大伴安麻呂
↓
●大伴旅人
養老四年三ノ丙辰 征隼人持節大将軍 天平二年十ノ一
大納言 同三年正ノ丙子 従二 同三年七ノ辛未 薨 六十七
「旅人略伝 672(天武1)年、8歳の時、壬申の乱勃発。父安麻呂は吉野方として
参戦し、勲功を挙げる。乱後、母方の祖父と推測される巨勢比等は子孫とともに
流刑に処されており、あるいは母巨勢郎女もこの時配流されたか。
684(天武13)年、大伴氏は宿禰を賜わる。旅人はこの時20歳。
701(大宝1)年、第七次遣唐使が任命される。伴氏系図は旅人を
「入唐使」とするが、正史に記録は無い。
705(慶雲2)年、父安麻呂は大納言兼大宰帥に就任する。
708(和銅1)年、弟宿奈麻呂、従六位下より従五位下に昇進する。
この年、藤原不比等が右大臣に就任。
710(和銅3)年、元旦朝賀において左将軍(正五位上相当)として騎兵を陳列、
隼人・蝦夷らを率いる(続紀における旅人の初見。この年46歳)。同年3月、
平城京遷都。この頃父と共に佐保に移るか。
713(和銅7)年5.1、父安麻呂薨ず。同年11.26、左将軍。
715(和銅8)年1.10、従四位下より従四位上に昇叙。同年5月、中務卿。
718(養老2)年3月、中納言(参議を経ず)。中務卿は留任。この年、長男家持生誕か。
719(養老3)年1.13、正四位下。9.8、山背国摂官。
720(養老4)年3月、征隼人持節大将軍として九州に赴任。6.17、元正天皇より征隼人
将軍旅人を慰問する詔が出される。「将軍原野に曝されて久しく旬月を延ぶ」とあり
野営して後一カ月以上が経過。すでに相当の戦果を挙げていたと判る。8.4、右大臣
不比等が薨去し、直後の12日、勅命を受け京に帰還。同年10.23、長屋王と共に
故右大臣邸に派遣され、不比等に正一位太政大臣と諡「文忠公」を追贈する役を負う。
721(養老5)年1月、従三位。同年12.7、元明上皇が崩御し、翌日陵墓の造営に当たる。
同年、大伴氏の氏寺(永隆寺)が般若山の佐保川の東の山に移される。
724(神亀1)年2月、聖武天皇即位に際し、正三位に昇叙される。同年3月、吉野行幸に
従駕し奉勅作歌一首(奏上されず)。同年7.13、正三位石川夫人(蘇我赤兄の女で天武
夫人。穂積皇子・田形内親王の母)が薨じた際、邸に派遣され正二位を追贈する役を負う。
727(神亀4)年末、帥として大宰府に赴任か(続紀には旅人の帥任官の記事なく、
赴任の時期も不詳)。前任者は不明(715年多治比池守任)。一説に養老2年から
旅人が兼任、この頃初めて赴任したとする。
この任官を長屋王排除に向けた藤原氏による一種の左遷と見る説も多いが、
むしろ当時の国際情勢から外交・防衛上の手腕を期待されての順当な人事で
あるとする説(増尾伸一郎)が妥当であろう。
なお当時の大宰大弐は多治比県守、少弐は石川足人(この年小野老と交替か)
石川君子(この年以前粟田比登と交替か)。
727(神亀4年)冬 万葉集等 ○大伴旅人 太宰帥として大宰府に赴任、家持(10歳)等も同行する。
神亀4年10月(はるのゆき) 聖武天皇と夫人安宿媛の間に、待望の男子が生まれ、翌月にはその立太子が朝堂で
盛大に祝われた。この直後かまたは翌年春、旅人は大宰帥に任命され再び九州に下向した。
妻の大伴郎女や家持も同行するが、大伴郎女は大宰府に到着して間もない神亀五年夏、病死する。
すでに筑前守として九州に赴任していた山上憶良は旅人に「日本挽歌」を捧げ、以後旅人と憶良の間に
活発に歌がやり取りされる
728(神亀5)年3月か4月頃、小野老が大宰少弐として着任、これを祝う宴を
開く。沙弥満誓・山上憶良も参加して歌を詠む。同年4月
前後、妻大伴郎女を失う。5月頃、式部大輔石上堅魚らが弔使に派遣され
弔いの歌を詠む。旅人、これに和す。6.23、報凶問歌を詠む。
7.21、筑前守山上憶良より「日本挽歌」を進上される。
同年11月、大宰府官人らを率いて香椎廟を奉拝。一説に豊前守宇努男人の退任帰京の報告のための奉拝。
728(神亀5)年か729(天平1)年頃、丹生女王(系譜等不詳)より歌2首を贈られる。
旅人が女王に贈った「吉備の酒」に対する返礼。
729(天平1)年2.11、大宰大弐多治比県守、権参議に任命される。この頃、帰京する県守に歌を贈る。
同年2.12、長屋王、京の自邸で死を賜わる。同年10.7、藤原房前に「梧桐日本琴の歌」を贈る。
文選の「琴賦」などを踏襲した序文と歌に、密かに帰京を願う心を暗示したと見る説や、
長屋王失脚後消沈していた 房前に対する激励慰撫と取る説、政権を巡る抗争に対し超然たろうと
する私的な感懐を籠めたと見る説などがある。
11.8、房前より答歌を贈られる。
730(天平2)年1月、大宰府の帥邸において梅花宴を開催。
同年晩春から初夏にかけ、松浦郡を巡行、この頃「遊松浦河」序文と歌を作る。
同年4.6、京の吉田宜に書簡を贈る。
同年6月、脚に瘡をなし重態に陥る。庶弟稲公に遺言を語ることを請い、天皇より大伴稲公と大伴古麻呂の二人
が駅使として派遣される。数旬の後平癒して、二人の駅使帰京の折、夷守の駅家で送別の宴を設ける。
この時大伴百代と山口忌寸若麻呂が駅使に歌を贈る。
同年7.8、「帥家」で集会、憶良が七夕の歌を詠む。一説に旅人の全快祝いを兼ねた祝宴。
同年7.10、吉田宜より書簡を贈られる。松浦佐用姫の歌を含む。
同年7.11、憶良より歌を謹上される。
同年10.1、大納言拝命(大宰帥は元の通り)。
11月、坂上郎女ら、京へ向け発つ。12月、上京に際し、筑紫娘子が歌を作り、旅人これに和す。
同じ時、「府の官人等、卿を筑前国の蘆城の駅家に餞する歌」。「大宰帥大伴卿、京に向ひて上道する時作る歌」。
天平2年11月 万葉集963-4 ○大伴坂上郎女、太宰師大伴旅人の家を発し京に向かう。
天平2年12月 広島県史 大伴旅人,京への帰途,備後国鞆浦で妻をしのぶ歌 3 首を詠む〔(県)万葉集〕。
天平2年12月 万葉集3-446 ○太宰師大伴旅人 大納言を拝命し家持(13歳)等と帰京佐保の自宅へ三年ぶりに帰る
(注)この年、伊豫大野家祖とされる大伴高多麿が庶子として生まれるとされる。
ただ 旅人の庶子として730年生まれたとするは父親の年齢からすると無理がある。
むしろ家持の庶子とする方が理に叶う。
731(天平3)年1.27、従二位。臣下最高位となる(注2)。同年秋頃、「寧樂の家で故郷を思ふ歌」。
同年7.25、薨ず。大納言従二位、67歳。
天平3年7月25日 続日本紀 ○大納言従二位大伴宿禰旅人薨。難波朝右大臣大紫長徳之孫。大納言贈従二位安麻呂之第一子也。
万葉に歌76首を載せる。また『懐風藻』に五言一首がある。
当時の房前は正三位参議兼中務卿中衛大将(公卿補任によれば民部卿も兼ねる)。
養老5年に元正天皇の内臣に任命されているが、この肩書きは以後見えず、
元正譲位後は自然消滅したと思われる。房前は若くして元明・元正両女帝や父不比等に力量を認められたらしく、
兄武智麻呂より昇進は早かったが、不比等薨後、武智麻呂が急速に昇進してのち右大臣にまで至ったのと対照的に
、政治の表舞台から退き、死に至るまで参議に留まった。これはおそらく長屋王駆逐に向けての動きに対し
房前が距離を取ったため、藤原氏主流の反発を招いたためであろうと推測される(長屋王の変において暗躍した
首謀者を房前と見る向きがあるが、まったく根拠のない憶説に過ぎない)。
したがって天平2年当時の房前に強力な人事権があったとは考えにくく、旅人が書簡によって房前の配慮を望んだ
とは到底思えない。旅人・房前の贈答書簡については、「政権掌握をめぐる抗争や、音楽をも統治の方途とするよう
な在り方に距離を置き、心情的には『方外の士』たろうとする私的な感懐を込めたもの であって、房前もまた知音
の人として、その真意を受け止め、深い共感を示した」とする解釈(増尾伸一郎『万葉歌人と中国思想』)が最も
行き届いたものと思われる。
従二位は左右大臣相当の官位。当時、不比等の長子武智麻呂でさえ正三位の地位にあったことを思えば、
諸説において旅人の政治的地位があまりに低く見られがちである感を禁じ得ない。」
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●大伴旅人
養老四年三ノ丙辰 征隼人持節大将軍 天平二年十ノ一
大納言 同三年正ノ丙子 従二 同三年七ノ辛未 薨 六十七
「旅人略伝 672(天武1)年、8歳の時、壬申の乱勃発。父安麻呂は吉野方として
参戦し、勲功を挙げる。乱後、母方の祖父と推測される巨勢比等は子孫とともに
流刑に処されており、あるいは母巨勢郎女もこの時配流されたか。
684(天武13)年、大伴氏は宿禰を賜わる。旅人はこの時20歳。
701(大宝1)年、第七次遣唐使が任命される。伴氏系図は旅人を
「入唐使」とするが、正史に記録は無い。
705(慶雲2)年、父安麻呂は大納言兼大宰帥に就任する。
708(和銅1)年、弟宿奈麻呂、従六位下より従五位下に昇進する。
この年、藤原不比等が右大臣に就任。
710(和銅3)年、元旦朝賀において左将軍(正五位上相当)として騎兵を陳列、
隼人・蝦夷らを率いる(続紀における旅人の初見。この年46歳)。同年3月、
平城京遷都。この頃父と共に佐保に移るか。
713(和銅7)年5.1、父安麻呂薨ず。同年11.26、左将軍。
715(和銅8)年1.10、従四位下より従四位上に昇叙。同年5月、中務卿。
718(養老2)年3月、中納言(参議を経ず)。中務卿は留任。この年、長男家持生誕か。
719(養老3)年1.13、正四位下。9.8、山背国摂官。
720(養老4)年3月、征隼人持節大将軍として九州に赴任。6.17、元正天皇より征隼人
将軍旅人を慰問する詔が出される。「将軍原野に曝されて久しく旬月を延ぶ」とあり
野営して後一カ月以上が経過。すでに相当の戦果を挙げていたと判る。8.4、右大臣
不比等が薨去し、直後の12日、勅命を受け京に帰還。同年10.23、長屋王と共に
故右大臣邸に派遣され、不比等に正一位太政大臣と諡「文忠公」を追贈する役を負う。
721(養老5)年1月、従三位。同年12.7、元明上皇が崩御し、翌日陵墓の造営に当たる。
同年、大伴氏の氏寺(永隆寺)が般若山の佐保川の東の山に移される。
724(神亀1)年2月、聖武天皇即位に際し、正三位に昇叙される。同年3月、吉野行幸に
従駕し奉勅作歌一首(奏上されず)。同年7.13、正三位石川夫人(蘇我赤兄の女で天武
夫人。穂積皇子・田形内親王の母)が薨じた際、邸に派遣され正二位を追贈する役を負う。
727(神亀4)年末、帥として大宰府に赴任か(続紀には旅人の帥任官の記事なく、
赴任の時期も不詳)。前任者は不明(715年多治比池守任)。一説に養老2年から
旅人が兼任、この頃初めて赴任したとする。
この任官を長屋王排除に向けた藤原氏による一種の左遷と見る説も多いが、
むしろ当時の国際情勢から外交・防衛上の手腕を期待されての順当な人事で
あるとする説(増尾伸一郎)が妥当であろう。
なお当時の大宰大弐は多治比県守、少弐は石川足人(この年小野老と交替か)
石川君子(この年以前粟田比登と交替か)。
727(神亀4年)冬 万葉集等 ○大伴旅人 太宰帥として大宰府に赴任、家持(10歳)等も同行する。
神亀4年10月(はるのゆき) 聖武天皇と夫人安宿媛の間に、待望の男子が生まれ、翌月にはその立太子が朝堂で
盛大に祝われた。この直後かまたは翌年春、旅人は大宰帥に任命され再び九州に下向した。
妻の大伴郎女や家持も同行するが、大伴郎女は大宰府に到着して間もない神亀五年夏、病死する。
すでに筑前守として九州に赴任していた山上憶良は旅人に「日本挽歌」を捧げ、以後旅人と憶良の間に
活発に歌がやり取りされる
728(神亀5)年3月か4月頃、小野老が大宰少弐として着任、これを祝う宴を
開く。沙弥満誓・山上憶良も参加して歌を詠む。同年4月
前後、妻大伴郎女を失う。5月頃、式部大輔石上堅魚らが弔使に派遣され
弔いの歌を詠む。旅人、これに和す。6.23、報凶問歌を詠む。
7.21、筑前守山上憶良より「日本挽歌」を進上される。
同年11月、大宰府官人らを率いて香椎廟を奉拝。一説に豊前守宇努男人の退任帰京の報告のための奉拝。
728(神亀5)年か729(天平1)年頃、丹生女王(系譜等不詳)より歌2首を贈られる。
旅人が女王に贈った「吉備の酒」に対する返礼。
729(天平1)年2.11、大宰大弐多治比県守、権参議に任命される。この頃、帰京する県守に歌を贈る。
同年2.12、長屋王、京の自邸で死を賜わる。同年10.7、藤原房前に「梧桐日本琴の歌」を贈る。
文選の「琴賦」などを踏襲した序文と歌に、密かに帰京を願う心を暗示したと見る説や、
長屋王失脚後消沈していた 房前に対する激励慰撫と取る説、政権を巡る抗争に対し超然たろうと
する私的な感懐を籠めたと見る説などがある。
11.8、房前より答歌を贈られる。
730(天平2)年1月、大宰府の帥邸において梅花宴を開催。
同年晩春から初夏にかけ、松浦郡を巡行、この頃「遊松浦河」序文と歌を作る。
同年4.6、京の吉田宜に書簡を贈る。
同年6月、脚に瘡をなし重態に陥る。庶弟稲公に遺言を語ることを請い、天皇より大伴稲公と大伴古麻呂の二人
が駅使として派遣される。数旬の後平癒して、二人の駅使帰京の折、夷守の駅家で送別の宴を設ける。
この時大伴百代と山口忌寸若麻呂が駅使に歌を贈る。
同年7.8、「帥家」で集会、憶良が七夕の歌を詠む。一説に旅人の全快祝いを兼ねた祝宴。
同年7.10、吉田宜より書簡を贈られる。松浦佐用姫の歌を含む。
同年7.11、憶良より歌を謹上される。
同年10.1、大納言拝命(大宰帥は元の通り)。
11月、坂上郎女ら、京へ向け発つ。12月、上京に際し、筑紫娘子が歌を作り、旅人これに和す。
同じ時、「府の官人等、卿を筑前国の蘆城の駅家に餞する歌」。「大宰帥大伴卿、京に向ひて上道する時作る歌」。
天平2年11月 万葉集963-4 ○大伴坂上郎女、太宰師大伴旅人の家を発し京に向かう。
天平2年12月 広島県史 大伴旅人,京への帰途,備後国鞆浦で妻をしのぶ歌 3 首を詠む〔(県)万葉集〕。
天平2年12月 万葉集3-446 ○太宰師大伴旅人 大納言を拝命し家持(13歳)等と帰京佐保の自宅へ三年ぶりに帰る
(注)この年、伊豫大野家祖とされる大伴高多麿が庶子として生まれるとされる。
ただ 旅人の庶子として730年生まれたとするは父親の年齢からすると無理がある。
むしろ家持の庶子とする方が理に叶う。
731(天平3)年1.27、従二位。臣下最高位となる(注2)。同年秋頃、「寧樂の家で故郷を思ふ歌」。
同年7.25、薨ず。大納言従二位、67歳。
天平3年7月25日 続日本紀 ○大納言従二位大伴宿禰旅人薨。難波朝右大臣大紫長徳之孫。大納言贈従二位安麻呂之第一子也。
万葉に歌76首を載せる。また『懐風藻』に五言一首がある。
当時の房前は正三位参議兼中務卿中衛大将(公卿補任によれば民部卿も兼ねる)。
養老5年に元正天皇の内臣に任命されているが、この肩書きは以後見えず、
元正譲位後は自然消滅したと思われる。房前は若くして元明・元正両女帝や父不比等に力量を認められたらしく、
兄武智麻呂より昇進は早かったが、不比等薨後、武智麻呂が急速に昇進してのち右大臣にまで至ったのと対照的に
、政治の表舞台から退き、死に至るまで参議に留まった。これはおそらく長屋王駆逐に向けての動きに対し
房前が距離を取ったため、藤原氏主流の反発を招いたためであろうと推測される(長屋王の変において暗躍した
首謀者を房前と見る向きがあるが、まったく根拠のない憶説に過ぎない)。
したがって天平2年当時の房前に強力な人事権があったとは考えにくく、旅人が書簡によって房前の配慮を望んだ
とは到底思えない。旅人・房前の贈答書簡については、「政権掌握をめぐる抗争や、音楽をも統治の方途とするよう
な在り方に距離を置き、心情的には『方外の士』たろうとする私的な感懐を込めたもの であって、房前もまた知音
の人として、その真意を受け止め、深い共感を示した」とする解釈(増尾伸一郎『万葉歌人と中国思想』)が最も
行き届いたものと思われる。
従二位は左右大臣相当の官位。当時、不比等の長子武智麻呂でさえ正三位の地位にあったことを思えば、
諸説において旅人の政治的地位があまりに低く見られがちである感を禁じ得ない。」
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