山口県周防大島物語

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周防大島「古城址めぐり」を考える 2

2024年02月24日 18時40分18秒 | 山口県周防大島「古城址めぐり」考察
周防大島の古城とされるものは出典を殆ど「風土注進案」や「地下上申」等の地誌編纂時の里の伝承を元に
しているので、「何時、どこの誰が」、がはっきりしないのも事実である。

城と言うと天守閣のある立派な建物を想像しがちであるが、室町末期の戦国時代までは単なる領主の屋敷であった。
これを「館」(やかた)と呼んだので、そこの主人は「お館(屋形)様と呼ぶようになりました。
東北地方の下舘、角館、函館、等地名に残るのは領主の館があった所の名残で屋敷や街並みまで含めての範囲となります。

城(いつき・グスク)は奈良期の防衛砦のイメージに近いのでしょう。
「土が成る」と書きますので漢字上は土塁構築物ですね。

朝鮮半島から古代、異邦人が日本に攻め込んでくる可能性がありましたので、西日本に多くの砦が築かれました。
当時の日本はまだ、本格的な砦(城)を築く技術がなかったらしく、多くは朝鮮職工により朝鮮式の砦となりました。

時代が下がって応仁の乱や南北朝の戦いが屋敷(館)を軍事施設に作り替えるようになりました。
まず、屋敷の周りに堀を作ります。初期段階は空堀です。そのレベルでは間に合わないと感じた時代から空堀に
水を入れ始めます。屋敷に入るのに揚げ橋や子舟を使うようになりますが、これらは大物の領主様だけが出来る
ものです。多くの領主に領土を守る家来を各地に配置しますので、これらが本城に対し、枝城と後世呼ばれます。
大島の多くの城と伝承されるのは、殆ど小規模な「かきあげ」と呼ばれる砦であってまともな城は見つかって
いません。「かきあげ」形式の砦は、通常は使用しませんので、見張り程度が交代で詰めるぐらいです。
場所によってはのろし台を兼ねていたのでしょう。
見晴らしのよい急峻な山の上を平に削り、木で策をめぐらせ、さらに一段と高い所に見張り台をたてている
だけの作りを後世の人「城」と呼ぶようになりましたので姫路城のような城があったと勘違いします。

通常生活する時は平地の屋敷で生活していますので、伊豫等ではこれを「里の城」と呼び、敵が攻めて来た
時は山の上の「山の城」に女子供を連れて籠城戦に入ります。山の城には武器と食料、水が備蓄されて
います。なぜか小石も沢山蓄えていて、敵が山を登ってきたら、女、子供が投げつけます。
四境の役の大島口の戦いで、源明峠に上がって来た松山兵に向かって女子供が石を投げたとされますので
近年まで踏襲していたのでしょう。

余談になりますが、「いのこ祭」の後、それぞれの部落のいのこ組が隣部落の「七夕竹」を奪いに夜襲を
かけますが、この時、当家に石を投げつけますので、当家はあらかじめ襖,障子、雨戸を全部外して被害を
最小限にしようとしました。敵の旗印に相当する短冊竹を分捕れば勝組となりますが、いまは子供が
いませんので「いのこ石」があがりません。これらもかっての戦闘訓練の一環と思っていたので大人も
物を壊されても怪我をしても大目に見たのでしょう。

と言うことで大島郡の城は殆どが「かきあげ」でしょう。
それも海近くは海賊の出城程度しか目的は無かったものと思われます。
陸のは大内時代以前の武将のものとも考えられます。
宮島合戦以降は周防、長門から大内(陶)配下の武将は殆ど放逐されたものと思われます。
海賊城も「海賊停止令」で無くなる以前に大島郡では陶配下の海賊は放逐されました。

また江戸期は幕府の「一国一城令」により毛利家も萩城以外は認めてもらえませんでした。
岩国城は吉川氏が関ケ原で裏切ってくれたので大目にみましたが、支藩の徳山、長府は
館しか作れませんでしたね。
よって、江戸以降は大島郡に城はありません。「古城址めぐり」は江戸期の萩藩給領主との関連に言及して
いる所がありますが、給領主は通常は萩城下か大島郡は船手組が多いので三田尻に本宅を構え、
田舎の給領地にはたまに帰る家として屋敷を構えます。(これを萩藩の方言で「田屋」と言います)
浮米の人たちは領地がないので田屋もなかったでしょうね。

また、「古城址めぐり」には多くの城が収録されていますが、時期的に同時に存在したわけではありません。

このような背景から「古城址めぐり」をめぐっていきましょう。



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