周防大島は瀬戸内海のちっぽけな島ではありません。淡路島、小豆島に次ぐ瀬戸内海で3番目の広さを誇り
ます。平成の大合併以前は大島、橘、久賀、東和町の4町もあり、人口も一次最大5万人近く居り、市制
移行を目指しましたが、各町長が自分が市長でないと嫌と言い出し、まとまりませんでした。
周防大島は河野家や村上家にとっては伊予に居る時代から関係の深い島であったため真っ先に移動してきた
ものと思われます。地元住民と摩擦が少なく警戒感を持たれることがなかったからでしょう。
それでも先住民には気を使い、開発されてない所や無人の所へ最初は移住したようです。
沖家室島も河野家家臣団が移住してきた時は無住だったとされます。それ以前の海賊衆が秀吉の「海賊禁止令」により離散を余儀なくされたからとされます。
毛利家の支配下となってからは家臣団みんながせっせせっせと開墾して石高を増やしていきました。
屋代川の流れを現在のように替えたりして海も開拓し塩田を広めて現金化商品を増産にも務めました。
これらは毛利家では「開作」とよばれ海の埋め立て地の有効利用です。最大の小松開作の塩田を開発
したのは地元領主(毛利家譜代)の粟屋帯刀就貞です。それでも彼の家の屋代島の領地石高は天保13年
で922石でした。この時最大の石高を有してしたのは村上図書(武吉の長男家)で屋代、伊保田、由宇で
2088石で、次男家(村上主計)は屋代、和田、小泊で1481石でした。他に河野家関係は平岡房実の
子孫で平岡八右衛門が屋代、和佐で499石、因島村上系の村上吉之進が398石、村上新右衛門が205
石等が主だったものです。
周防大島の総石高は徳川家康の朱印高によると一万三千百九十五石六斗一升五合であり、島全体を統治すれば
大名格の石高となります。天保9年にはこれが二万千七百十一石一斗六升に増加します。ただ石高とは米だけの生産高ではありません、米を含めて換金商品には一定の基準で1石とします。例えば、塩はいくらで1石
木綿は、絹はと言った具合です、大島は耕地は開墾してもさほど広がりませんので、米以外の石高の構成比
が高かったと思われます。山口県文書館に行けば詳しくわかります。ただ、最大で5万人近い人口を養えたのは薩摩からサツマイモの伝来と次男三男の出稼ぎによる金が多かったと思われます。
伊予から主人について渡って来た人達の中に職人もいて、石工、大工、木こり等は元々のクライアント(顧客)であった伊予や土佐へ出稼ぎに行きます。大工の最高峰宮大工も多く呼ばれ、江戸期の以降の伊予や土佐の古い神社仏閣は彼らが全部手がけていると言っても過言ではありません。伊予や土佐の金持ちは彼らを「長州大工」と呼び地元の大工の3倍以上の工賃を払ってまで仕事を頼んでいました。石工の技術も素晴らしく
地震に強く見栄えのする「亀甲積」が特徴です。大島の神社仏閣、分限者(金持ち)の家の石垣は殆どこの
方式ですので現地でご確認ください。大島にはスイドウと呼ばれる「横穴」が沢山ありますが、これらの石組
も彼らの為せる業です。遠くハワイに明治期に渡った彼らは水利保全のため水路を石垣の逆工程で積み現在も現役で稼働しています。
河野家が捲土重来を計画し「お家再興」をしようとしたのは記録にあるだけで4回あります。
天正13年にお家断絶となった伊予河野家は再起を願い、小早川隆景の庇護の元、湯月城にいましたが
天正15年7月9日竹原を通過する秀吉にお家再興を懇願するため急ぎ渡海し竹原に向かいますが
願い叶わず、絶望した当主牛福通直は同日自害して果てます。これを記す記録は
「萩藩附録河野通恒文書」で
『天正十五年七月九日父通直芸州竹原庄に於て秀吉の爲生害、故を以て家門斷絶』とあります。
この急死の報を受けた通直母「五もし」は急ぎ追っかけ渡海します。この模様は7月12日の毛利輝元の書翰
に残されており、九州に居た小早川隆景も知らなかった。伊予から移封された小早川隆景が、九州で河野家を
受け入れる準備が出来たので引っ越してきなさいとの使者を送ったのがこの後で、通直自害、母親「五もし」は渡海中で留守であったなんと言うことだとの史料がある。
「去る(天正十五[1587]年七月)十三日の御状、今日廿四到來、披見候、何ケ度申候ても不慮の御國替、一入旁く御心遣い是非に及ばず候、
(周防の)八代嶋御逗留先、以て然るべく存じ候、御休息肝要に存じ候、我等事、九州の聞合わせ仰付けられ候間、年内罷り上るべき事ハ定まらず候、
當時(筑前の)立花普請の取亂し、御察し有るべく候、藤四郎(小早川秀包)事は、筑後のくるめ(久留米)と申す所迄差下され、在宅の躰に候間、
以爰何篇御分別有るべく候、仍ってゆつき(伊予湯月)御仕出(通直母)、(安芸の)竹原へふと御渡海候て、留守の儀に候へは、
御不如意、是非及ばずの由、昨今追々御到來候、是自り進み候御迎衆は、与州え直ちに罷り越し、諸城に渡る様、荷物以下の裁判に忘却致し、
一両人罷り居り候、留守の者共ハ、(備後の)三原に、関白(豊臣秀吉)殿・中納言(豊臣秀長)殿御一獻の支度等に万事取亂れ候、
竹原え付心申す事も延引候て、御腹立有るべく御察し候、尤に候々、然る處、(河野)通直御死去、言語に及ばざる次第に候、
さてさて是非無き御事迄に候、大方の御朦氣、彼是以て此節の儀、罷上り候ても申度き心中候へ共、他國の栖み仕る様子候条、其段も相叶わず、
心中計り候の處、以ての外の御述懐、余儀無き候間、申すべく候も之無く候て罷り居り候、折節は御勇成され候て然るべく候、通直御座無く候共、
御心付けられ候て參られ候は祝着申すべく候、御進退ニこそ御氣遣りの砌り候間、雖推量致し候、申す事の候、随て輝元吉田歸陳(陣)候間、
早々御使者差越され候て、八代・能美に御父子三人御住宅の条、彌憑み思召すの通、仰せ遣らるべき事肝要に候、何れも其許取静められ候は、
ふと御下向は何篇の儀申談ずべく候、猶期に後音候、恐々謹言
(天正十五[1587]年)七月廿四日 武吉 元吉 御返報 左衞門佐隆景御判
と一次史料にありますので、「豫陽河野家譜」が語る、有馬温泉へ湯治に行き、先祖に謝るため高野山登山をし竹原で病没とするのは、家譜を綺麗に終わらせるための創作の挿入となります。
高野山に通直のと母親の慰霊塔があるのは翌天正16年に母親が建立したもので通直本人は高野山登山はしていません。
と書くと河野家末裔の一部と家臣団末裔の一部は怒るのですが「一次史料」がそのように書いてあるので
後世の編纂物に従うわけにはいきませんね。
第2回目は文禄元年4月8日の秀吉暗殺を企てた「河野党による御調八幡藪事件」と
第3回目は同月の同じく秀吉暗殺を企てた河野家残党による「三原龍雲閣秀吉暗殺未遂事件」であり
第4回(最後)慶長5年8月27日の関ヶ原の戦いに呼応した「伊予正木(松前)」の戦いでこの敗北に
より河野家再興の目は完全に閉ざされました。(この事を第二次河野崩れと地元では呼びます)
なお村上は戦国期は海賊衆とよばれ、水軍ではありません。明治以降の人達が海賊では聞こえが悪いと
「水軍」ネービーと言い始めました。ネービーの概念のない日本にイギリス海軍のシステムに感動した人達
が村上海賊を村上水軍と呼び、日本は古来から水軍(ネービー)を持っていたと主張し始めてからです。
よって明治以降の方たちは水軍と呼んでくださいと言いますが、「河野家分限録」では海賊衆村上と明記されています。村上海賊グループの仕事は元々は塩を京へ運ぶ運送事業で、特注で遣明船団を組んで幕府や大内の請け負いで中国に行き、使節が陸路、中国の都に上っている間に廻りの港を襲いかっぱらいをしていました。こちらは「海賊行為」です。使節の往復は「公式警護行為」です。室町幕府の船の建造費を含め費用の大半は
大内氏が出しています。大内氏は金が足りなくなると、隣の朝鮮王朝に「うちはお宅の親戚だ、金貸してくれ」と申しいれ金はないとすると手当たり次第に強奪しました。朝鮮も中国も「倭寇」として恐れました。
その中心勢力が三島村上海賊です。物真似して村上海賊を装って強奪した対馬の海賊や朝鮮の海賊もいました。
バルチック艦隊を能島村上流戦術「Tターン」で死者ゼロの「完全バトル」を成し遂げたのは河野家に繋がる
秋山中将が「皇国の荒廃この一戦に有り」として不退転を意味する「Z旗」を掲げ完全勝利したことにより
村上海賊の戦法を採用したとするのでは如何にも格好が悪いので以後「村上水軍戦法」と流布すべしと
江田島ではなったようでこれらが現在も踏襲されています。
海賊行為は人を殺めるから以後しないとし、通運業務や通行料収入や客を目的地まで送り届ける水先案内人
業務に転換したのは養氏村上武吉で、この時村上家で内部抗争があり結果として村上武吉が惣家を継ぎました。このことで三島村上家で能島村上が最高位となりました。
●⑨筏八幡宮(和田) 村上家創建の宮で作詞家星野哲郎の実家とされ、妹が宮司をされています。
寄付も半端ではなく、若い時代の五拾万円と後の時代の五百万円の寄付石碑が
あります。今は駐車場になっていますが鳥居の所までが砂浜で海と繋がって
いました。
⑩正元寺(和田) 村上武吉の次男、景親(一学家)の和田の菩提寺です。立て替えられていますので
寺そのものはありがたみはありませんが、本堂内部に歴代当主の位牌群があります。
この御時世でも、住職は新しい仏さんであっても「院殿号」を授与していますので
この空間は時間が止まっているようです。もう殿様の時代ではないのですが、この
寺にはまだ殿様が永続しているようです。この寺は江戸期は照元寺と呼ばれていま
したが、内入の元正寺と明治4年12月18日合併し今の名となっています。
⑪村上一学家の墓群 和田の正元寺から数百Mの所に道端に三躯のお地蔵さまが手招きしている細い道を
上がると村上武吉の次男家の墓群が現れます。一番奥に村上景親の墓があり両側に
妻たちの墓があります。古い方が先妻で河野家重臣、平岡遠江守通倚妹の墓と思われ
ます。比較的新しい方が、親子で朝鮮征伐に出かけた折りに戦利品で貰ってきた
後妻の朝鮮女性の墓と思われます。この女性のことを先の当主村上公一氏は朝鮮王
から頂いたとし、跡継ぎはこの女性との間に生まれた子の元信とし現在も子孫たちは
我々には朝鮮人のDNAが入っているとしています。この女性は古記録によると「おたけ
様」と呼ばれ景親の葬式を取り仕切っている。引導は揚雲和尚とされます。
浜側の商店街の中に子孫が経営している村上酒店があるのでそこで酒でも買って
墓前に供えて頂ければ村上海賊たちが飲や歌えの宴会を始めるでしょう。(合掌)
⑫元正寺(内入) こちらが最初の大龍寺でその前は良禅院と言う空寺であったのを武吉が先祖の戒名
を採り「大龍寺」としました。ここに村上武吉の墓があります。囲いの後ろに妻と
される人の墓がありますが、後妻来島通康二女・妙三・ハナなのか朝鮮妻の墓なのか
よくわかりません。正妻なら囲いの中に入れる筈なのだが外に有るのが解せない。
なら朝鮮娘かと思われるが分らない。彼女の戒名は心妙院殿華岳正春大姉であるが
墓にはそれがない。この後大龍寺は屋代中片山極楽寺跡に移伝するが、まもなく
焼失するので現在の屋代石井のの地に移り現在龍心寺となっています。
⑬平野 ここには周防大島文化交流センターと隣に星野哲郎記念館があります。
学芸員が居るのは文化交流センターですが、このセンターは宮本常一資料館
の機能を有していますので、大島の歴史と言うより、民族学者宮元常一の資料の
説明のための学芸員ですから河野関係には疎いと思います。
⑭日前 この沖に見えるのが大島海賊の一つ、宇賀島海賊の根拠地(浮島)です。厳島の
合戦時に陶軍についた海賊です。島にはなんら痕跡は残っていません。
⑮松尾寺 三蒲の山の上にある大島最古の寺とされます。寺伝では弘法大師創建とされます。
更に上にある抱えの文殊堂まで弘法大師は登ったと伝承されます。
この寺の寺紋は河野家家紋「折敷三文字」紋です。これは厳島の合戦に於いての
来島村上の功を賞しこの地域を与えられたことに由来します。寺では河野ではなく
高野と認識しています。ここお嫁さんは歴史にはとっても詳しいです。
そのほか沢山ありますが、日程が少ないようですからこの程度にしましょう。
ルートは現地に任せればよいと思います。バイパスとすれば、浜通りをのこのこ行くより広域農道を利用
する手がありますが、これは案内板も少なく信号もないので現地の人の案内がないと無理でしょう。
時間があれば①飯野山展望台 ②日見の大仏 ③竜門好五郎手形 ④平知盛の島末城跡 ⑤シーボルト上陸
記念碑 ⑥戦艦陸奥記念館 ⑦八田八幡宮 ⑧久賀民族資料館 その他四境の戦い関係史跡もお寄り頂ければ
結構です。
ます。平成の大合併以前は大島、橘、久賀、東和町の4町もあり、人口も一次最大5万人近く居り、市制
移行を目指しましたが、各町長が自分が市長でないと嫌と言い出し、まとまりませんでした。
周防大島は河野家や村上家にとっては伊予に居る時代から関係の深い島であったため真っ先に移動してきた
ものと思われます。地元住民と摩擦が少なく警戒感を持たれることがなかったからでしょう。
それでも先住民には気を使い、開発されてない所や無人の所へ最初は移住したようです。
沖家室島も河野家家臣団が移住してきた時は無住だったとされます。それ以前の海賊衆が秀吉の「海賊禁止令」により離散を余儀なくされたからとされます。
毛利家の支配下となってからは家臣団みんながせっせせっせと開墾して石高を増やしていきました。
屋代川の流れを現在のように替えたりして海も開拓し塩田を広めて現金化商品を増産にも務めました。
これらは毛利家では「開作」とよばれ海の埋め立て地の有効利用です。最大の小松開作の塩田を開発
したのは地元領主(毛利家譜代)の粟屋帯刀就貞です。それでも彼の家の屋代島の領地石高は天保13年
で922石でした。この時最大の石高を有してしたのは村上図書(武吉の長男家)で屋代、伊保田、由宇で
2088石で、次男家(村上主計)は屋代、和田、小泊で1481石でした。他に河野家関係は平岡房実の
子孫で平岡八右衛門が屋代、和佐で499石、因島村上系の村上吉之進が398石、村上新右衛門が205
石等が主だったものです。
周防大島の総石高は徳川家康の朱印高によると一万三千百九十五石六斗一升五合であり、島全体を統治すれば
大名格の石高となります。天保9年にはこれが二万千七百十一石一斗六升に増加します。ただ石高とは米だけの生産高ではありません、米を含めて換金商品には一定の基準で1石とします。例えば、塩はいくらで1石
木綿は、絹はと言った具合です、大島は耕地は開墾してもさほど広がりませんので、米以外の石高の構成比
が高かったと思われます。山口県文書館に行けば詳しくわかります。ただ、最大で5万人近い人口を養えたのは薩摩からサツマイモの伝来と次男三男の出稼ぎによる金が多かったと思われます。
伊予から主人について渡って来た人達の中に職人もいて、石工、大工、木こり等は元々のクライアント(顧客)であった伊予や土佐へ出稼ぎに行きます。大工の最高峰宮大工も多く呼ばれ、江戸期の以降の伊予や土佐の古い神社仏閣は彼らが全部手がけていると言っても過言ではありません。伊予や土佐の金持ちは彼らを「長州大工」と呼び地元の大工の3倍以上の工賃を払ってまで仕事を頼んでいました。石工の技術も素晴らしく
地震に強く見栄えのする「亀甲積」が特徴です。大島の神社仏閣、分限者(金持ち)の家の石垣は殆どこの
方式ですので現地でご確認ください。大島にはスイドウと呼ばれる「横穴」が沢山ありますが、これらの石組
も彼らの為せる業です。遠くハワイに明治期に渡った彼らは水利保全のため水路を石垣の逆工程で積み現在も現役で稼働しています。
河野家が捲土重来を計画し「お家再興」をしようとしたのは記録にあるだけで4回あります。
天正13年にお家断絶となった伊予河野家は再起を願い、小早川隆景の庇護の元、湯月城にいましたが
天正15年7月9日竹原を通過する秀吉にお家再興を懇願するため急ぎ渡海し竹原に向かいますが
願い叶わず、絶望した当主牛福通直は同日自害して果てます。これを記す記録は
「萩藩附録河野通恒文書」で
『天正十五年七月九日父通直芸州竹原庄に於て秀吉の爲生害、故を以て家門斷絶』とあります。
この急死の報を受けた通直母「五もし」は急ぎ追っかけ渡海します。この模様は7月12日の毛利輝元の書翰
に残されており、九州に居た小早川隆景も知らなかった。伊予から移封された小早川隆景が、九州で河野家を
受け入れる準備が出来たので引っ越してきなさいとの使者を送ったのがこの後で、通直自害、母親「五もし」は渡海中で留守であったなんと言うことだとの史料がある。
「去る(天正十五[1587]年七月)十三日の御状、今日廿四到來、披見候、何ケ度申候ても不慮の御國替、一入旁く御心遣い是非に及ばず候、
(周防の)八代嶋御逗留先、以て然るべく存じ候、御休息肝要に存じ候、我等事、九州の聞合わせ仰付けられ候間、年内罷り上るべき事ハ定まらず候、
當時(筑前の)立花普請の取亂し、御察し有るべく候、藤四郎(小早川秀包)事は、筑後のくるめ(久留米)と申す所迄差下され、在宅の躰に候間、
以爰何篇御分別有るべく候、仍ってゆつき(伊予湯月)御仕出(通直母)、(安芸の)竹原へふと御渡海候て、留守の儀に候へは、
御不如意、是非及ばずの由、昨今追々御到來候、是自り進み候御迎衆は、与州え直ちに罷り越し、諸城に渡る様、荷物以下の裁判に忘却致し、
一両人罷り居り候、留守の者共ハ、(備後の)三原に、関白(豊臣秀吉)殿・中納言(豊臣秀長)殿御一獻の支度等に万事取亂れ候、
竹原え付心申す事も延引候て、御腹立有るべく御察し候、尤に候々、然る處、(河野)通直御死去、言語に及ばざる次第に候、
さてさて是非無き御事迄に候、大方の御朦氣、彼是以て此節の儀、罷上り候ても申度き心中候へ共、他國の栖み仕る様子候条、其段も相叶わず、
心中計り候の處、以ての外の御述懐、余儀無き候間、申すべく候も之無く候て罷り居り候、折節は御勇成され候て然るべく候、通直御座無く候共、
御心付けられ候て參られ候は祝着申すべく候、御進退ニこそ御氣遣りの砌り候間、雖推量致し候、申す事の候、随て輝元吉田歸陳(陣)候間、
早々御使者差越され候て、八代・能美に御父子三人御住宅の条、彌憑み思召すの通、仰せ遣らるべき事肝要に候、何れも其許取静められ候は、
ふと御下向は何篇の儀申談ずべく候、猶期に後音候、恐々謹言
(天正十五[1587]年)七月廿四日 武吉 元吉 御返報 左衞門佐隆景御判
と一次史料にありますので、「豫陽河野家譜」が語る、有馬温泉へ湯治に行き、先祖に謝るため高野山登山をし竹原で病没とするのは、家譜を綺麗に終わらせるための創作の挿入となります。
高野山に通直のと母親の慰霊塔があるのは翌天正16年に母親が建立したもので通直本人は高野山登山はしていません。
と書くと河野家末裔の一部と家臣団末裔の一部は怒るのですが「一次史料」がそのように書いてあるので
後世の編纂物に従うわけにはいきませんね。
第2回目は文禄元年4月8日の秀吉暗殺を企てた「河野党による御調八幡藪事件」と
第3回目は同月の同じく秀吉暗殺を企てた河野家残党による「三原龍雲閣秀吉暗殺未遂事件」であり
第4回(最後)慶長5年8月27日の関ヶ原の戦いに呼応した「伊予正木(松前)」の戦いでこの敗北に
より河野家再興の目は完全に閉ざされました。(この事を第二次河野崩れと地元では呼びます)
なお村上は戦国期は海賊衆とよばれ、水軍ではありません。明治以降の人達が海賊では聞こえが悪いと
「水軍」ネービーと言い始めました。ネービーの概念のない日本にイギリス海軍のシステムに感動した人達
が村上海賊を村上水軍と呼び、日本は古来から水軍(ネービー)を持っていたと主張し始めてからです。
よって明治以降の方たちは水軍と呼んでくださいと言いますが、「河野家分限録」では海賊衆村上と明記されています。村上海賊グループの仕事は元々は塩を京へ運ぶ運送事業で、特注で遣明船団を組んで幕府や大内の請け負いで中国に行き、使節が陸路、中国の都に上っている間に廻りの港を襲いかっぱらいをしていました。こちらは「海賊行為」です。使節の往復は「公式警護行為」です。室町幕府の船の建造費を含め費用の大半は
大内氏が出しています。大内氏は金が足りなくなると、隣の朝鮮王朝に「うちはお宅の親戚だ、金貸してくれ」と申しいれ金はないとすると手当たり次第に強奪しました。朝鮮も中国も「倭寇」として恐れました。
その中心勢力が三島村上海賊です。物真似して村上海賊を装って強奪した対馬の海賊や朝鮮の海賊もいました。
バルチック艦隊を能島村上流戦術「Tターン」で死者ゼロの「完全バトル」を成し遂げたのは河野家に繋がる
秋山中将が「皇国の荒廃この一戦に有り」として不退転を意味する「Z旗」を掲げ完全勝利したことにより
村上海賊の戦法を採用したとするのでは如何にも格好が悪いので以後「村上水軍戦法」と流布すべしと
江田島ではなったようでこれらが現在も踏襲されています。
海賊行為は人を殺めるから以後しないとし、通運業務や通行料収入や客を目的地まで送り届ける水先案内人
業務に転換したのは養氏村上武吉で、この時村上家で内部抗争があり結果として村上武吉が惣家を継ぎました。このことで三島村上家で能島村上が最高位となりました。
●⑨筏八幡宮(和田) 村上家創建の宮で作詞家星野哲郎の実家とされ、妹が宮司をされています。
寄付も半端ではなく、若い時代の五拾万円と後の時代の五百万円の寄付石碑が
あります。今は駐車場になっていますが鳥居の所までが砂浜で海と繋がって
いました。
⑩正元寺(和田) 村上武吉の次男、景親(一学家)の和田の菩提寺です。立て替えられていますので
寺そのものはありがたみはありませんが、本堂内部に歴代当主の位牌群があります。
この御時世でも、住職は新しい仏さんであっても「院殿号」を授与していますので
この空間は時間が止まっているようです。もう殿様の時代ではないのですが、この
寺にはまだ殿様が永続しているようです。この寺は江戸期は照元寺と呼ばれていま
したが、内入の元正寺と明治4年12月18日合併し今の名となっています。
⑪村上一学家の墓群 和田の正元寺から数百Mの所に道端に三躯のお地蔵さまが手招きしている細い道を
上がると村上武吉の次男家の墓群が現れます。一番奥に村上景親の墓があり両側に
妻たちの墓があります。古い方が先妻で河野家重臣、平岡遠江守通倚妹の墓と思われ
ます。比較的新しい方が、親子で朝鮮征伐に出かけた折りに戦利品で貰ってきた
後妻の朝鮮女性の墓と思われます。この女性のことを先の当主村上公一氏は朝鮮王
から頂いたとし、跡継ぎはこの女性との間に生まれた子の元信とし現在も子孫たちは
我々には朝鮮人のDNAが入っているとしています。この女性は古記録によると「おたけ
様」と呼ばれ景親の葬式を取り仕切っている。引導は揚雲和尚とされます。
浜側の商店街の中に子孫が経営している村上酒店があるのでそこで酒でも買って
墓前に供えて頂ければ村上海賊たちが飲や歌えの宴会を始めるでしょう。(合掌)
⑫元正寺(内入) こちらが最初の大龍寺でその前は良禅院と言う空寺であったのを武吉が先祖の戒名
を採り「大龍寺」としました。ここに村上武吉の墓があります。囲いの後ろに妻と
される人の墓がありますが、後妻来島通康二女・妙三・ハナなのか朝鮮妻の墓なのか
よくわかりません。正妻なら囲いの中に入れる筈なのだが外に有るのが解せない。
なら朝鮮娘かと思われるが分らない。彼女の戒名は心妙院殿華岳正春大姉であるが
墓にはそれがない。この後大龍寺は屋代中片山極楽寺跡に移伝するが、まもなく
焼失するので現在の屋代石井のの地に移り現在龍心寺となっています。
⑬平野 ここには周防大島文化交流センターと隣に星野哲郎記念館があります。
学芸員が居るのは文化交流センターですが、このセンターは宮本常一資料館
の機能を有していますので、大島の歴史と言うより、民族学者宮元常一の資料の
説明のための学芸員ですから河野関係には疎いと思います。
⑭日前 この沖に見えるのが大島海賊の一つ、宇賀島海賊の根拠地(浮島)です。厳島の
合戦時に陶軍についた海賊です。島にはなんら痕跡は残っていません。
⑮松尾寺 三蒲の山の上にある大島最古の寺とされます。寺伝では弘法大師創建とされます。
更に上にある抱えの文殊堂まで弘法大師は登ったと伝承されます。
この寺の寺紋は河野家家紋「折敷三文字」紋です。これは厳島の合戦に於いての
来島村上の功を賞しこの地域を与えられたことに由来します。寺では河野ではなく
高野と認識しています。ここお嫁さんは歴史にはとっても詳しいです。
そのほか沢山ありますが、日程が少ないようですからこの程度にしましょう。
ルートは現地に任せればよいと思います。バイパスとすれば、浜通りをのこのこ行くより広域農道を利用
する手がありますが、これは案内板も少なく信号もないので現地の人の案内がないと無理でしょう。
時間があれば①飯野山展望台 ②日見の大仏 ③竜門好五郎手形 ④平知盛の島末城跡 ⑤シーボルト上陸
記念碑 ⑥戦艦陸奥記念館 ⑦八田八幡宮 ⑧久賀民族資料館 その他四境の戦い関係史跡もお寄り頂ければ
結構です。
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