山口県周防大島物語

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Re: 戦国期の伊予の武士たち  友近式部 投稿者:屋代源三

2022年07月28日 07時33分18秒 | 伊予大野家と屋代島(周防大島)
以前、友近さんから下記の文書の出典はとのお尋ねがありました。

國弘源左衛門 末房総五郎 宮脇新左衛門 吉原新右衛門 武任備前 若野修理 友近式部 井門大和 井門九郎右衛門 行元又四郎
大森孫次郎 大森安房 鴨池新左衛門 野元式部 富岡相模 作道右衛門 高田若狭太郎 高田三河 尾越助右衛門 尾越四郎右衛門
得居兵庫 浅海和泉 玉井備後 宇佐美藤三 二神隼人 二神孫右衛門 二神新左衛門 二神修理 二神和泉 一色越後 忽那四郎左衛門
忽那豊前 西久左衛門 法花津四郎左衛門 寺町志摩 武市左門 丹下九郎兵衛 栗上左衛門 那加石見太郎 重松豊後 村上左衛門五郎
栗山右近 宇佐美伊賀 得居弥一郎 作道四郎兵衛 長野四郎左衛門 小川右衛門四郎 難波内蔵介 柳原殿 別府七郎左衛門尉
北條近江 宮内右衛門 (以上風早衆)

何とか見つけました。【海南漂萍秘録】が出典です。
同書は、文禄元年4月9日の九州下向中の豊臣秀吉暗殺未遂事件に参加した人たち
の名簿として掲載してあります。
ただ文禄12月8日に改元されるので、4月8日であるなら天正20年でないと辻褄は合いません。
世に言う「三原御調八幡宮秀吉暗殺未遂事件」のことですが、これらの関与者は事前に毛利家の察知
することとなり未遂となり関与者は全員処罰されたとされます。
名簿の中身を見ますと、後の世も生きている人たちも散見されるので、後世、作成された書と思われます。

名前は出鱈目ではありませんので何らかの記録をつなぎ合わせたものと思われます。

【御調八幡宮秀吉暗殺未遂事件】

「豊臣秀吉參拜 文禄元[1592]年秀吉三原城に入る。此時の通路、三成より山中通りなりしという。三原滞在中八幡神社に參拜する、
時に河野通直の養子甲立五龍山城主宍戸備前守孫通軌、秀吉のため河野家所領没収せられしを恨み、一族得能備後和田左衛門、栗山因幡、
土居兵庫父子、松末美濃以下剛勇の士三百人八幡の藪中に潜伏し狙撃せんとせしも不幸にして露顯し誅に伏し、河野家遂に没せりと傳う」。


●屋代源三様

お探し頂きお礼申し上げます。
以前申しましたように、愛媛県立図書館所蔵の河野氏関連の書籍の中で
家臣団を網羅したかの様な記述を見つけました。
来月同館へ行く予定でおりますので、【海南漂萍秘録】を手掛かりに
蔵書検索して当該本を探し出してみたいと思っております。


>>37
>
> 広義な意味ではタレントの友近さんも一門でしょうね。

数年前、TBSでタレント・友近さんのルーツを辿る番組がございました。途中経過は省きますが、
河野通宣が天文二十一年(1552)に「和気郡久枝郷内友近名」を与えた二神源三郎と友近与一左衛門を結び付け、
更に二神氏の系譜を遡り豊田氏の先の藤原氏に繫げ、先祖を藤原鎌足としていてかなり仰天した覚えがございます。

私でしたら永承五年(1050)に伊予掾となった「越智友近」にこじつけますが・・・(苦笑)
http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/67/view/8379


●友近さん江

ご承知の通り「えひめの記憶」は下記のように友近与一左衛門と二神源三郎を別人として認識していますので
タレント友近氏が二神源三郎の子孫ではないと思われます。

和気郡久枝郷内友近名を与えたので地名の友近を名乗ったとこじつけたのでしょうね。

友近名(みょう)とは友近さんが最初に開墾した耕地の意味でしょうからこの土地は友近さんが開墾した
土地なのでしょう。たぶん鎌倉から室町初期ごろではないかと思われます。
とすれば友近氏は相当古い氏族となります。
ここまで古いと伊予河野家を詳細に調べる必要がありますね。


1550(天文19・庚戌)
  12―18   河野通宣(左京大夫)、友近与一左衛門に寅菊作職内の土地を与える〔閥閲録〕。


1551(天文20・辛亥)
  2―28   河野通直、二神兵庫助に二神島作職を安堵する〔二神文書〕。
  4―    ザビエル、周防国で布教を許される


1552(天文21・壬子)
  8―28   河野通宣、二神左衛門尉らに風早郡粟井郷段役職を安堵する〔片山二神文書〕。
  11―17   河野通宣、風早郡宅並城の二神衆に越智郡鴨部郷新田分を与え、ついで翌日二神源三郎に和気郡久枝郷内友近名を与える〔片山二神文書〕。
  11―24   河野通直、二神源三郎知行分を兵庫助に与える〔二神文書〕。

いくら古いとしても越智友近にこじつけるのは難しいでしょうね(笑)
越智友近は姓ではなく名ですから。

伊予河野家は越智家を元祖としますが、これは国造家越智を意識していますが、越智姓が河野姓に変わるのは
河野親経からですが、これはどうも仮冒のような気がします。
「えひめの記憶」では河野親経以前は、相撲人の越智氏と、従五位下クラスの小役人の越智氏しか現れません。
ところが、伊予河野家の家譜「予章記」では大物が次々と現れ天皇家を支えていたかの記述となります。
よって「予章記」が歴史書と認められない一因となっています。

相撲人とは現在の大相撲の元祖で、元々は朝鮮半島の宮中行事から伝来したもので、日本でも宮中の神に捧げる
行事の一つとして全国から相撲人を定期的に呼び集め相撲を取らせていたものと思われますので、「相撲人」
そのものは一定の格式のある人達と思われます。

また伊予二神家は藤原家を元祖とする伊予の名門で、二神文書は伊予一番の一級文書ですね。

来月県立図書館に行かれるようですが、テーマを絞り込んで行かないと時間の浪費になります。

事前のコンファレンスをしつこいまでにメールでして、資料を最終的に現物確認する程度にすべきでしょう。
伊予の中世、近世の資料は「伊予史談会」所収のもので、伊予史談会の職員は図書館にはいません。また、
図書館職員は伊予史談に精通しているわけではありません。
事前にコンファレンスして関係文書を絞り込んで請求することをお勧めします。
事前であれば現在伊予在住の友近氏を紹介してくれるでしょう。また友近氏に詳しい人を紹介してくれるでしょう。

別のブログで情報交換しています高須賀氏、一色氏、冨永氏、二神氏、大野氏、平岡氏、河野氏らの個別情報とも
併せ新しい伊予中世図が描けそうです。

尚、【海南漂萍秘録】は独立本としては図書館では見つからないかもしれません。
見つからない場合は【伊予温故録 続】を探して下さい。こちらが引用しています。

健闘を祈ります。情報提供もお願いします。


●屋代源三様


> 和気郡久枝郷内友近名を与えたので地名の友近を名乗ったとこじつけたのでしょうね。
>
> 友近名(みょう)とは友近さんが最初に開墾した耕地の意味でしょうからこの土地は友近さんが開墾した
> 土地なのでしょう。たぶん鎌倉から室町初期ごろではないかと思われます。
> とすれば友近氏は相当古い氏族となります。
> ここまで古いと伊予河野家を詳細に調べる必要がありますね。

> いくら古いとしても越智友近にこじつけるのは難しいでしょうね(笑)
> 越智友近は姓ではなく名ですから。

伊予掾を免官された越智友近が、高縄半島を通り越して和気郡姫原郷に所領を得て定住し
その辺りが友近名になった・・・と愚生の頭の中では無理矢理こじつけておりました。(笑)


> 来月県立図書館に行かれるようですが、テーマを絞り込んで行かないと時間の浪費になります。

来月は愛媛県の明治期の行政資料で家禄下渡し関係について調査し、以前にも申しましたように
江戸期の分限帳の友近姓の人物の通名と明治期の拙宅の先祖の実名がつながらないかという
一点に絞って調べる予定です。
また、ご教示下さった「伊予温故録 続」も忘れずに確認して参ります。


中世伊予についての知識が足りませんので最近下記の文献などで勉強しております。

中世伊予の山方領主と河野氏権力 川岡 勉
 http://www.ed.ehime-u.ac.jp/~kiyou/2003/pdf36-1/2.pdf

永禄期の南伊予の戦乱をめぐる一考察 川岡 勉
 http://www.ed.ehime-u.ac.jp/~kiyou/0402/pdf36-2/2.pdf

永禄期の河野氏権力と芸州 -小早川氏による検使の派遣- (川岡 勉)
 http://www.ccr.ehime-u.ac.jp/rci/nenpo/2/17.pdf

天徳寺所蔵「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」について (川岡 勉・田中 弘道)
 http://iyokan.lib.ehime-u.ac.jp/dspace/bitstream/iyokan/1826/1/AA12072864_2010_5-a7.pdf

越智郡司越智氏から伊予国在庁河野氏への転形─『権記』長保二年(一〇〇〇)十二月九日条を中心に─…下向井龍彦
 http://rokuhara.sakura.ne.jp/organ/sion_014.pdf#page=50


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