山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

伊予 亥の子餅つき甚句

2022年07月20日 18時07分40秒 | 亥の子歌
愛媛県内子町大川地区に残る「亥の子歌」を愛媛県の方から教えて頂きました。

下記の通りです。「大黒様の仰せ」が「お亥の子様」となってはいますが
殆ど、屋代島の亥の子歌と同じです。
子供たちが各屋を祝って歩くらしいですが、大島のように亥の子石を撞いて
歩くのではなく大洲八多喜の祇園社で行われる、亥の子の「藁束撞き」を
伝承しているようです。
藁束と石の伝承がどのように分布しているか調べたいものです。
文化の伝承の範囲となります。

周防大島の伝統文化の大半が現住民の移住元である「伊予」に根差している
ものが多いのです。
「亥の子歌」が伊予の地域と殆ど同じであることは、転居の自由が殆ど無くなった
江戸時代以降の伝播ではなく戦国時代以前の伝播と考えれば納得がいきます。
「亥の子歌」は瀬戸内各地に残ります。種類としては2つあります。

宮本常一先生ではありませんが、「亥の子歌とその所作」の文化圏を調べること
はある意味、中国の毛利家、伊予河野家、村上海賊家の勢力範囲と重なると
思われます。
東は岡山県までで、西は大分・宮崎県までが最大圏ではないかと思われます。
これらは村上海賊の最大勢力圏と重なると思われます。
先日山内譲氏は村上海賊の西の勢力拠点は上関までと講演されたとか?
村上海賊は国東半島まで勢力圏であったと思います。出城は姫島にあったと
思います。

愛媛県内子町大川地区は戦国時代は伊予國喜多郡大川村とされ、喜多郡、浮穴郡
を当時支配していたのは伊予大野氏であり、大野氏の一部が能島村上武吉、元吉
らに加わり、秀吉の誘いに乗らなかったので、能美島を経由して屋代島和田に
入り、後、屋代村へ移住しますので、愛媛県内子町や大洲市に残る「亥の子行事」
は移住により伝えられたと思われます。
この大野氏は「能島家家頼分限帳」では大野兵庫とされ村上家家老です。
今の大島では西屋代石井にある龍心寺隣の「大友様」(大野友之丞こと大野直虎)も末裔です。
「大島町誌」は大野家は当主大野直深が「享保の一揆」で切腹を余儀なくされ、断絶と書きますが、
「橘町誌」は明治19年の土居村他二ケ村の戸長(村長)として「西屋代村士族 大野政一」を
記録しています。彼が直系の末裔となります。

大野直深らは小松の明新小学校横の屋代川手崎で処刑されますので、地蔵がのちに祀られました(後に首が
壊れたので「手崎の首切り地蔵」とされます。最近、この「首切り地蔵」が明治維新の長州征伐の時の
伊予の捕虜を処刑した時の関連地蔵とする人がいますが、これは間違いです。
あまり「伝統作り」に水を差すようですが、「手崎の首切り地蔵」は元々首はありました。
地震か何かで転がった時、折れたのでしょう。昭和30年代初頭まで「壊れた首」は傍に置いてありました。
勝手に伝説を作らないでください。

それと県郡市町村史と雖も鵜呑みにしてはならない例ですね。

余談ながら「本スレッド」で神官家一族「星野哲郎」氏に触れていますが、星野家は今でも
伊予の伝統ある神社の神官は「星野姓」ですので、星野氏も伊予から移住してきて
村上家関連の神社の神官を現在も務めていますね。
流れからすると、有名な「長州大工」「長州石工」が伊予(愛媛県)土佐(高知県)
へ出稼ぎに行ったと東和町史資料編は書きますが、本来彼らは「伊予職人」であり
かってのクライアント(顧客)にオーダーされたものと思われます。

民俗学者宮本常一家も元々は「伊予大工(長州大工)」の流れであったのではないでしょうか?

亥の子歌一つが歴史の因果のヒントをくれます。

「愛媛県内子町大川地区 亥の子歌」

【お亥のこさんと言う人は
一(いち)に 俵(たわら)を踏(とう)うまえて
二(に)で にっこり笑って(わらって)
三(さん)で 酒を造(ぞう)くって
四(よっ)つ(つ) 世の中善いように
五つ(いつつ) 何時もの悟得(ごとく)なり
六つ(むっつ) 無病(むびょう)息災(そくさい)に
七つ(ななつ) 何事(なにごと)無いように
八つ(やっつ) 屋敷を踏み広げ
九つ(ここのつ) 御蔵(こくら)を建て並べ
十(とお)で とうとう納まった。
ここの屋敷は良い屋敷、
四方(しほう)が高くて中窪(なかくぼ)く、
大判・小判がすずれ込む
繁盛、繁盛  】


最新の画像もっと見る

コメントを投稿