山口県周防大島物語

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正統 大伴姓大野系図(系図纂要・内閣文庫)1

2024年01月06日 04時26分02秒 | 正統 大伴姓大野系図(系図纂用・内閣文庫)
 伊予大野系図は複数あって多くは天智天皇(大友皇子)を元祖とする書き出しで始まっていますが
それらの多くは同じ元本から派生したと見られます。
中身は大伴を大友皇子の書き出しに代え、「神別系図」を「皇別系図」に変更しようとした形跡が
あります。今残る日本の多くの系譜が元祖を天皇としています(皇別系図)。勿論多くは加冒です。
次に多いのが天皇の重臣たちを元祖とする(神別系図)ですね。その他、地方豪族(國造)や外来人
を元祖とするものもあります。いつの時代も日本の中心家であった天皇家に対する尊敬は厚く、天皇
の子孫以外も天皇の子孫と系図を加冒することは絶えませんでした。
流布されている伊予大野家系図もその一例ですね。
ただ唯一、系図纂用や内閣文庫に所収されている『大伴姓菅田大野系図』が史実に近いものと思われます。

これらを少し補強しながら紹介していきましょう。


    【 正統 大伴姓大野系図(系図纂要・内閣文庫)】

大伴宿禰姓 武日命 武持初賜大伴宿禰姓

● 高皇産霊尊

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〇天忍(押)日命
   ・姓氏録云 高魂尊五世孫 ・旧事記作 神挟命 大伴連、家内連等祖・旧事記作 神挟命
 
 初天孫彦火瓊之杵尊神駕之降也、押日命、大来目部立御前降干日向高千穂峯然後以大来目部為天靭負部之号起於此後、
 雄略朝以天靭負賜大連公奏曰衛尉門開闢之勤於職巳重若一身難堪望与愚児語相伴奉衛左右勅依奉
 是大伴佐伯二氏掌左右開闢之縁也

 「天忍日命略伝 記によれば、天孫降臨の際、天久米命と共に、天の石靫を負い、頭椎(くぶつち)の太刀を佩き、
  天の波士弓(はじゆみ)を持ち、天の真鹿児矢(まかごや)を手挟み、御前に立って仕え奉る。
  また書紀神代下一書によれば、天クシ津大来目を率い、背には天磐靫を負い、臂には稜威(いつ)の高鞆を著き
  、手には天ハジ弓・天羽羽矢を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を取り副え、
  また頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯き、天孫の御前に立って、高千穂の峰に降り来る。」

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〇天彦日子咋命

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〇天津日命   以上神代分終

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●道臣命     本名 日臣命
 大伴山前(ヤマサキ)連   大伴宿禰同祖

 大伴氏遠祖、日臣命帥大来目督将元戎踏山啓行乃尋以八咫烏所向仰視而追遂達干蒐田下時云々、戊午年九月勅道臣命、
 天皇親作顕斉高産霊用道臣命為斉主授以
 厳媛之号  神武帝元年(BC660)東征帥来目部護衛宮門掌其開闢矣、並今令四方之国以規天位之貴亦俾率土之民以示 
 朝廷之重者也 二年(BC661)二月乙巳詔曰、汝忠而且勇加有
 能導之功是以改汝名為道臣矣、帥大来目督将元戎奉承密策能以諷歌倒語掃蕩妖気如此功能哀為軍将流傳後
 裔其倒語之用始發此時即大伴連等祖之復道臣宅地
 居干築坂邑以優寵矣復使大来目居干畝傍山以西川辺之地、今号来目邑、即其縁謂久米連祖之、

 「道臣命略伝 神武即位前戊午年6月、神武天皇東征のとき、大来目部(記では大久米命)を率いて熊野山中を踏み分け、
  宇陀までの道を通す。この功により道臣(みちのおみ)の名を賜わる。同年8月、天皇の命をうけ、菟田県の首長
  兄滑(えうかし)を責め殺す。同年9月、神武天皇みずからが高皇産霊尊の顕斎を行う際、斎主となり「厳媛(いつひめ)」
  と名付られる。同年10月、大来目らを率い、諷歌倒語(そえうたさかしまごと)を以て妖気を払う。
  神武即位の翌年には、築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わる。」

 *現在、サッカーのシンボル八咫烏(ヤタガラス)は道臣命が擬態化されたものである。

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〇味日命

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〇雅日臣命

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〇大日命

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〇角日命

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〇豊日命

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●武日命     後健日命
 日本武尊東征与吉備武彦為副将軍

 「武日命略伝 垂仁天皇25年、阿倍臣の遠祖武渟川別(たけぬなかわわけ)・和迩臣の遠祖彦國葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・
  物部連の遠祖十千根と共に、厚く神祇を祭祀せよとの詔を賜わる。景行天皇40年、日本武尊の東征に吉備武彦と共に従い、
  日高見国での蝦夷征討の後、甲斐国の酒折宮で靫負部を賜わる。」

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●大伴武持    一ニ健持、又武以
 初賜大伴宿禰姓
 仲哀帝元年(192)十ノ 為大連大臣

  「武持略伝 仲哀朝の四大夫の一人。伴氏系図に「初賜大伴宿禰姓」とある。公卿補任には、
   仲哀天皇の即位の年大連(おおむらじ)を賜り、若年の天皇の輔佐を命じられた旨見える。」

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●室屋      佐伯連 高志連 壬生連等之祖
 長寿之人、
 雄略帝元年正ノ 為大連

   「三代實録云、貞現三年伴善男奉佐伯真豊雄等言室屋大連公之
    一男御物宿禰胤倭故連公允恭帝世始任讃岐国造倭故連公ハ
    豊雄等之列祖之、孝□天皇世国造之号永徒停止、同族玄蕃
    以従五下佐伯宿禰直持、正六上佐伯宿禰正雄等耽貫京兆而
    田公之門猶未得預、改姓佐伯宿禰云々」

   「室屋略伝 允恭天皇11年、衣通郎姫のため藤原部を定める。雄略天皇即位に伴い物部連目と共に大連となる。
    雄略2年、百済から貢ぜられた池津媛を犯した石川楯を、来目部に処刑させる。
    同23年、遺詔を受けて後事を託される。雄略崩後、東漢直掬に命じて兵を起こし、星川皇子の乱を鎮圧させる。
    清寧天皇2年、諸国に白髪部舎人・同膳夫(かしわで)・同靫負を置く。武烈天皇までの5代にわたり大連として政権を
    掌握した。」
 ↓
●談 カタリ    大伴大田宿禰
 大連、雄略帝八年三ノ伐新羅討死、
 同族津麻呂殉死

  ▽弟 御物   林宿禰

 ↓
●金村     神松連 仲丸子等祖
 武烈帝即位年(498)十一月大連、元年十一ノ戊子 起兵殺大伴真鳥
 歴 安閑、宣化、欽明、継體為大連  欽明元年(539)九ノ老

 「金村略伝 仁賢天皇11年(498年)、天皇崩後、大臣平群臣真鳥・鮪(しび)父子の横暴に怒った太子(後の武烈天皇)の
  要請により兵を起こし、真鳥らを攻め滅ぼす。
  同年末、太子を即位させ、自らは大連となる。武烈天皇8年(506年)、継嗣のない天皇が崩ずると、翌年1月、
  物部麁鹿火(あらかひ)大連・許勢男人大臣らを越前三国へ派遣し、応神天皇の五世孫、男大迹王(おおどのみこ)を迎えさせる
 (古事記には淡海国より迎えたとある)。同年2月、王を河内国葛葉宮で即位させる(継体天皇)が、大和に入るまで20年を要し、
  この間王位継承を巡って戦乱があったと推測される。継体6年(512年)、百済が任那の4県の割譲を要求し、
  金村はこれを承認。翌年、この代償として百済は五経博士を貢上する。継体20年(526年)、ようやく大和磐余に都を移す。
  翌年、筑紫で磐井が反乱を起こすと、金村は物部麁鹿火を将軍として派遣し、継体23年(528年)、鎮圧する。
  安閑天皇が即位すると(534年)、引き続き大連となり、皇后・妃のため各地に屯倉を設定する。
  宣化2年(537年)、新羅が任那に侵攻すると、子の磐・狭手彦らを派遣して任那を救援。しかし欽明天皇1年(540年)、
  物部尾輿らに任那4県割譲の責任を問われ、政界を退いて住吉の自宅に引き篭る。
  大伴氏は政治的指導権を物部氏・蘇我氏に奪われ、室屋の時代から続いた最盛期は幕を閉じた。
  なお江戸時代成立の『摂津名所図会』は住吉に近い大帝塚山古墳(前方後円墳)を金村の墓とするが、
  考古学的に年代が合わず、無理があるという(小笠原好彦)。  
  奈良県北葛城郡新庄町大屋には金村を祀る金村神社がある。」

  ▽弟 歌
    初賜佐伯姓  佐伯宿禰等之祖

    *大伴分家佐伯家祖 この末裔に弘法大姉空海がでる。(別途掲載予定) 

 ↓
●咋子    大職冠
 
  「咋子略伝 用明天皇2年(587年)、蘇我馬子らの物部守屋征討軍に加わる。崇峻天皇4年(591年)、任那復興のため大将軍
   として出陣するが、天皇暗殺により筑紫に留まり、推古天皇3年(595年)に帰還。同9年(601年)、再び任那救援の命を得て
   高句麗に派遣され、翌年百済より帰国。その後も外交に活躍したらしく、推古16年(608年)、隋使裴世清らの入京拝朝を出迎え、
   隋煬帝よりの国書を天皇に奏上する。また同18年(610年)には新羅使を迎える役に任じられている。」

  △兄 磐     
  小職 、推古卅一年七ノ伐新羅、副将軍
 
  「磐略伝 宣化天皇2年(537年)、新羅の任那侵攻に際し筑紫に派遣され、那津官家(大宰府の起源)で執政。」

  ▽弟 狭手彦
   大伴連、榎本連祖、欽明廿三年(562)八ノ伐新羅大克之

  「狭手彦略伝 宣化天皇2年(537年)、新羅の任那侵攻に際し朝鮮半島に派遣され、任那・百済救援に活躍。
   肥前国松浦郡の娘子(おとめ)との悲恋説話はこの時のもの(肥前国風土記逸文、万葉。)
   欽明天皇23年(562年)、大将軍に任命され、兵数万を率い、百済の計略を用いて高句麗を討つ。逃亡した高句麗王の宮に進入し、         
   多くの珍宝・武器などを奪って持ち帰り、七織帳を天皇に献上した。武具並びに捕えた美女媛とその従女は蘇我稲目大臣に送り、
   稲目はこの二人を納れて妻としたという(書紀の分注には11年とある)。
   なお861(貞観3)年8月の伴善男の奏言によれば、狭手彦は金村の三男で、宣化天皇の代、新羅を征し、任那を復興し  
   百済を救けた。欽明天皇の代、高句麗の侵攻を受けた百済救援のため大将軍に任命されて高句麗を討ったという
   (日本三代実録)。

 ↓
●長徳   宇真飼
 大化五年(649)四ノ甲午、大紫、右大臣、在官三年、白雉二年(651)七ノ 薨

  「長徳略伝 632(舒明4)年10月、唐使高表仁らの船が難波津に停泊した際、一行を迎えるため江口に派遣される。
   この時船32艘・楽器・旗幟などを飾り整えたという。642(皇極1)年12月、舒明天皇の喪葬の礼に際し、
   大臣蘇我蝦夷に代わり誄(しのびごと)を奉る。この時小徳(冠位十二階の第2位)。
   644(皇極3)年6月、連理の百合の花(祥瑞)を献上する。645(大化1)年、孝徳天皇即位式の際、金の靫を帯びて
   壇の右に立つ。649(大化5)年4月、大紫位右大臣。『公卿補任』によれば651(白雉2)年7月に薨じたという。」

 ↓
●安麻呂   六男
 大宝元年三ノ甲午従三 同二年正ノ乙酉 式部卿
 五ノ丁亥三木 六ノ庚申兵部卿 慶雲二年八ノ戊申大納言
 十一ノ甲辰大宰使 和同元年三ノ丙午正三
 同七年五ノ丁亥 薨 贈従二

  「安麻呂略伝 天智年間、巨勢郎女を娉う歌が万葉に見える
   672(天武1)年、壬申の乱に吉野方として参戦。同年6.29叔父の大伴吹負が
   坂上熊毛らと謀って奇襲作戦に成功し、倭古京を制圧した時、安麻呂は
   不破宮の大海人皇子にこれを報告。天武政権確立後は壬申の功臣として
   重んぜられ、684(天武13)年1.28、広瀬王らと共に新都のための適地視察
   の使に派遣される。686(天武15)年1月、川内王らと共に新羅の使者接待の
   ため筑紫に派遣される。688(持統2)年8.10、天武の殯宮に際し、誄を奉る。
   文武即位後の701(大宝1)年3.21、直大壱より「正従三位」に昇叙される。
   『公卿補任』にはこの年3.19、中納言に任じられ、同年3.21停中納言
   (中納言廃止は続紀にも見える)、散位と為る、とある。702(大宝2)年
   1.17、式部卿に就任。同年5月、前年廃された中納言に代わって新設され
   た参議に就任する。同年6.24、兵部卿を兼ねる。705(慶雲2)年4.17、
   大納言の定員が4人から2人に減り、中納言(3人)が復活する。これに伴い
   粟田真人らが中納言となるが、『公卿補任』によれば安麻呂もこの時
   中納言となる。同年7月、大納言紀麻呂が薨じ、代わって安麻呂が
   大納言に昇進。この時点では右大臣石上麻呂・大納言藤原不比等に次ぐ
   第三位の地位であった。同年11.28、大宰帥を兼ねる(遥任か)。708(和銅1)
   年3.13、石上麻呂が左大臣に、不比等が右大臣に昇進するが、安麻呂は
   大納言に留められ、帥は解任される。710(和銅3)年3.10、平城京遷都に
   際し、佐保に宅地を賜わる。714(和銅7)年5.1、薨ず。時に大納言兼
   大将軍正三位。「不受葬礼。遣大膳大夫鈴鹿王等」(補任)。
   元明天皇より従二位を追贈される。」

   △兄  御行   五男
       天武四年三ノ庚申 大輔 小錦上 持□ 八年加封為氏上
       同十年十ノ庚寅賜資人 文武四年八ノ丁卯 正廣三
       封五百戸 兵政官 真大一 大宝元年正ノ三 薨 五十六
       同ノ廿 贈右大臣 正廣二

       「御行略伝 壬申紀に名は見えないが、壬申の乱の功臣であったことは続紀701(大宝1)年7月の功封の
        記事から明らかである。675(天武4)年、小錦上兵部大輔。
        684(天武13)年、宿禰賜姓。688(持統2)年、天武天皇葬送の際、誄を奉る。694(持統8)年1月、贈封され計500戸。
        同時に大伴氏の氏上に任命される。696(持統10)年、正広肆大納言として資人80人を仮賜される。
        700(文武4)年8月、善政を称され正広参に昇進。701(大宝1)年1月、大納言正広参として薨去し、正広弐右大臣
        を追贈された。同年7月21日文武天皇の勅に、壬申功臣として賜った功封100戸のうち4分の1を子に相伝する旨見える。
        712(和銅5)年には、その妻紀音那の貞節を賞め、邑50戸を賜っている。
        万葉に「壬申の乱平定以後の歌」として「大将軍贈右大臣大伴卿作」の歌が載る。
        なお『竹取物語』に登場する「大納言大伴のみゆき」は御行をモデルとしていると言われる。

   △次兄 御依
       宝字六年四ノ庚戊義部大輔 神護元年正ノ巳亥 正五上
       同二年十ノ庚寅 出雲守 宝亀五年五ノ癸亥 卒

   ▽弟 稲公  一ニ稲君 
      天平勝宝元年八ノ辛未兵部大輔 同六年四ノ庚午上総守 宝字元年八ノ庚辰従四下



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