入庄を熊谷家に与えられた時は殆ど山ばかりで家臣団はそれぞれ開墾していった
感じですね。他の名田も殆ど人名であることから開発地と思えます。

1923年の地図では大林村友近とホノギが残っていますので、安芸友近氏は安芸時代は
ここが根拠地であったことは間違いないと思います。
大林も開発領主と思います。現在、可部バイパス近くの大林八幡宮近辺が友近部落と
思われます。かっての伊勢ケ坪城の西に位置します。

では友近の姓はどこからきたのでしょうか?
熊谷家と共に下向したと思われますので、関東武士の流れが想定されます。
熊谷一門の可能性が高いですね。
とすれば全国の熊谷家文書や吾妻鑑の探索が必要となります。

想定では関東(熊谷?)→安芸→伊予→長門と変遷した可能性があります。

廣島県文書館は事前に相談すれば見せてくれますし、解説もしてくれますよ。
複写はできませんが、写真撮影は可能な筈です。
ただ広島県文書館は歴史が浅いので史料はあまり多くありません。

伊予史談会の「友近与一左衛門文書」(伊予古文書 請求No.イ・5・48)は
所収されていますでしょうか?
もし手元にあれば内容を教えてくれませんか?

NHK-BSプレミアム のご案内有り難うございます。
当日は私は国内にいませんので見ることができません。
村上武吉と秀吉は敵対関係にありましたのでだいたい流れはわかります。
元々は秀吉ではなく信長からですがどのように描きますかね。
調略の姫路会談が出てくればそこそこの内容ですね。
それが出てこないとありきたりのストーリーですね。
解説者の顔ぶれが基礎編しか語らない人たちだけですので食い足りないかも知れませんね。



●> ただこれを以て友近氏の発祥地とは断定できませんね。

やはり即断は禁物ですね。
何か参考になる資料はないかと検索しておりましたこちらに行き当たりました。

 服部英雄 第四部 荘園景観の遡及的復原法
 http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/21647/5_%E7%AC%AC%E2%85%A2%E9%83%A8-1.pdf#page=114

調べなくてはならない事が増えてまいりました。

> 伊予史談会の「友近与一左衛門文書」(伊予古文書 請求No.イ・5・48)は
> 所収されていますでしょうか?
> もし手元にあれば内容を教えてくれませんか?

史談会の史料は入手しておりませんが、萩藩閥閲録と山口県姓氏歴史人物大辞典の
関係部分をコピー致しております。画像化しましたのでご参照下さい。


●資料提供有り難うございます。
伊予の友近氏を探索していますが古い記録が発見できません。

広義な意味ではタレントの友近さんも一門でしょうね。


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