あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

沖繩の風景 ~ 雨中、東海岸国道329号線を北上 ~ 宜野座道の駅

2021年06月03日 12時53分43秒 | Weblog
5月30日(土)、寸時の晴れ間に友とドライブ。
車を北へ走らせる。
「いい時を選んだな」と友の勘の良さを褒め称える。
浦添バイパスを抜け、宜野湾市中を北へ抜ける。
普天間宮を右折し、沖縄市へ。
梅雨の中休みの晴れ間は清々しい。窓を開け涼風を入れる。
「今度のコロナの影響で、ライカムから30店舗近く撤退したらしいよ」
「そんなに!」
人が集まって商売になるところ、人が来なけりゃ、たちまち窮地に陥ってしまう。
「野菜も売れなくて捨ててるらしいよ」
「俺も見た。大間だったか、マグロの値段が3分の1になってるって、云ってたな」
 きょうは東海岸を走り、宜野座道の駅に行ってみようということだ。
米軍相手に、嘗ては賑わった嘉手納ゲートに通じる通称「空港通り」を過ぎ、コザ十字路を左折して329号線に入る。
 沖縄市を抜ければうるま市だ。
うるま市のバイパスに入る。
石川の中心街を避け、石川の北の端に出た。



 石川を過ぎると建物が少なくなる。
「やんばるの329号線は長い間走ってないな」独り懐かしむ。
町並みや、見慣れた海の景色が妙に懐かしかった。
「写真に収めるには自転車あたりで来ないと駄目だな」
 金武町の基地を通り抜けると宜野座だ。
「ぬぶい くだい(=上り 下り)」の名残が残る329号線を北上する。
 「ここ、宜野座道の駅っ?」
車窓の左手に、丸っこい建物が目に飛び込んできた。

 建物を廻り込むようにして駐車場に入る。
左手の3階建ての円形の建物が、先程、車窓から見えた建物である。
コロナ禍で行き場を失った家族連れであろうか、329号線の車の流れも、駐車場の車の数も多かった。
 ポツポツ落ち始めた雨を避けるように、急ぎ足で店内に入った。
店内は活気がなく、商品も少ない。
どことなく寂れて見えた。
「他の道の駅とは、随分、違うね。やる気がなさそう」
友人がボソリと独り言を云った。
何も買うものもなかったが、珍しいので「マンゴージャム」だけを買った。
コロナの影響かもしれないが、これじゃ、遠来の客には申し訳ないだろう。
他の「道の駅」で頑張っている人たちに対しても失礼だ。
「おにぎりを持って来た」
「晴れたらお天道様の下で食べよう」ということにした。
3階建てのこの建物は、新しく増築したらしい。
2階がレストランになっているということだったので、お茶でも飲んでいこうということになった。
レストランは開放的で、広く、新築の匂いがした。
客は若い男女3人一組だけ。
大きい窓側の隅の席にいるだけで、ガランとしていた。
ベランダは広く、建物を取り囲み、屋根が大きく突き出ていた。
「外にするか」
雨足が強くなった。

 南西方向、今来た329号線が見える。

 この道を右に行けば漢那ダムに向かうのだが、結局、雨が止まずに断念した。


 南の方向。
遠方に霞んで見えるのが宮城島の石油基地。その右に海中道路があるのだが、霞んでしまって見えない。
宮城島の左方向の先端が伊計島だ。


 東の方向。
この岬の向こう側には辺野古がある。 
辺野古問題を考えるとき、ウチナンチュウの気持ちが痛いほどわかる。
大東亜戦争の時、沖縄県民は懸命に戦った。
年端も行かぬ15歳の少年が鉄血金皇隊として動員され、戦った。
その時から基地のある風景は変わっていないのである。
理屈を捏ね回しても、県民の感情は癒やされることはないだろう。

 帰り際にみた道の駅の外観。
外観はは変わってなかった。
雨がひどくなっていた。


 雨は止みそうになかった。
取り敢えず、329号線を北上する。
「東海岸が太平洋側だよね」
「今更、可笑しいよ」
「西海岸が表のような気がして、西海岸が太平洋で、東海岸が東シナ海と錯覚してしまうんだ」

 雨が激しくなったので、帰ることにした。
329号線を左折して西海岸に向かった。
名護に出て、ひたすら58号線を南下する。
恩納村道の駅で車を止め、お茶を買って、車内で握り飯だ。
「ビールを買ったら、『敷地内で飲まないでくだい。コロナ対策です』と言われた。
仕方ないからお茶と交換したよ」
「待てよ、車の中で飲むならよかったんだ」
ふたり、大笑いした。
 
<余録>
 先日、一輪咲いた朝顔は、毎朝10輪を超えるほど咲く。
繰り返し種を採取して栽培しているので、当初より、花は小さくなった。
この花が終わったら新しい種を蒔かねばなるまい。


 簾の反対側は台所である。
朝顔の蔓は簾の裏側に回り込んで、毎朝、台所の窓を開けると「おはよう」と語り掛けて来る。


ー画像はすべてクリックで拡大しますー


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沖繩の季節 ~ 梅雨の中の皆既月食 ~ 晴天だったが・・・

2021年05月27日 18時30分54秒 | Weblog
 昨日5月26日は満月の皆既日食であった。
先日の予報では一日中雨だった。
 一夜明けて、雨が降るような気配を感じることがなかった。
夕刻、南西の空。


 夜8時前、スマホを片手に外に出る。
東の空にやや低く、住宅の上に赤黒い月が見えた。
肉眼ではよく見えるのだが、カメラではぼやけてしまう。
公園では幾人かがスマホをかざしていた。
 高台を目指して公園の階段を昇る。
階段の途中や高台の中腹のあちこちに黒い人影が三々五々目に入った。
高台の上に着くまで何度もシャッターを切る。
うまく撮れてない。
目に焼き付けようとあきらめた。
かれこれ1時間近く眺めて帰った。
それでも諦めきれず、途中、思い直してはシャッターを切った。
60枚近くあった画像は全て破棄せざるを得なかった。
残ったのは最初に写したこれ1枚。


 ブログを書きながら、今、気付いた。
露出を変えればよかったかもしれない。
そんなの何処にあった、とスマホの中を探し回る。
みつけた、「タイマー」表示の中に3秒と10秒があった。
でも、タイマーなんて言うのかな?
言わないな。

「雑記」
 階下の大鉢のブーゲンビリアが3ヶ月ほど前に丸裸にされていることに気付いた。
ブーゲンビリアは太い丸太ん棒からも芽が出て根付くと聞いたことがある。
2,3日前、あの丸太ん棒のブーゲンビリアが元気に目を出していた。




 早朝に、朝顔とのあいさつは夏の楽しみである。
「今年は早く植えて、早く咲かせよう」と3月終わりに種を撒いた。
一週間ほどで発芽したが、中には発芽に3週間ほどかかったものもあった。
発芽すると蔓は元気よく成長した。
蔓は伸びるが、花は一向に咲かない。
5月24日、漸く、一輪咲いた。
それから毎日咲くようになり、今朝も10輪ほど咲いていた。
5月24日のただ一輪の朝顔がこれ。


 ひと月一度の定期健診。
5月25日、初夏の日を浴びて、当の病院に向かった。
通りすがりに見つけた浦添商業高校の土手に咲いていた花。




夾竹桃
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<お断り>
 5月22日ブログ「沖縄の季節 ~ 梅雨は未だ明けないの? ~ 「梅雨のズル休みか」に使用したNHKテレビの画像が違法かという心配があり、
NHKに問い合わせたところ違法ということであったので、本日を以て、当該ブログを消去しました。
        

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沖縄の季節 ~ 暖かだった沖縄の冬・桜のある風景 ~ 2021年2月

2021年04月14日 19時42分01秒 | Weblog
沖縄の桜は寒緋桜。
沖縄本島北部(やんばる)から咲き始め、ほぼ、ひと月かけて那覇に南下する。
やんばるでは賑やかに桜まつりが始まる。
 今年は1月16日~1月31日に本部町八重岳の森公園で「第43回「本部八重岳桜まつり」が開催された。
 又、名護城(なんぐすく)、名護中央公園では毎年1月最後の土・日曜に名護中央公園を中心として一帯を会場として、
「名護さくら祭り」が開催される。
今年は中止となった。
 本部半島では,世界文化遺産「今帰仁城跡」で第14回「今帰仁(なきじん)グスク(城)桜まつり(世界遺産の城跡で夜桜を楽しむ)」が、2月13日・14日に開催予定だったが中止となった。

 今年は開花が早いなと、時折見つけた町なかの、気まぐれに撮った風景を集めてみた。
気まぐれに撮ったとは言ったけれど、通い慣れた道ばかりであった。
 ひと月一度通う道すがら庭に咲く桜。三部咲きか。
令和3年2月3日。


 翌日、毎年開花を確認する泉(カー)の桜を偶然見ると、今正に、開花を始めようとしているところだった。
令和3年2月4日。


 毎月一回、定期検診に病院を訪ねる。
帰路は散歩がてら遠回りしてみた。その道すがらの風景。
令和3年2月8日。







 翌日も好天気が続いていたので、友人を誘って東南植物楽園に出向いた。
25℃を超える暖かな日和だった。
目的は巨大ハスの植えを歩くクイナを撮るためだったが、生憎、蓮は暖かくならないと水上には葉は出さないという。
冬(10月~3月)夜間は「ひかりの遊歩道」イルミネーションが園内を飾る。
この日は客の姿をほとんど見ることはなかった。
イルミネーションの正体が陽の光に晒されて、殺風景だった。
 付属する植物園に立ち寄ってみた。
数本の桜を見つけた。
令和3年2月9日、東南植物楽園。

 毎年植木市が開かれるうるま市の公園に隣接するスーパーに寄ってみる。
駐車場入口の桜は見事だった。




 あれから一週間。
所用で家を出た時、近所の庭に咲くイッペーが目に止まった。
イッペーは3月と思っていた。
今年は早いなあと思いつつシャッターを切った。
写真整理をしてみると桜が入っている。
翌日、桜を見に行ってみると葉桜にならんとするところだった。
令和3年2月19日。

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 自宅から歩いて12,3分の範囲内の気まぐれに、目に止まった桜のある風景。
フォトチャンネルにまとめた。
2021年 暖かだった沖縄の冬・桜のある風景



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沖縄の風景 ~ 嘉手納・読谷村の海岸風景 ~ 平和な退屈な風景だが、大東亜戦争時、米軍上陸の地

2021年03月24日 17時24分47秒 | Weblog
 3月17日。太陽が未だ昇らず、東の空が白み始めた頃に起き出した。
東の空は明るが、前田高地の上に昇るからここは未だ暗い。
昨夜は夕食を友人とともにしたので帰宅が遅かった。
眠気を吹き飛ばすように布団を蹴り飛ばして起き上がる。
手慰みに植えてあるベランダの数鉢に水を遣らねばならなかった。
プランターボックスのれんげ草に薄いピンクの花が2輪咲いていた。
 一昨年、Amazonから種子を取り寄せて寒くなる前の10月下旬に種を蒔いた。
葉はプランターを覆い尽くすほどに育ったが、2,3輪咲いただけで枯れた。
今年は2ヶ月ほど遅くらせ、寒さを感じる12月下旬に種を蒔いてみた。
今朝みてみると、更に2輪みつけた。
 れんげ草には思い出がある。
母に手を引かれ、母の実家に行く途中の峠の手前にある段々畑一面にれんげ草が咲くところがあった。
れんげ草の中に飛び込んで、はしゃぎまわった。
それから、少し進むと峠には冷たい清水が湧き出ていた。
手に汲んでひと飲みし、火照った顔に当てると冷たかった。
木々が影を落とす峠を上り切ると、明るい大地が広がり、祖母の暮らす村があった。
祖母は寝たり起きたりであったが、、真っ先に祖母の寝床に潜り込んだものだった。


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 3月17日11時。「お茶でもどう?」と、昨年秋、円満退職した幸司君から電話が入った。
この二、三日、何かと時間に追われる気忙しい日が続いた後だったので快諾した。
偶然みつけた彼のお気に入りの喫茶店に入り、軽い軽食で昼食を済ませ、よもやま話で楽しく過ごした・
「ちょっと、読谷(ヨミタン)までドライブしませんか」と珍しく誘ってきた。
「行こう!」断る言われなど全く無い。

 国道58号線から5,6百メートル入った海岸である。
年に2,3回はふと立ち寄っていた海岸である。
彼もこの海岸が好きで、よく立ち寄るという。
 嘉手納町の海岸線に出た。

 この日は雲ひとつない快晴だった。
暑かった。
海岸線に出ると水平線がはるか彼方まで拡がっていた。




 岩礁には小魚が群れている。
右端には米軍関係の家族だろう5,6人が浜遊びに興じていた。






 あの岬の向こうが渡具知海岸だろう。
その遥か向こうの島影が残波岬だろうか。
行ってみることにした。


 トリイ基地を過ぎて、「この浜に行きましょう」とレストランらしき建物の駐車場に車を入れた。
レストランは休業中のようであった。このコロナ騒ぎでは観光客はあてに出来ないだろう。
人気のない閑散としたレストランの白いテーブル席が数席、午後の陽を受けていた。
海岸線に出ると広大な景色が拡がった。
遠くまで続く広大な浜にはレストランと、遊び疲れを癒やすためだろう幾棟ものバンガロー風の屋根だけの建物があった。
バンガロー風の屋根だけの日陰には、ひと組のカップルがパソコンとにらめっこしていた。







 浜辺では三々五々、若いカップルやグループ、家族連れが磯遊びを楽しんでいた。






 少し離れて軍属の家族だろうか、幼い子供連れが見えた。
 70数年前、夥しい連合軍の艦船がこの海を覆い尽くし、
朝未だ明けやらぬ空から、平和な眠りから覚めんとする読谷山村(現読谷村)に向かって、
砲弾を雨あられと降り注いだのだ。
同じ風景の中には、そんな残虐で、非情な影はひとかけらもない。

 帰路は国道58号線に出て南下する。
町並みはすっかり昔の面影もなく変貌していた。
嘉手納ロータリーはなくなり、区画整理もされていた。
昔の面影と寸分違わぬ嘉手納基地を通り過ぎると北谷(チャタン)に入る。
昔、沖縄に住んでいた友に語るために、助手席から逆光を物ともせずに撮ってみる。
一枚だけ、辛うじて使えるものがあったが、これじゃ伝えることは出来ぬだろうと苦笑した。
数年前まで、左側は金網だったが、もう町が出来つつあった。


 きょう行ったところは大東亜戦争時、連合軍が上陸した地点である。
沖縄戦はこの海岸から始まったのだ。
 昭和45年4月1日午前5時半。
沖縄上陸作戦は海上を埋め尽くした米軍艦船の艦砲射撃で始まった。
午前8時半、読谷村渡具知海岸に上陸。
日本軍の抵抗はなかったtいう。
古老の話によると海上は艦船で真っ黒になり、艦砲射撃の砲弾の光が空を覆い尽くしたという。
嘉手納の海岸から残波岬に至る海岸線がそうであったろうと想像した。
 地図を探している時に、上陸時の記録動画を、偶然、見つけた。(ここをクリック)


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沖縄の季節 ~ 沖縄の冬は本土の春 ~      

2021年03月10日 17時17分09秒 | Weblog

 今年は「桜のある沖縄の町角」の風景を残す予定だった。
桜が葉桜になった2月下旬、3月3日写真の選択も終わり、記事投稿に取り掛かった。
画像をアップしようとしたところ、
「←ブログフォト加入でアップロード先の振り分けや、340倍の保存容量が利用できます」と表示が出た。
基本的知識のない哀しさ、一日中あれこれやってみるが解決しない。
「ブログフォト」を「ちょコム」で払っているので、「もしや?」と確認すると残高が少なく、3月分の引落しが出来ていない。
ちょコムに振り込もうとするが銀行振込、ネットバンキング共に使えなくなっている。
止む無く、コンビニまで出向き、振り込み手続きをする。
振り込みが終わり、「引落完了」のメッセージが終日待つが来ない。その日は諦めて寝た。
翌日も来ていない。考え得るだけ、何度も試みるが解決しない。
遂に、goo事務局へ。
事務局からの回答はいつものように早い。翌日には処理について案内があった。
そうしたことで画像フォルダーが使えるようになったのが3月7日の夕方。
やむを得ず、「桜のある沖縄の町角」はあきらめ、そのときにカメラに収めた光景をの中から選んでみた。

 令和3年3月5日、陽射しの強い日だった。
2月19日に撮った近所のマンションの一階駐車場の正面にある花壇の2週間後、ツツジが満開になっていた。
右奥にミニトマト、コスモス、そしてツツジと季節が雑居しているようだ。



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 令和3年2月15日、近くの庭に咲くイッペー。
2週間ほど早い気がする。


同じ庭に植えられた桜には若葉が芽吹いていた。右奥が桜。

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 令和3年2月5日。
昨年秋から咲き出したツワブキ。今年は咲き始めが遅かった。
近くのスーパーの花壇。2月の終わりも方々で見かけた。


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 令和3年2月6日羊蹄木(ヨウテイボク)
最初に出会ったのが十数年前。本島南部知念で、琉球ゴルフクラブに通じる羊蹄木の並木であった。
高木で青い空に聳える様は圧巻であった。
その後、何度か花期に訪ねてみたが、あの光景を見ることはなかった。
花時は春と秋と記憶していたが、最近は、いつでも咲いている気がする。



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 令和3年2月17日。
ふと、みつけたパパイア。
見慣れた木ではあるが、この日は何故か心惹かれた。

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 一昨年夏はナス栽培を挑戦して思わぬ成果を挙げた。
こころよくして昨夏は鉢も大きくし、土も多く買い込んで期待したが失敗した。
苗が伸び始め50~60cmのところで成長が止まり、立ち枯れ状態になってしまったのだ。
今年は再挑戦のつもりだ。
 去年の晩秋、ミニトマトをプランターボックスで栽培を試みる。
今年に入り、何度か収穫する。
脇芽を取るのを見過ごし、2枝ほど伸ばしてしまった。
小粒だが実は良くつける。

令和3年2月19日。

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 ベランダによくヒヨドリが来るなと楽しみにしていた。
ある日、ガラス戸の向こうから、ヒヨドリがいつものように家の中をしばらく見ている。
目が合う(多分)と、2,3度キョロキョロと周りを見廻して、ヒョイと左へ消える。
ある日、「どこに行くんだ」と、立ち上がって引き戸を引くと、バサバサと大きな羽音がして飛び去った。
飛び立ったところにはミニトマトを植えているプランターがある。
根元には赤く熟した食べかけのトマトの残骸がひとつあるではないか。
迂闊だった。
いつもやってくる目的は、このミニトマトだったのだ。
スーパーで食品を包んでくれるビニール袋をミニトマトに房ごと被せた。
それからは収穫量が増えたし、収穫の日も短くなった。
令和3年3月2日。

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 昨年、Amazonでれんげ草の種を取り寄せ、11月初めに植えた。
年が明けると瞬く間にプランターを覆い尽くしたが、結局、2,3輪花をつけただけだった。
沖縄でのれんげ草は見たことない。沖縄では無理かと諦めかけていた。
ある日、「沖縄は2期作だ」と気づいた。
運良く、種はとってあったので、種まきの時期を2ヶ月ほど遅らせ、12月下旬に植えた。
発芽は順調で、2月に入って間引きをした。
令和3年2月19日。

そして2週間。成長は順調だ。

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咲いたら、可憐な想い出深いレンゲを眺めながら・・・。


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沖縄の忘れ得ぬ人たち(Ⅰ) ~ 北海道からの佐々木さん(仮名) ~ 100円ショップに心痛める人

2021年02月22日 13時07分40秒 | Weblog
 2日前(2月19日)。
バス停に向かう道すがらに、季節の花々を楽しませてくれる花壇がある。
マンションの一階の駐車場前に作られた花壇である。
花に見入っていると、いつも手入れに余念のない初老の婦人が、にこやかに頬笑みを浮かべながら近づいてきた。
「今年はコスモスがよく育ちましたね」
「きれいでしょう」と嬉しげに笑った。
ツツジ。コスモスもひと際げんきだった。ミニトマトも豊作だった。


 7,8年前他界した札幌出身の司法関係の仕事をしていて,
沖縄の新聞社に勤め、晩年は広告代理店を経営していた人がいた。
取り敢えず、佐々木氏(仮名)としておこう。
 100円ショップが一般的になった頃、彼は
「僕は100円ショップには行かない。絶対行かない」という。
「どうしてですか?結構、良いものもありますよ」不審に思って訊ねると
「同じような物を作って100円で売れるというのは、人件費が安いからだ。
労働費を叩かれて、反発も出来ず働いているんだ。
だから、商品は安く売れるだけだ。
あれらのの商品を見ていると涙が出てくる」
そういった彼の身体は怒りに震えているようにみえた。
「戦後の貧しかった頃のことを思い出すんだ」
私より8歳上の昭和8年生まれだった。
 飄々とした風格は作家を連想させたし、知識も豊富だった。
私は、彼に兄のような親しみを持っていて、自由奔放に振る舞うことが出来た。
疑問に思ったことは何でも質問できたし、彼は揺るぎない信念をもっていたから、明確に、躊躇なく答えてくれた。
 転勤を繰り返していると地元のことについて質問するのはなかなか神経を使うものだ。
沖縄での生活が長かった彼は、何でも話してくれたし、教えてもくれた。
 私の営業所は那覇市内を流れる久茂地川沿いにあった。
川幅は10メートル位だったろう。
営業所の前は車が2台駐められる余裕があったから、よく人が訪ねてきた。
川向うの土手には立派なデイゴの並木があり、5月には真っ赤な花を咲かせた。
肉厚の花びらは好きではなかったが、
「その内に、好きになるかもしれないよ」と彼は笑って言った。
 ある日の夕方、夫人を伴って営業所を訪ねてきた。
「お揃いで、珍しいですね」
事務所のドアは明るく、それに続くウインドーは広く、事務所内は明るかった。
道路は一方通行で、58号線から入ったところであった。
「最近、ご無沙汰しているから寄ってみた」
彼はにこにこしながら、ドアを開けて入ってきた。
面長の端正な顔立ちとすらっとした体型にどこか育ちの良さが感じられる。
夫人は快活で、明るく、前向きなさっぱりした性格で典型的な沖縄の女性だった。
「いらっしゃいませ」
事務の手を止め、椅子から立ち上がりながら、美人で二十歳すぎの営業所自慢の明代が会釈をした。
身長が167cmあり、日本的美人顔でスタイルも抜群だった。
時折、那覇市内で行われるショーのモデルに借り出されていた。
「明代ちゃん、コーヒーね」
「はーい」
心地よい、明代の明るい声が、間髪入れずに返ってきた。
佐々木さんは彼女の姿を目で追いながら、
「実にいい娘だねえ」と目を細めながら微笑んだ。
「ありがとうございます。うちの看板娘です」
20分ほどして、
「きょう、どう?よかったら一杯やらない?」
時計は17時半を廻っていた。
「明代ちゃん、佐々木さんと出るけど、何かあるかな」
「きょうはありません。お疲れさまでした」
我々三人がドアを開けると、明代もドアの外まで出てきて
「ありがとうございました。失礼します」
と会釈をした。
自然と出る、明代のこうした振る舞いが来客には人気があった。
「ありがとう。所長を借りてゆきます」
佐々木さんは微笑みなが明代に軽く手を挙げた。

 「この近くで寿司屋を見つけました。どうですか?」
と誘ってみる。
「きょうはね、いいことがあってね。この人とあなたを誘ってみよういうことになったんだ。
小料理屋だけど美味しいよ。
国際通りの入口付近だ。2,3歩路地を入るけどね」
「それはたのしみですね」
「うん、きょうは僕の奢りだ」
何でもないことのようにさらっと言う。
「いつも申し訳ありません。それじゃ、存分にいただきます」
夫人がその言葉をとって、
「あまり食べませんよねえ。お酒の量も少ないし・・・」
遠慮しているのじゃないの、と言わんばかりである。
「胃が小さいのかなあ。自分では腹いっぱい戴いているのですが。
子供の頃から、ごはんのおかわりをすると、おふくろが驚いて、喜んだものです」
 営業所を出て、左に折れて久茂地川沿いを5分ほど歩き、左に折れて国際通りを横切って路地に入ったところにその店はあった。
小さな木造のその店は、4人掛けのテーブルがふたつと4,5人も座ればばいっぱいになるほどのカウンターがあった。
その店を入るなり、「佐々木さんらしいな」と思った。
 あれこれと、取り留めのない話題にしばらく和んだ。突然、
「うちのチビが出ていって帰らなくなってね」
佐々木さんは胸に溜めていたものを吐き出すように、突然、そう話し始めた。
「いつも連れていて、おふたりで可愛がっていたチビちゃんでしょ?」
当時は名前は覚えていたが、多分、中型犬のチビだったと思う。
「うん、10日ほど前に突然いなくなってね、自宅周辺を二日ほど探し回ったけど見つからないし、見た人もいなかったんだ」
と小さく笑った。
「写真を印刷して、近所の人に手渡したり、心当たりの場所には貼って回ったんだ」
主人が喋りに熱中している時は、いつも傍で、夫人はニコニコ笑っている。
「そうしたら、きょう友人から、電話があって『玉城(タマグスク)の琉球ゴルフ場の近くで君のところの愛犬を見つけたぞ。こんなところにいるわけ無いとは思ったが、よく似ているので気になって電話した』というんだ」
「ええ?10キロ近くは離れているでしょう?それで・・・」
「この人(夫人のことをいつもこう呼んでいた)も休みだったので一緒に行ったんだ。すぐに見つけたよ。
『〇〇!』と呼んだら、勢いよく走って来るなり、激しくじゃれついてきた」
「よかったですね。あんなに可愛がっていらしたから安心したでしょう」
といいつつ、「おめでとうございます」と盃を挙げた。
「それでね、しばらくあんたと逢ってないな、とこの人と話して、一緒に食事でもしようか、ということになった次第だ」
そういって、いつものように小さく笑った。

 次の瞬間、わたしは悔いても取り返せぬ生涯忘れえぬ大失態を演じるのである。
「わたしが子供の頃、ポチという名の犬を飼っていました。
小学校4年生だったと思いますが、両親は揃って母方の叔父の家を4,5日毎に訪ねていました。
何か相談事があったようで、夕飯が終わると父と母が連れ立って叔父の家に向かいました。
5、6キロほどの夕闇の道を歩くのです。
家を出て日豊本線の踏切を渡り、国道10号線に沿って城野駅という駅前を過ぎて、すぐに田畑の続く薄暗い農道を3キロほど歩くのです。
そんな日が2ヶ月ほど続いたのですが、2度ほど子供たちも一緒に行きました。
その時はポチも一緒でした。
 ある時、両親は叔父の家に行き、子供たちは留守番でした。
周囲は2,3軒の農家があるだけで畑が拡がっているようなところでしたから、散歩代わりにポチの鎖を解いてやります。
その日もいつものように放してやりました。
ところがその晩、いつまで経ってもポチは帰ってきませんでした。
翌朝、
「ポチらしい犬が国道10号線の城野駅前で死んでいます。車に轢かれたみたいです」
と隣家の長男から電話が入りました。彼は出勤途上だったらしいです。
2度ほど通った道筋を覚えていたのでしょうね。
叔父の家まで5,6キロでしたから、ポチが死んでいたのは中間地点の3キロ位行ったところでした」
一気に喋って、あのときの衝撃を思い出し、話し続けてしまった。
「畜生と言えども、人間とそんなに変わらないものですね」
これがいけなかった。
「畜生という言葉はいただけないなあ」
突然、温和な佐々木さんの表情が強張った。
「え?」唐突だったので面食らった。
「そうよ。畜生はないわ」
夫人の顔も暗かった。
 その日、どう散会したか記憶にない。
確かに、「畜生」という言葉を言い出す前に、瞬間、違和感を感じた。

 きょうも「畜生」を辞典とネットで確かめてみた。
あの日、帰宅するなり調べた内容と変わりはなかった。
①けもの ②人を罵っていう言葉
使用例で「畜生!。畜生め!。畜生道。畜生の境遇。・・・・・などとあった。
あのとき「人間以外の動物を『畜生』と言うでしょう」と言い募ったが、これは屁理屈だ。

 今の時代なら、然程、気にすることもないかも知れない。
我々の世代は「言霊」と云って、言葉を非常に大事にした。
「書いた物は破るか火に焚べれば証拠は残らないが、言葉は消すことは出来ない」
そう言った先輩もいた。
 最近の報道やコメンテーターの発言には「法律」が全ての規範になっている。
我々の世代には法律の前に、人として、してはならぬこと「道徳・道義・道」があった。
これらを超える行為を禁じるのが法律だと教えられたものだ。

 穏やかで、確固たる信念をもった佐々木さんが不快感を顕にしたこの一言は数十年が過ぎても忘れられない。
その後、佐々木さんには拘ることなく、変わらぬお付き合いをしていただいた。
数年後、佐々木さんは他界した。
夫人から電話をいただき、駆けつけた時は葬儀も過ぎた数日後であった。
急ぎ作られたであろう白木と白い布が、窓から差し込む陽の光に眩しかった。
 
 *佐々木氏がご機嫌の時は、必ずカラオケで歌った『黄金の花」(くがねのはな)
 

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沖縄の人情 ~ テレビが壊れた ~ 信頼が置けなくなったか日本のメーカーも?

2021年01月09日 16時48分04秒 | Weblog
  正月5日。
公園で二人の小学生の女の子がノートを広げて書いている。
雨が降っての合間の事。「風邪引くぞ」と気がかりだったがそっとしておいた。
一時間後、勉強でもしているのだろうか。まだ居た。
友達だろうか、姉妹だろうか。家に居辛いのか。
あれこれ考えを巡らすが、肩を叩いてみる勇気はなかった。


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 去る11月2日のことである。
昼飯も食べ終え、コーヒーを飲みながらのんびりとテレビを観ていた。
尿意を催していたが我慢をし、コマーシャルに変わったところで立った。
 戻ってみると画面は真っ暗、音声も消えている。
リモコンであれこれやってみるが反応が全く無い。
tレビ本体のスイッチから操作しても状況は変わらない。
取り敢えず、電源からコードを外し、10数分待って電源を繋ぐ。
スイッチを入れると、画面下部のランプが赤から青に変わり、音が聞こえた。
ホッとしたのも柄の間、10秒後には画面は暗いままスイッチランプは赤に変わって音声も消えた。
何度か同じ操作を繰り返したが、同じことの繰り返しだった。
 テレビはPN32型である。
別料金を払って5年間保証を掛けていたので保証書を引っ張り出してみる。
保証期間を観て驚いた。
 9月20日で保証期間が切れているのである。1ヶ月半前だ。
購入したのは大手量販店である。保証も切れているのでメーカーに直接電話を入れた。
 応対に出た係り員に状況を説明する。
「テレビを観ていたのですが、5分ほど席を立って、戻ってみると画面も音声も消えていた」
状況を出来るだけ具体的に説明した。
「切った後、スイッチを入れたらどうなりました?」
説明したじゃないかとイラッとしたが、語気を荒げることなく丁寧に
「スイッチを入れると音声は出ますが、画面が出ぬまま、10秒くらいで切れます」
「スイッチランプはどうなりますか」
「赤色が青に変わり、音声が切れると同時に赤に変わります」
係り員は徐に、
「画像の部分が故障しています。昔のブラウン管のようなものです。
ここが故障すると音声がしばらく出ますが、画像は出ません。
画像が故障したときに出るサインです。
故障を調べるのに修理できなくても4,800円かかります。
それに修理しても5,6万円は掛かりますよ。
32型なら新しく買われた方がお得でしょう」
説明も流暢で、声色も良い。
5,6万円もかけて修理するくらいなら、量販店の店頭では新品が買える。
 電話を切った後、妙にすっきりしない。
仕事もやめて2年余りになる。
やらねばならぬこともなければ、時間はたっぷりある。
ゆっくり考えるかと、テレビの前に座った。
そうか、テレビが壊れたんだ、と思うと全く手持ち無沙汰になる。
テレビがなくてはならぬ訳ではないが、こうした瞬間にも、一呼吸置く時は欲しい。
 ダメ元で、購入したK量販店に電話をした。
「どういう状態ですか」
この店は女性社員の応対が実に良い。
概ね、沖縄では女性社員が優秀で、頼りになる。
ひと通り、メーカーに話したとおりに説明する。
「保証はどうなっていますか」
「保証書が見つからないのですが、4,5年前に買って、その時いくらか払って保証に入りました」
惚けてみた。
「当店のカードをお持ちですか。カード番号とお名前をお願いします」
しばらく待たされた。
「お待たせしました。平成28年9月にお買い求めですね。5年間保証に入っていますが、生憎、9月で
保証期間が切れています」
「お伺いした故障状態をメーカーに相談してみますから少しお時間をください」
携帯番号を云って電話を切った。
一時間余りしてK社から電話が入る。
説明の内容は判で押したようにメーカーのそれと全く同じであった。
「今、どのような売出しがありますか」と出かかったがやめた、
「ありがとうございました」
それだけ云って電話を切った。
 時計は15時を回っていた。
今夜はテレビ無しで過ごすか、タクシーで量販店に行くか。
思案している時、ふとあるコマーシャルが頭に浮かんだ。
時折、目にするコマーシャルである。
メモしておこうと思ったのだが、メモはしていない。
記憶にあるのは「家電の修理は何でも」という言葉と「屋良電気・・・」というふたつだった。
ネットで調べてみる。
「屋良電化センター」に行き当たる。
営業内容には「家電販売」もあったのが気になったが、取り敢えず、電話を入れてみる。
症状のやり取りがあった後。
「調べてみないと判りませんが、お見積りするには修理をしなくても4,000円かかりますが・・・」
これは止むを得ないと納得して、頼むことにした。
 小一時間ほどで50過ぎの小ざっぱりとした作業着姿の男が現れた。
「持ち帰って検査してみます。きょうは遅いので明日調べることになります。お昼ごろになります」
テレビに齧りついている日常ではないが、「ない」となると生活の大切な一部がなくなったようだ。
この日はやることもないので、馴染みの居酒屋に出かけた。
 翌日11月3日、15時になるが連絡がない。
もう少し待とうかと思ったが、5,6万も掛かるなら新品を買いに出かけねばならない。
せっかち過ぎるかと思いつつダイヤルを回した。
「担当が出ていますので連絡してみます」昨日の女性ではないが歯切れのよい応対だった。
10分ほどして電話がかかってきた。
「申し訳ありません。今、◯◯に寄ってお伺いするつもりでしたがちょっと時間がかかってしまって。
一時間以内にはお伺いできると思います」
「それで幾らかかりますか?」
「15,180円です」
「それなら、修理してください。見積書は商品と一緒で結構です」
金額を再確認して完了日を尋ねる。
「3日ほど下さい。7日の午前中にはお届けできると思います」
電話の先の雰囲気ではお客のところのようだ。長話は失礼になる。
「よろしくおねがいします」
3日間はテレビなしか。考えると憂鬱になった。
修理費が15,180円ならと安堵した。
新しく買わなくてすんだな、無駄ではなかったと少し得意な気分になった。
その時、見積もり4,000円は入っているのか。詳細を確認しなかった。
10年くらい前までは、こんなドジな事はやらなかったのにと自嘲した。
 翌日、4日の夕方、件の担当者から電話が入った。
「修理が出来ました。明日、午前中にお届けに上がります」
我が耳を疑った。
「あ、そう。いくらでしたっけ」
分かっているのに問う。
「15,180円です」
「それだけ用意しておけばいいですね」
「はい、よろしくおねがいします」
翌日、10時過ぎに届けてくれた。
お釣りが要らぬように用意した。
「ありがとうございました。テレビがないとこんなに寂しいものかと痛感しました。
故障はどこでした?」
一応は聞いてみる。
「画像の何とかする部分がこれこれになっていました」
その時は覚えていたが、今は思い出せない。
「接続しましょう」そういってテレビを持ち上げた。
「いやいや、結構です。特に変わったやり方をしなくてよろしいのでしょう?」
大層なことをすることはなかったのだ。自分で出来る。
「いくらでしょうか」
「15,180円です」
随分と安上がりに終わったものだ。
「見積書をお持ちしました」
「それは結構です」
「え?そうですか?領収書です」
無駄な労力をかけさせたくなかった。
久しぶりに本物の業者と出会った気がした。
何の疑念も抱かずに買い物が出来たのは何十年ぶりだろう。

 数年前の「カメラのK」でのことを思い出した。
デジタルカメラの5万円台が出た時、「カメラのK」で買った。
7,8年ほど経っていただろうか。
カメラが動かなくなったので購入した店ではなかったが、近くの「カメラのK」に持っていった。
若い店員が応対に出た。
「ちょっと、調べてみましょう」そういって、故障したカメラを持って店の奥に消えた。
10分ほどで出てくると、
「こちらで調べても判りません。メーカー送りになります。送って検査するだけで15,000円ほど掛かります」
納得いかぬ顔をしていたら、
「ひょっとするとSDカードが壊れているかもしれません」
「えっ!?カードと本体と関係があるの?」
店員はこともなげに
「ええ、一体ですから。今うちに在庫がありません。この型のカメラは古いですからね」
「未だ、10年位だよ。まあ、いいや、SDカードはどこに行けば買えますか」
「先程、云ったようにメーカーに送るしかありません。SDカードが壊れていてもメーカーにも在庫はないかもしれませんよ」
SDカードを調べるためにカメラまで送れるか。これが。今時の専門店のレベルかと思った時、
「お客さん、同じくらいの性能でしたら、もっといい性能のカメラで1万円くらいのが出ていますよ」
こんな奴のいうこと信用できるかと店を出た。
 数日後、K店の前を通る機会があったので、店内に入りカメラを見て回った。
中古のカメラもあった。
無愛想だが、何となくメカに詳しそうな痩せ型の30過ぎの店員をつかまえて、
「10万位までのカメラを買おうと思っているんだけど、新品がいいか、中古がいいか迷っているんだけど」
と尋ねると
「お使いになる目的は何ですか」
返答は意外にもしっかりしていた。
「日記のつもりでブログをやっているんだけど、それに添える写真を撮りたいんだ」
「ブログなら1万円くらいのカメラで十分と思います。今、そこに出ているキャンペーンの8,980円で十分と思います」
「そう?」
納得いかぬ生返事をすると、
「性能的には十分だと思います。撮影が目的じゃないんですよね」
と念を押される。
「ええ」
「今はちょっと故障するだけで、メーカーに送らないと故障のチエックができません。修理してもしなくても最低の料金が掛かります。
そのキャンペーン商品金額以上のものが掛かります。それに修理代はカメラ代金に比例して高くなります」
先日の若い店員の話がなんとなく理解できた。
「そう。今持っているカメラが動かなくなったのでどうしようかと思っていたんだ。SDカードかもしれないと言われたけど、お宅にはないらしい」
「SDカードは3,000円くらいですよ。メーカーにあれば一度試す価値はありますね。電話してみましょうか」
親切は身に沁みた。
「いや、今の間には合わないから、きょうは、そのキャンペーンのカメラを買っていきましょう」
きょうは見てみるだけと店に入ったが、結局、買うことになった。
 半年後、メーカーに問い合せてSDカードを買った。三千数百円だった。
カードを買えるとカメラは正常に動いた。
報告のために、「カメラK」を数度訪ねたが彼の姿を見ることはなかった。
今、2台のカメラは動かなくなったがそのままにしている。
携帯はガラケイで終生過ごすつもりだったが、カメラの性能がいいということでスマートフォンに一昨年買い替えた。

 ひと頃、「勿体ない」という言葉が流行った。
我々昭和時代の人間には、「勿体ない」は日常に溢れていた言葉だった。
 今なら疾うに捨てられていた自転車も、サドルが朽ちてもお尻が載せられれば使い、タイヤが継ぎ接ぎだらけになっても使った。
どうにもならなくなったら、チューブでゴム銃を作って鳥捕りに使ったし、車輪はホークとタイヤを外して車輪だけにして転がして遊んだ。
大東亜戦争後であったからでもあるだろうが、捨てる前に他に使える道を考えた。
物を大切にする文化は日本の文化でもある。
 日本の着物だってそうだ。
汚れれば、糸を解き、分解して洗張にして縫い直した。
使えなくなれば、普段着や作業着や、果てはおしめや雑巾にしたものだ。
品定めをするときには金目は最初に問わない。
「一生もの」かどうか考えた。
 
 今はどうだろう。
あの大戦後、日本人が培ってきた社会や文化を否定する事ばかりが進歩的であり、建設的だと考えられてはいないだろうか。
ITは日毎に進歩してゆく。「機器は3年も経ったら過去の遺物だ」という言葉が流行った時期もあった。
今では、そういうことは当たり前で、「未だ使っているのか?」とバカにされる。
電化製品に始まって、あらゆるものが修理できなくなった。
 その中で、「家電の修理専門店」でテレビ宣伝をする店が出現したのだ。
驚きだった。だから、記憶に残っていたのだ。
靴だって、時計だって、洋服だって、傘も布団も修理や手直しを頼もうと思ってもそうした店を探すことさへ難しい。
漸く、探し当てても予想を遥かに超えて高い。
「新しいものが出ています。修理するより買った方がお得ですよ」となる。
消費型資本主義である。
 終戦後、長くアメリカ施政下にあった沖縄で「再生ビジネス」の芽が出たのに驚いた。
戦時中、ほとんど消失した三線も空き缶を胴にして復活したと聴く。
アメリカ施政下で、県民の風習や、年中行事も、そして旧暦と共に生き生きと息づいている。

 長い歴史の中で培ってきた文化や風習が廃れていくのは悲しいことだ。
グロバリゼーションという言葉だけで全てを許容していないか。是としていないか。
意味が不明瞭でも、カタカナで表現されれば、反論しなくなってはいないか。
使っている方も、聞いている方も理解しているとは思われない。
私はカタカナ語の多い説明や議論は、決して鵜呑みにはしないようにしている。



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沖縄の季節 ~ 明けましておめでとうございます ~ 数年ぶりの沖縄の初日の出

2021年01月01日 17時53分25秒 | Weblog
令和3年元日。
天気予報では曇天であった。曇りところにより雨が昨日までの予報であった。
午前3時頃、眠りについた。
 今年も寝正月かと、起き出したのが7時。
今朝は、昨日より2℃ほど高い14℃ということであったが、思ったより冷たく感じなかった。
さすがに昨日は冷たかったなと洗面所の窓を開けると真っ青な空が見えた。
久しぶりに初日の出を観ることが出来る。
急遽、スマホをポケットに入れ、直ぐ側の公園の高台に登った。
すでに東の空は明るく、太陽が上り始めていた。
東の空には沖縄戦の激戦地前田高地がある。高地の向こうより日の出が20分近く遅れる。
時計は午前7時25分を指していた。
 初日を拝むのは何年振りだろう。
漸く、顔をみせた令和3年の初日である。7時31分。


 帰り際、西の空を見ると厚い雲がある。
西は東シナ海と分かっているが、実際に見る時は太平洋だと思ってしまう。
天気が良ければ慶良間の島々が見えるのだが、ひと雨来るかなと思いつつ階段を下った。


 私の好きなこの高台は地表から10mもあるだろうか。
下りの写真は撮ってなかったな、と思いつつ撮った。








 いつものように明けた新年ではあるが、未だに新型コロナウイルスの終焉の兆しさへみえない。
一日も早く、平穏な日常が戻ることを願った。

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沖縄の観光 ~ 浦添市の観光名所 ~ ビル建築現場の洒落た案内板

2020年11月09日 18時22分00秒 | Weblog
 10月終わりの頃、ロクト整形外科でリハビリ療法士の治療を受けての帰り道、いつものバス路線を変えて国道58号線に出た。
琉球銀行牧港支店の玄関先の前庭にある花が目に止まった。
最近、あまり見かけなくなったなあ、と思いながらシャッターを切った。
私の記憶では、最初に観たのは50年前のハワイだった。
多分、「火の鳥」・・・・・・。
帰宅して、暇に任せてネットで調べてみる。
検索するが「火の鳥」は花が違う。
 漸く、見つけた。
ストレリチア(和名:極楽鳥)だった。
花期は8月~11月とあった。
本島南部の土壌が適しているらしいので、きっと南部に行ったときにみたのだろう。
最近は、遠出をしないからみる機会がなくなったのだ。



 ホームセンターで買いたい物があったので目的のバス停に着いた。
バス停の背後はビルの新築工事中だった。
工事の防護塀が歩道を狭くしていた。
何のビルが建つんだ、と建築許可証をみようと振り返って驚いた。
粋なことをやるもんだ。
浦添市の主だった史跡などを案内しているのである。
買い物を忘れて丹念に順を追って観た。
スマホに収めた。それがこれだ。











 ⑥の『カーミージー」2017年10月にブログをアップした。

.(ここをクリック)




 いつの日か訪ねてみよう。


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沖縄の人情 ~ うるま市石川で出会った素敵な女性 ~ 「育ちがいい人ね」

2020年11月03日 15時55分11秒 | Weblog


 10月29日木曜日。
朝から秋晴れの乾いた風が吹く昼下がり、突然、電話がなった。
「出かけてみる?きょう、休みだから」
これといって用事がある身でもない。
「行く!」即答である。
「家を出たから5、6分くらいで着く。大丈夫?」
「ああ、着替えるだけだから」
「沖銀の前で待っている」
 半袖シャツとズボンを穿き替え、盛夏用の薄手の上着を羽織って外に出る。
待ち合わせ場所は100mほど位しか離れていない。
何処に行くのかな?
聞いてみたところで別にこれという行きたい場所はなかった。
車を手放して、遠出をすることはなくなったので、どこでもいい遠くの景色を見たかったし、
充分に新しい空気が吸えるだけでもありがたかった。
 「最近オープンした<『うるマルシェ』へ行ってみよう」ということになった。
変哲もない高速道は使わずに一般道を石川に向かう。
「地図をプリントしているけれど、大体、記憶しているからいいだろう」
取りに帰ったって5分もかからないが戻らなかった。このちょっとした面倒臭さがとんでもないことになる。
「石川市の真ん中の海よりの道だ」案内する私には迷いがない。
1時間ほどで目安の場所に着いたが、ショッピングセンターらしき建物がない。
すぐに見つけられると思っていたが、20分ほど車で探すが見つからない。
 ローソンをみつけて、車を停めた。
タバコを買った。
「この近くのはずなんだが、『うるマルシェ』は知らない?」
小太りの締りのない風体の若い店員に尋ねた。
「え?知りません」と素っ気ない。
「店長に聞いてみます」くらい気を利かせろよ、と思いつつ客が途切れるのを待っていた。
 ふと、コーヒーメーカーからコーヒーをコップに入れている30過ぎの清楚な女性が目に止まった。
「すみません。お尋ねしますが、『うるマルシェ』はこの近くだと思ったのですが・・・」
「えっ?ちょっと待って下さい」
コップにコーヒーを満たすと支払いを済ませ。
「『うるマルシェ』ですか?全然、場所が違いますよ」
彼女に促されて店の外へ出た。
白の中型車のセダンからスマートホンを持ち出してきた。
白い細い指がスマートホンの上を滑るように、踊るように目まぐるしく走る。
時には場面に向かって「うるマルシェ!」といっている。
音声で探しているのだな。
「全く違う方向です。どちらから見えました」操作の合間に、じっと佇むわたしを気遣うように目を上げた。
「浦添です」
「ずいぶん遠くに来ていますよ。30分くらい離れています」
連れも車から出て来て二人のそばに立っていた。
「『栄野比』分かりますか」と地名を言うが私にはわからない。咄嗟に、連れが
「わかります」
「それから左に曲がるのですが、道順が難しいですね」とスマートホーンを操作する。
「う~ん、この道じゃ分かり辛いでしょう」と、天を仰いだ。
「ちょっと待っててください。お店に」といって店に入って行った。
しばらくして出てくると、再び、スマートホンの操作を始めた。
ズボンのポケットに入れていた私のスマートホンが鳴った。
取り出すと時報であった。
それをみるなり、彼女の顔がぱっと明るくなった。
「スマートホンをお持ちですか、ちょっと貸してください」
昨年、DOCOMOで高齢者用という売り文句に誘われて、ガラケイから替えたばかりである。
「高齢者用で買ったものです」
スマートホンを渡しながら、彼女のスマートンをみたら、最近、アメリカで販売停止になった中国製のメーカーの名があった。
「あっ、ソフトが入っている!」と言いながら検索を始めた。
目の前で操作してくれているが、何をどう操作しているのかさっぱりわからない。
どうもインターネットを操作しているらしい。
インターネットはパソコンで間に合うからとスマートホンのインターネットは使うことはなかった。
「うるマルシェ!」とスマートホンに向かって話しかけると
画面が変わった。
音声で検索できるんだと内心驚いた。
しばらくして
「設定できました。スマホの支持に従って行ってください」
と安堵した顔で、にっこり微笑みながらスマートホンを手渡してくれた。
「カーナビできるのですか!」驚いた。
「ええ、音声で誘導するようにしていますから」
あっけにとられていると
「ありがとうございました」と連れが丁寧にお礼を言った。
「お手数をかけました。助かりました」私も丁寧にお礼を言って車に向かった。
  しばらく連れと何事か話していた。
連れが帰って来るまで、ひとり車でスマートホンの画面を見ていた。
「いい人に出会ってよかったね。なぜか幸せな気分になる」
そう言いながら車に運転席に座った。
「すごいなあ。こんな機能があるなんて驚いたよ」
「そう、とっても便利だということは知っていたよ」
道案内は適確であった。右折、左折を音声で誘導してくれた。
画面には、方向転換するまでの距離が表示される。それが、実に、正確であった。
地図にはないだろうと思われる路地へも誘導する。
方向転換地点を誤って通り過ぎても、修正し、誘導してくれるのだ。
かれこれ30分余り走って「うるマルシェ」に着いた。
 とんでもない方向に来ていたもんだと連れには平謝りした。
現在では合併してうるま市になっているが、目指したのは旧石川市の中心街。
目的地は旧具志川市の東の泡瀬の埋立地沿いにあった。
出発点からみれば、まるで方向が違う。
真北に向かって出発したが、北東に向かわねばならなかったのだ。
 小腹が空いてきたので、軽く食事をした。
車の中でも、食事中も、件の女性の話ばかり。
「いい人だったあ。あんな人に出会うと一日中が明るい気分で過ごせる」
「ほんとうだ。得した気分になるよ。
沖縄に来た当初、本部(もとぶ)で道を訪ねたら、歩いて来た方向に500mほど戻りして
その場所まで連れて行ってくれたよ。20歳くらいの若い女性だったなあ」
暑い夏の陽を背に受けながら、小走りにあと戻る娘の姿が目に浮かんだ。
「携帯番号を聞いとけばよかった。無事に着きましたって連絡してあげられるのに」
「そうだね。でも、今の若い子にしたら怖がられるかもしれないよ」
「そうね。あの人、きっと育ちがいいのでしょうね」

 「育ちがいい」
久しぶりに聞く言葉だった。
今の世に。この言葉の意味やイメージが分かる人たちがどのくらいいるだろう。
裕福な家、高学歴の家庭、地位ある両親などをイメージするくらいに違いない。
「愛の鞭」なんて言ったら、嘲笑される昨今、
「三尺離れて師の影を踏まず」なんて言おうものなら、罵倒されるに違いない。
こういう世界にしたのは誰あろう。
「猛烈社員」、「滅私奉公」が男の仕事と、家庭を一瞥だにしなかった我々世代の責任だ。

 帰りは30分ほどで着いた。
行きの一時間を考えれば、倍近くの時間を浪費したことになる。
数カ月ぶりに居酒屋でたのしいひと時を過した。
「一旦、コンビニを出て彼女は引き返したよね。何のために引き返したのかなあ」
「地図を探しに行ったのよ」
そうだったのか、ひとり苦が笑いした。


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沖縄の季節 ~ 夏の名残の朝顔・サフランモドキ etc. ~

2020年10月19日 16時16分52秒 | Weblog
 今日あたりから予報最高気温が30℃を下回るようになった。
日中もクーラーを使用しないで済む。これで体調は良くなる。
 昨年、今年と熱中症が気にかかり、一日中冷房をつけっ放しだった。
元来、夏に弱い体質に加えて冷房が追打ちをかける。
夜通し冷房にあたるものなら、翌日は二日酔いのとき以上に体が参ってしまう。
ここまで書き始めたのが9月27日。
その日から今日((10/19)まで、およそ3週間はサボタージュを決め込んだ。
台風が来ることもなく、平穩な秋の季節になった。
熱帯夜は少なくなったが、日中の最高気温は予想より2,3℃高く、真夏日を行ったり来たりしている。
 秋の沖縄本島は、10月から12月中頃まで穏やかな秋晴れが続く。
台風も本島に襲来することもほとんどない。
絶好の旅行日和でもある。
主だったイベントも、10月の那覇大綱曳に始まり、11月はじめの琉球王朝祭りなど盛んに開催されて12月第一日曜日のNAHAマラソンまで続く。
今年は新型コロナウイルス騒ぎで中止になったものも多い。
GoToトラベルで沖縄観光を計画している方は、事前に確認することをおすすめする。

 沖縄本島襲来の台風は来てもあと一つかと予測して、夏場の早い時期に楽しませてくれた朝顔を2鉢に、元肥を施し新しく種を蒔いたのが8月も終わり頃であった。
 10月に入り、1輪、2輪と毎日咲きはじめ、10日ほど前から毎日10輪以上咲くようになった。
ベランダで育てて3世になる。そのためか花は小さくなったように感じる。
それでも、早朝にかわいいたくさんの花で楽しませてくれる。






 今年は花は咲かないのかと半ばあきらめていたサフランモドキが8月になって咲き始めた。
あちこちからニョキニョキと花芽をつけた茎が顔を出し始める。
2,3日もすると数十個の蕾が出揃う。
そしてある朝、これらが一斉に花開く。
 一旦、花は枯れるが、1~2週間ほどで再び花芽が伸びてくる。
そして一斉に咲くのである。
ところが、9月に2度ほど咲いた後、一向に花芽が出て来ない。
10月に入った頃、葉先の枯れが目立ち始めた。
「今年は終わりか」とあきらめ、根腐れを防ぐため水遣りを断った。
水遣りを断って1週間後、あちこちから花芽が現れてきた。
大雨があった翌々日だっただろう。
ベランダに大量の雨粒が振り込んできたに違いなかった。
「水を断ち、3日ほどして水を遣れ」とものの本に書いてあったことを思い出した。
 あれから3度、花期があった。
昨日、3度目の花時を終えたばかりである。




 花びらは6つであるが、よくみると8つのものもあれば9つのものもある。


 これは9つあった。



 そろそろ夕方になる。
朝顔の萎んでゆく花を取ってやらねばなるまい。
種に栄養分が取られ、元気がなくなってしまうからだ。
 サフランモドキも3日めには、茎ごと抜いてやる。
球根を痛めるかもしれないが、養分を無駄使いさせないためだ。

 暇になったもんだ。
最近は、覇気どころか元気もなくなってきた。
先日、近所の床屋のおばさんがこんな事云っていた。
「60代までは体力の衰えを1年で感じるが、70代になると月毎に感じる・・・とお客さんが言っていたよ」
うまいこと言うもんだと感心した。
「80に近くなると日毎に感じるよ」
「お客さんいくつ?」
「えっ?・・・幾つになったかなあ」

<余録?
いつかブログに添えようと撮っていた花を2つ3つ・・・。

 10月14日夕方。
きょう咲くかなとばかりの「月下美人」。
きょうこそは撮るぞと誓って、スマホに収めた。

翌朝、咲き終えた花が項垂れていた。
すっかり忘れていた。

 先月(9月24日)、近所で見つけたサボテン。


 今年7月22日。
ドラゴンフルーツ。花時、形状からいって間違いないと思う。
これも実を撮るつもりだった。

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沖縄の季節 ~ 沖縄近海で発生する今年の台風 ~ 余談:初めてのシロオビアゲハ

2020年08月27日 21時34分37秒 | Weblog
 台風8号は先島を暴風雨に巻き込みながら、北から西に転じ、琉球列島に沿うように東進した。
通過コースをみてみると、南下したところも散見された。
速度は「ゆっくり」である。
そして勢力を強めながら、真っ直ぐに北上した。
雨の影響は今日(8月27日)まで続いた。
 きょう、ネットで見ていると沖縄タイムスに格好の記事が出た。
直近の投稿が6月23日であるから、2ヶ月も休んだことになる。
「今日こそは・・・」と思っていた矢先の幸運のことで使わせていただいた。
<写真をクリックで拡大>

 台風の発生ははるか南方の海域である。
海水温が影響しているからだ。
台風は沖縄を通過した辺りから海水温は下がるので、急速に勢力を弱める。
しかし、今年の海水温は沖縄の北も異常に高いから、台風8号は沖縄を離れて強くなった。
進路に当たった中国東岸や朝鮮半島の人々は驚いていることだろう。
 今年は八重山諸島の近海で3つの台風が発生した。
異常に海水温が高いからだろうという。
今年も台風シーズンは今からだ。
これから北の高気圧が強くなると、台風は日本列島に向かう。
海水温が下がってくれればよいが、どうも暑さはまだ続くらしい。
せめて、コロナウイルスを吹き飛ばしてくれればいいが、そうはゆくまい。
覚悟して、心の準備だけでもしておかねばなるまい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<余談> 珍しいシロオビアゲハ
 先日、暑い日差しの中を外出。漸く自宅に辿り着いた。
ふと、外階段を見ると、一匹のアゲハ蝶が羽を広げているのが目に入った。
急いでスマホを取り出して撮った写真。<写真をクリックで拡大>

 しばらく観ていたが動かない。
羽に手を触れるとかすかに足を動かせている。
すでに周りには蟻が4,5匹うろついていた。
 そっとつまみ上げ、鉢の葉の上においた。
「明日の朝には元気に飛び立っていないだろう」と。<写真をクリックで拡大>

 翌朝、早々に出てみた。
昨日、置いたままのアゲハの姿がそこにあった。
そっと触れてみると羽がパラパラと落ちた。
急いで羽をまとめて手のひらに乗せて、街路樹の下の柔らかなところの土を掘り起こして埋めた。
 きょう、ブログを書き終えて、あのアゲハのことを思い出し調べてみた。
珍しい文様だったので、特に蝶に興味があるわけじゃなかったが調べてみた。
「シロオビアゲハ」といい、奄美群島以南に生息する一般的にみられるアゲハということだった。
追記:
 何ということだ。
拡大写真を確認していたらこのアゲハには胴体というか尻尾がない。
あまりに形が整っていたので、終ぞ気づかなかった。
記事を取り下げようかと思ったが、取り上げることにした。

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沖縄の歴史 ~ 6月23日慰霊の日(沖縄) ~ 牛島陸軍中将自刃の日を以って組織的沖縄戦終戦の日とした

2020年06月23日 18時22分50秒 | Weblog
 朝から降っていた戻り梅雨の激しい雨は10時には上がった。
雨が上がると同時に陽が濡れた木々の葉を照らし始めた。
今、こうして机に向かってブログを書いている窓の外は、青空が広がり灰色の薄い雲が南の空を流れていく。
風はそよとも吹かない。
 牛島陸軍中将(司令官)が壕で自害した日もこのような天気だったのだろうか。
一年の中で一番昼の長い6月21日を過ぎて2日目。
時計を見ると19時を回ったところ。
南の空はまだ明るかった。

 「慰霊の日」には、平和記念公園(糸満市)で県主催の沖縄戦戦没者慰霊祭が執り行われる。
沖縄県知事をはじめとして遺族やたくさんの人たちが参列する。
政府からも、毎年総理大臣が参列し、平和の誓いを述べるのである。
例年1000名を超える参列者があるが、今年は新型コロナウイルス対策のため、極端に数を制限した。
 式典の様子は全国で放映されるからご覧になった方もあるだろう。
しかし、高校生が読み上げる詩を聞いたことはあるだろうか。
今年は千数百点の中から選ばれた首里高校の女生徒の詩が選ばれ、本人が演壇に立った。
5分余りの彼女の詩を詠む動画。>(ここをクリック)
詩はNHKのページがわかりやすい(ここをクリック)
 きょうのような梅雨明けの(多分)ジメジメした壕の中で自刃した牛島司令官や、追随したであろう士官や兵たちの事が語られることはない。
時代の波に呑まれ、翻弄された人たちでもあることを忘れてはならないだろう。
戦争は生きとし生けるものの上に、例外なく、残酷で理不尽な不幸を覆い被せて来るのである。

 ひめゆりの塔の会館が展示の模様替えをするらしい。
平和学習で訪れた生徒達が、
「自分等と同じ世代だと聞いても実感が湧かない」という声を聞いたからと報じられていた。
ニュースで5,6人のひめゆりの女学生たちがセーラー服姿で笑う姿が映されていた。
この屈託のない笑顔に溢れた女学生たちのこの1枚の写真を見た時、かって味わったことのない衝撃を受けた。
展示が生まれ変わったら、是非とも観に行かねばならないだろう。

 30年前、沖縄に着任した頃、当時の沖縄戦の話では、日本軍が沖縄県民に強いた残虐行為ばかりを聞かされた。
地元メディアの報道もそうしたものであったと記憶している。
「戦争がそうするんだ。命のやり取りをしている戦場で、善悪や人間性なんて吹っ飛んでしまうだろう」
そういうのが精一杯だった。
会社に入った頃、前線を経験した元小隊長だった支店長が、
「人間は、気狂いにならなければ人は殺せない」と言っていた言葉を思い出して伝えるのが精一杯だった。
「戦争」というものの理不尽さ、残酷さは容認出来るものではなかろう。
戦争はやっちゃいけない。
では、
「どうすれば平和でいられるのか。それを考えよう」ともいいたかったけど、言葉には出せなかった。
あの頃沖縄戦を語った彼らの気持ちが、今ならわかるような気がする。
沖縄県民にとってはあの戦時下のまま、沖縄の景色は変わらず続いているのだ。
爆撃機や戦闘機の爆音を聞かない日は一日たりともないのだから。

 国を守ること、それは我々自身を守ることである。
拉致された娘さんを取返すため生涯を捧げた横田さんが逝った。
私そして我々は、拉致された人たちを取り戻すために何をしただろう。
「国が・・・」と人は言うけれど、国を作っているのは我々ひとりひとりである。
他人の所為にするのは簡単だ。
 「俺がやらなきゃ 誰がやる!」 若い頃に流行した言葉だ。
遊びでも、仕事でも、困難にぶち当たった時、
「俺がやらなきゃ 誰がやる!」
と、勢いつけてぶつかったものだ。
あの頃のあの覇気や情熱は、今は萎えて、朽ち果てようとしている。

 ブログで牛島陸軍中将について触れたことがなかったし、詳しくも知らなかった。
本島南岸の海沿いの崖を下ったところに自害した司令壕が残されている。
2度ほど行ったことがあるが、壕の中には入れなかった。
入り口からのぞく壕は如何にも断崖の洞穴のようで、湿気が充満しているように思えた。
夏だったが、冷え冷えとして、侘びしく、そこにいるのが辛かった。
 ネットで牛島中将を調べたら、ウイキペディアがあった。
一段落したら勉強してみよう。(ここをクリック)

 
 例年なら5月には歩道の百日紅が、枝もたわわに咲き乱れ、夏の到来を知らせてくれるのに、
去年も、今年も5月になっているのに咲く気配もなく、6月に入って、漸く、咲き始めたようだ。
これらの写真は6月22日撮ったものである。





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沖縄の史跡 ~ 臨済宗崇元寺跡 ~ 帰りは栄町市場の居酒屋「AKATUKI」で寛いだ

2020年05月26日 18時28分13秒 | Weblog
 3月26日朝、友人から「電話が繋がらない」とメールが来た。
思い当たることがあった。
一週間経った送信や受信は殆ど消去してしまう。
電話のあった4,5日前のこと、消去する際に何か文字が出てきたけれど、確認もせずにOKボタンを押してしまった。
「通話略歴から削除する」ボタンと隣り合わせに「着信拒否番号として登録する」というボタンがある。
あの時、チラッとみえた文字がそうでなかったかと気にはなっていた。
早速、DOCOMO SHOPに問い合わせた。
店に行かないと、着信拒否番号を通常に戻すことはできないという。
頻繁に連絡取り合う仲である。
猶予は出来ないので店に向かった。
別に不自由もなかったガラケイからスマートフォンに替えたことを後悔した。
 店は空いていて、10分ほどで終わった。
国道58号線を横切って、反対側のバス停に立った。
5分と待つことなく那覇行きのバスが来た。
58号線は沖縄本島の主要道路である。
那覇から宜野湾市までは多くの系統のバスが58号線を通る。
那覇に赴任した当時、「58号線沿いに部屋を借りなさい」と言われたことがある。
 バスに乗ってから、天気も良いし、補聴器のことを調べようと思い立ち、このまま那覇の補聴器の店に行くことににした。
30分ほどで目的地の崇元寺に着いた。
補聴器の店は崇元寺バス停前である。
見慣れた崇元寺石門の前に立った。
約束があるわけでもなし、天気も良いので崇元寺を見てみようとい気になった。
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崇元寺石門。門を入ったところ内側から門外に向かって写してみた。
画像をクリックで拡大


 バス通りから路地を入ったところに通路がある。
周囲を見ながら、崇元寺の看板をみつけた。
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 中はガランとしていて広い空き地があるだけだ。
沖縄戦で消失した後、一時、図書館が建てられていたらしいが今はない。
公園の隅には巨大なガジュマルが際立っていた。



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 正門・石門のところにも大きなガジュマルがあった。
枝から下りてきた気根が歴史を語っているようだった。気根が凄い。
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 崇元寺は正式には霊徳寺崇元寺という臨済宗の寺院だったらしい。
創建は諸説あるが、1527年創建が有力視されていて、那覇市文化財課に問い合わせると1527年と、一応決めているという。参考までに。
 通常は「そうげんじ」と読むが、地元では「すーぎーじ」と発音する。
沖縄方言は母音が3つだと数年前のブログで書いた。
ローマ字表記にすると、「E」は「I」になり、「O」は「U」になる。
「SOーGENJI」ー「SU-GINJI」ー「SU-GIーJI」。これだけ覚えておくと沖縄方言は80%理解できる。
因みに、米軍は「たかもとじ」と呼んだらしい。「そうげんじ」では発音し辛かったのだろう。
崇元寺については那覇市での私の生活圏内にあったが、訪れたこともなく、全く知識がなかった。
足を踏み入れたのも今回が初めてという体たらくである。

 崇元寺は那覇市泊(とまり)にある。
モノレールなら美栄橋駅又はか牧志駅から徒歩10分程度。
国際通りからならバスが便利だ。
バスは本島中・北部行きが頻繁に通るので、事前に調べて行くといい。
施設は開放され、崇元寺公園となっているから自由に出入りできる。
観るべきものは何もないので、事前に学習して行かないとがっかりするかもしれない。
詳しい記事を見つけたので、興味ある方は参考にされたい。<ここをクリック>


 崇元寺前の補聴器屋に寄った。
応対に出たのが20代半ばの如何にも頭の良さそうな、キリッとした品のいい娘だった。
「最近、聞き取り辛くなってね。調べていただけますか?」と切り出した。
「一年半ほど前に耳鼻科で診てもらったら、『大して悪くはないですが、補聴器試してみますか。
テストで一週間ほど着けて、何度か繰り返して調整します。それから決めればいいでしょう』と言われ、テストしてみることにしました。
補聴器を預かり、装着してみると周囲の雑音がうるさいのに驚きました。調整してみるけれど不快です。
一週間を待たずに、テストを辞めたいと申し出ました」
説明をするのは面倒だったが、簡単に話した。
「そうですね、調整が大切です。数ヶ月はかかりますよ。取り敢えず、どれくらい聞こえるかどうかだけでも調べてみましょう」
準備で20分ほど待たされて始まった検査は、一年前受けたのと同じようなものだった。
検査結果は一年前と同じだった。
「高音が聞きづらくなっていますね」 グラフをみると、健常者の80%とあった。
「取り敢えず、補聴器をつけてみましょうか」
返事をするまでもなく、そういうと奥に入って行ってしまった。
彼女が奥から出てきた時、会釈しながら「もう少しお待ち下さいね」と。
その瞬間を捉えて、
「あのう、ちょっとよろしいですか。きょうはお金も準備していませんし・・・」
「テストにはお金はかかりません。」にこやかに応える。
「きょうはそこまで用事があったので、この店を思い出してたずねてみようかと寄った次第です。
補聴器はつけないと行けない状態なのか、付けるとすればいくら位かかるのだろうかと・・・」
「ああ、そうですね」と言って、カタログを取り出した。
最高クラスは100万を超えるという。
私の場合は両耳用で36万円のクラスで十分だろうと言われた。
「ありがとうございました。補聴器の世話になると決めたら貴女にお願いに来ますよ。その時には、よろしくお願いします。
住所などを聞かれ、彼女の名刺と例のカタログをいただき店を出た。
時計をみると17時半を回っていた。
一ヶ月ほどして、彼女から流麗な文字で挨拶状が来た。
 一年半前の耳鼻科でも、この店でも「不自由ですか?」と怪訝な顔で念を押された。
日常生活には意識することはないのだが、テレビを見る時、居酒屋でf談笑している時、聞き取れないことが多いのである。
「未だ、大丈夫か」と思案することはやめた。
 ここまで来たんだ、栄町市場に寄ってみるか、と帰りのバスの方向とは逆の方向へ踵を返した。
ここから栄町までゆったり歩いて10分少々である。
10数年前まで、この辺りもよく来たものだと懐かしくあちこち眺めながら歩いた。
安里交差点の国道330号線のガードをくぐると栄町市場の入り口である。
 通ったというほどのことはない。
10年ほど前に東京から来て那覇に住んでいる、所謂、「ヤマトンチュー」から連れられて行った飲食街である。
昔懐かしい雰囲気の地元の飾りっ気のない風を受けながら、寛いだひと時を過ごしたものだ。
目的は「AKATUKI]である。、看板などない。
暖簾や明かりのついたスタンドが雑多に並ぶ路地を左に、右に回りながらやっとお辿り着いた。
入り口が幾らもある。
入り組んだ路地は覺えるのが難儀だ。いつまで経っても道筋を覚えられない。
6時を少しまわっていた。
鍵型のカウンターに背もたれのない厚い木製のベンチが並んでいる。
「こんばんは!」
2,3人の初老の男客がグラスを前にしていた。
「やあ!久し振り!」愛想のいいマスターがニコッと笑う。
「ひとり?」
いつもは本土の大手家具メーカーの所長N氏と一緒だから、怪訝そうに辺りを見ながらそう云った。
「最近は家具の売れ行きが良さそうで、毎日遅くなって大変そうですよ」
 先ず、テーブルチャージ200円をカウンターに置く。
N氏は、先ず、生ビールを飲むが、私はビールは飲まない。
画像をクリックで拡大

「泡盛。海人(ウミンチュー)をください」そういって1000円札をカウンターに置く。
ジョッキーに氷を入れ、青い海人のボトルから泡盛を注ぐ。そして、水を少々加える。
「何かつまみを・・・」
4,5枚の透明なナイロン製のメニューが渡される。
「手羽先、美味しい?」
「美味いよ」とマスター。
「手羽先2皿と豚バラの串焼きひと皿」
店は食べ物は出さない。
以前は持ち込み自由だったが、客が買いに行かなくていいようになった。
20分ほどで出前の兄ちゃんが持ってきた。
代金は兄々(にいにい)に直接渡した。
手羽先が5本も入っている。
他の客の相手をしていたマスターが手が空いたのをみて、
「マスター、一皿食べて。こんなには食えないよ」
遠慮勝ちにマスターは一皿を受け取ってくれた。
マスターはビールが好きだ。
「乾杯しようか」と水を向ける。いつものわたしの口上だ。
画像はクリックで拡大

「ありがとうございます」とグラスを合わせる。
泡盛2杯で限度かなと思ったけど、バーボンが飲みたくなった。
ジャックダニエルを注文する。
味がわかるわけではないけれど、バーボンを飲む時はジャックダニエルと決めている。
 先程から、隣りに座った30半ばで色白の賢明そうな顔立ちの好青年が、もぞもぞしている様子が気にかかっていた。
思い切って、青年に顔向ける。
「覚えています?noraさんでしょ?!」
「あっ!沖縄タイムスのスポーツ記者の方でしたよね」
「XYです」
「お顔はよく覚えていますよ。ごめんなさい、若い頃から名前を覺えるのが苦手で・・・」
「あのときは勇気をいただきました」
聡明な顔立ちに、力ある眼差しが眩しかった。
「何を話したのでしょう。うるさかったでしょう」
若い連中と話すときは教訓めいたことは言わないようにしている。
失敗談や後悔したこと等を話すが、相手がこちらに興味を持たない限りは面倒な話はしないことにしている。
偶に、聞き上手に出くわして、別れた後に後悔しきりのことがある。
酔いも少し回ってきていたので、再会を約して店を後にした。
8時半だった。
バス停まで150mくらい。バスが何時に来るかどうかもわからない。
4,5年前、感ずることあって、運転免許証を自主返納した。
その時、バスとモノレール半額の特権をいただいたので、前払いカードOKICAを持っている。
疲れと酔いと、きょうの愉快な一日に背中を押され、
「ええい、ままよ」とバスはあきらめ、タクシーに乗り込んだ。
バス代200円で済むところ、きょうの飲み代と同じくらいの料金を払った。

 この日3月26日は、新型コロナウイルスで日本中が騒ぎ始めた頃である。
この日以来、飲み屋や食事には一切出掛けてない。
蓑虫のように、変哲もない部屋で過ごして2ヶ月が過ぎた。
未だ、当分はコロナウイルスは落ち着かないだろう。
沖縄県では3週間以上、感染者が出ていない。
県知事も平身低頭、
「医療が脆弱な県です・今しばらく、県外からのお越しはご遠慮ください」
と、事ある毎にお願いしている。
観光立県の沖縄としては身勝手ともとれるお願いであるが、県知事の胸中如何ばかりか、とご推察いただきたい。
コロナウイルス騒動が一段落したら、沖縄においでの際は、観光では味わえない沖縄を体験してほしい。。
 7年前、ブログを書いた。こちら。
参考にされたい。
モノレールは安里(あさと)駅で下車。
モノレールを下りて、道路を反対側に渡れば、その辺一帯が栄町市場である。
人伝に探すのは難しいのでマスターに電話するといい。
マスターの携帯電話は 090-9786-9995。

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沖縄の季節 ~ 5月11日梅雨入り ~ 早々に「梅雨のズル休み」 仲宗根気象予報士

2020年05月13日 22時13分13秒 | Weblog
 5月11日(月)沖縄は平年より2日遅く梅雨入りした。
梅雨入りした11日夜は八重山地方は大雨、石垣島では12日朝、1時間126mmの観測史上最大の雨量を観測した。
又、本島にも大雨洪水警報も出されたが、昼過ぎには落ち着いてきた。

 梅雨入りの放送を知ったのは琉球朝日放送(QAB)18時15分からの報道番組「Qプラス」。
この番組の気象予報士は仲宗根朋美さん。
「こんにちは。2週間ぶりにスタジオに戻ってきました。また今日からこの時間、お天気お伝えします。カンバックとともに、梅雨も一緒に連れてきた感じになっっていますが、今日から沖縄は梅雨入りしました。それにしてもむし暑いですよね。家の中はさらにジメジメして・・・」(番組のホームページから)
飾りっ気のない平易な言葉と明るい屈託のない口調が一日の疲れを吹き飛ばしてくれる。
わたしは彼女の大のフアンである。
その彼女がこの直後、
「明日の午後からは曇りとなり、梅雨のズル休みとなります。・・・・・」
「梅雨の中休み」は聞くが、「梅雨のズル休み」は初めて。
久しぶりの登場で仲宗根節を聴き、笑いがこみ上げてきた。
梅雨に入ったばかりで、もう中休みするから、梅雨がズル休みか。
彼女は一切注釈を加えず、淡々と続けていく。
それが可笑しくって、一晩中思い出しては笑った。

 梅雨に入れば梅雨明けが気になるのが人情。
沖縄の言い伝えによれば「糸満ハーリーの鉦が鳴ると梅雨が開ける」と言われている。
「糸満ハーリー」は旧暦5月4日。
過去にも、概ね、糸満ハーリー前後には梅雨が開けている。
ところが、今年は旧暦閏年で4月が2回ある。暦をめくる。
1回目の旧暦4月1日は4月23日、旧暦4月30日は5月22日だ。
2回目の旧暦4月1日は5月23日、旧暦4月29日(2回目は29日まで)は6月20日。
そうすると、旧暦5月1日は6月21日となり、糸満ハーリーの鉦が鳴る旧暦5月4日は6月24日となる。
旧暦と対比してみるのは楽しいものだ。
さて、実際に梅雨明けとなるのはいつだろうか。


 今年の5月3日から始まる那覇ハーリーは「新型コロナウイルス」のため中止となった。
2016年の画像がある。
当日は小雨模様で降ったり止んだりであったが、遂には土砂降りとなり、途中であったが引き上げた。
その後。大会は続行されたかどうか定かでない。




 会場のデイゴの花が咲き始めていた。
近年、見かけることが少なくなった。



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