氏名 領地 石高
1 粟屋 左近 志佐 小松 開作 九百二十二石
2 村上 図書 屋代伊保田由宇 二千八十八石
3 村上 主計 屋代 和田 小泊 千四百八十一石
4 平岡 八右衛門 屋代 和佐 四百九十九石
5 御郷 政吉 志佐 九十六石
6 加屋 市兵衛 志佐 八十二石
7 中村 與右衛門 笠佐 六十一石
8 村上 吉之進 三蒲 三百九十八石
9 飯田 七郎右衛門 三蒲 二百九十四石
10 村上 新右衛門 神浦 三蒲 二百五石
11 橋本 弥右衛門 三蒲 百六石
12 橋本 小八郎 三蒲 九十一石
13 桑原 教 秋 五十二石
14 児玉 半右衛門 秋 四十五石
15 林 壽助 久賀 七石
16 安田 種八 久賀 一石
17 沓屋 牧太 由良 三百十五石
18 友澤 助右衛門 安下庄 五十三石
19 浦上 助右衛門 浮島 二石
20 内藤 織部 志佐 日見 百十二石
21 浦 杢 三蒲 二百九十一石
22 飯田 七兵衛 秋 一石
23 国司 種右衛門 三蒲 未詳
24 村上 治郎右衛門 三蒲 二石
25 飯田 蔵吉 三蒲 二石
26 沓屋 源左衛門 三蒲 六十八石
合計7256石
(注)これは天保年間(1830~1844)の状態なので江戸期全体では領主及び領地、石高には変化があります。
また、これは大島郡のみの領地及び石高なので他の地域もものは含まれていません。
概ね島元に給領地が多く、久賀を含む島中から島末地区に藩の蔵入地(直轄領)が多く分布しています。
領主の下に現地在住の陪臣(領主の家頼)がおり、年貢の管理等は給庄屋と呼ばれる庄屋がいます。
直轄領の庄屋とは格が違い、これらの庄屋の上に御都合庄屋がおり、ご都合庄屋をすべて指揮するのが
大庄屋となります。大庄屋は代官の直轄となり、普段は久賀勘場(代官所)に代官はいないので大庄屋が
行政を取り仕切ります。
また、大島郡の諸氏の多くは両村上家が統括する萩藩御船手組(水軍)の配下の者が多く、普通は船手組が
ある三田尻(防府)在住で一年に数回しか大島には帰ってきません。
最大のイベントは朝鮮通信使の護衛の時で下関から鞆の浦までの往復を担当します。
動員される水夫は3000~4000名とされ大島郡の殆どの漁師まで動員されます。
これはボランティアとなりますので漁民にとっては大迷惑でした。
本浦の久賀や安下庄、端浦の沖家室や志佐、小松の漁民も総動員です。
中でも中心となるのは平郡水夫で動員が義務付けられていました。
そういえば、この諸氏表に平郡や大畠遠崎の領主の名が見えませんね?
大島宰判の筈ですが。
1 粟屋 左近 志佐 小松 開作 九百二十二石
2 村上 図書 屋代伊保田由宇 二千八十八石
3 村上 主計 屋代 和田 小泊 千四百八十一石
4 平岡 八右衛門 屋代 和佐 四百九十九石
5 御郷 政吉 志佐 九十六石
6 加屋 市兵衛 志佐 八十二石
7 中村 與右衛門 笠佐 六十一石
8 村上 吉之進 三蒲 三百九十八石
9 飯田 七郎右衛門 三蒲 二百九十四石
10 村上 新右衛門 神浦 三蒲 二百五石
11 橋本 弥右衛門 三蒲 百六石
12 橋本 小八郎 三蒲 九十一石
13 桑原 教 秋 五十二石
14 児玉 半右衛門 秋 四十五石
15 林 壽助 久賀 七石
16 安田 種八 久賀 一石
17 沓屋 牧太 由良 三百十五石
18 友澤 助右衛門 安下庄 五十三石
19 浦上 助右衛門 浮島 二石
20 内藤 織部 志佐 日見 百十二石
21 浦 杢 三蒲 二百九十一石
22 飯田 七兵衛 秋 一石
23 国司 種右衛門 三蒲 未詳
24 村上 治郎右衛門 三蒲 二石
25 飯田 蔵吉 三蒲 二石
26 沓屋 源左衛門 三蒲 六十八石
合計7256石
(注)これは天保年間(1830~1844)の状態なので江戸期全体では領主及び領地、石高には変化があります。
また、これは大島郡のみの領地及び石高なので他の地域もものは含まれていません。
概ね島元に給領地が多く、久賀を含む島中から島末地区に藩の蔵入地(直轄領)が多く分布しています。
領主の下に現地在住の陪臣(領主の家頼)がおり、年貢の管理等は給庄屋と呼ばれる庄屋がいます。
直轄領の庄屋とは格が違い、これらの庄屋の上に御都合庄屋がおり、ご都合庄屋をすべて指揮するのが
大庄屋となります。大庄屋は代官の直轄となり、普段は久賀勘場(代官所)に代官はいないので大庄屋が
行政を取り仕切ります。
また、大島郡の諸氏の多くは両村上家が統括する萩藩御船手組(水軍)の配下の者が多く、普通は船手組が
ある三田尻(防府)在住で一年に数回しか大島には帰ってきません。
最大のイベントは朝鮮通信使の護衛の時で下関から鞆の浦までの往復を担当します。
動員される水夫は3000~4000名とされ大島郡の殆どの漁師まで動員されます。
これはボランティアとなりますので漁民にとっては大迷惑でした。
本浦の久賀や安下庄、端浦の沖家室や志佐、小松の漁民も総動員です。
中でも中心となるのは平郡水夫で動員が義務付けられていました。
そういえば、この諸氏表に平郡や大畠遠崎の領主の名が見えませんね?
大島宰判の筈ですが。
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