あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

新型コロナウイルス ~ 感染対策 :ひとりひとりの関心が最重要 ~ 友人からのメッセージ掲載 

2020年04月11日 18時57分14秒 | Weblog
 最初の沖縄県の感染者はクルーザ船の乗客を乗せたタクシー運転手だった。
もうひとりはわからないが、沖縄県内では2名だけだった。
最近になり、ばたばたと増えて昨日は49名となった。
 一週間ほど前、本島以外(離島)には感染者が出ていないということで、石垣島に県外からの観光客が急増。
地元は困惑するとともに、自粛するように県外に呼びかけを行っている。
 4月9日、山好きの友人のフェイスブックに、医療現場で働く彼女の友人のメッセージが載せられた。
全文を載せたのでお読みいただきたい。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

4月9日 21:35 ·
皆さん頑張ってますか?

情報共有です、
新型コロナウィルスは、感染されても何日も症状が出ない場合があります。では、自身が感染されたかどうか、どう分かるのでしょう。咳と熱の症状が出て、病院に行った時は大体50%は肺が繊維化されていると考えられます。即ち、症状が出て受診すると遅れるケースが多いのです。

台湾の専門家は、毎朝、自身でチェックできる簡単な診療を提示してます。

深く息を吸って、10秒我慢する。咳が出たり、息切れる等、すごく不便なことがなければ、肺が繊維症状になってない、即ち、感染されてないということです。(注:新型コロナで悪化すると、肺胞の組織が繊維化して硬くなっていくようです。)

現在、既に大変な事態になってるので、毎朝、良い空気を吸いながら、自己診断をしてみてください。
また、日本のお医者さんは、とても有効なアドバイスをしてくれています。皆んな、常に、口と喉を濡らして、絶対に乾燥した状態におかないこと。15分毎に水を一口飲むのが良いそうです。ウィルスが口に入ったとしても、水とか他の飲み物によって、食道から胃に入ってしまえば、胃酸によりウィルスは死んでしまう。水分をよく取らない場合、ウィルスが気管支から肺に侵入してしまうので、とても危ないのです。

お友達から回ってきました。

出来るだけ沢山の人に拡散して下さい。

日赤医療センタードクターから

今、東京の日赤総合病院で働いていますが、この数日でコロナウイルス感染症の患者さんが急増しています。
私の病院のコロナ病床は満床になりました。
重症者もいます。
現場ではすでに医療崩壊のシナリオも想定され始めています。
正直、報道よりも一般のみなさんが思っているよりも、現実は非常に厳しいです。
近い将来、本来助けられるはずの命が助けられなくなる事態になりそうだと感じています。
今まで、どんな人でも少しでも生きたいという思いがあるのなら、全力で命を助ける医療をやってきました。
でも、このまま感染が拡大すれば、「助ける命を選択する医療」にシフトしなければならなくなります。
本当に悲しい。

だから、外出を控えてください、人と会わないでください。
感染を食い止める方法はこれしかありません。
生きていくための最低限の外出だけにしてください。
このメッセージを出来る限りの家族や友人にシェアしてください。
時間がもうありません。
よろしくお願いします。
皆さん送りましょう。


 友達から回ってきました。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
 

 他人事のように思っている人もいるかも知れません。
わたしは蓑虫のように閉じ籠もったまま外出を控え、好きなお酒も飲まずに耐えています。
ニュースで見る限り、感染しても症状が出るのに数日かかっているようです。

 今、世界中で起こっていることに慄然としています。
少しでもお役に立てばと願っています。

「追記」 
 このブログの主題は医療崩壊の現場状況です。
テレビのチャンネルを回せば局を問わずコロナウイルスのことばかり。
医療の現場の厳しさを訴えてはいますが、今ひとつ、現場の切実な声や状況が伝わってきません。
組織で働いた方には箝口令や勝手な意見を公表する事を禁じられた経験はあるでしょう。
現在、医療現場では想像を絶する危機的状況が起こっているかもしれないと想定する方もおられるでしょう。
友人はそうした状況を「友人からのメッセージ」を発信しています。
やさしい言葉で発信しています。
関連する頃をアンダーラインで示しました。
ひとりひとりが、一人一人が実行しなければ効果がでないでしょう。

 「長く息を吐く」ことですが、最近、「15秒間、う・・・・と声を出し続けることができれば大丈夫」という健康番組を観ました。
「肺」だったか「心臓」だったか記憶が判然としませんが、いずれにしろ健康チェックになると思いました。
 「水を飲む」という予防行為ですが、嗽(うがい)を推奨していますから、問題無しとしました。

 「3密を守れ」から、状況は格段に深刻化しているようです。
「人に合うな」、すなわち外出禁止まで進みました。
「一人がみんなのために、みんなが一人のために」の精神を思い出しましょう。

令和2年4月16日 追記



沖縄の季節 ~ 沖縄の冬は本土の春と同じ ~ イッペーも終わり初夏へ

2020年03月20日 14時24分25秒 | Weblog
 きょうは春分、彼岸の中日。昼と夜の時間が同じになる日だ。
3月に咲く花の代表格イッペーも美しい時期は終わった。
イッペーは南米ブラジル産。和名はコガネノウゼン。
ー画像はクリックで拡大ー


 今年の秋から冬と、ゆったりとした時を過ごした。
天気予報や5月の東京での経験などから落ち着いて本土との気温差を比較することが出来た。
 沖縄に赴任した当時の沖縄の印象は、
「沖縄には春と秋がない。冬が10日ほどあるだけだ」という感想を抱き、よく語ったものだった。
 6年ほど沖縄生活を楽しんで、九州に戻り、数年後、退職した。
縁あって、退職後の職場も沖縄になった。
予定は大阪だった。
再就職先では、勤務地は大阪で、社宅も大阪に用意してくれた。
ところが、着任の前日、急遽、沖縄での行事に参加してくれということになり、沖縄経由で大阪に出向くことになった。
縁とは不思議なものである。
沖縄の事業に関わることになり、住居を那覇に移さねばならなくなった。
そうした理由で沖縄に住むことになった。
 住んでみると転勤時に抱いていた印象とは随分変わって見えてきた。
殊に、季節感は微妙に変化した。
晩秋とか早春とか微妙な季節の変わり目がない。
突然夏になり、突然冬になる。
 1月の下旬から2月始めにかけて2週間くらいの寒さが来る。
この寒い時期は最低が10℃最高気温が15℃という日が何日かある。
いうなれば、これが冬だろう。
 住めば都というけれど、長く生活してみると沖縄感覚の四季が身体に染み付いてくる。
12月に入れば、時折、小型の電気ストーブくらい欲しくなる。
日中温度が20℃を切ると一日中小型電気ストーブの世話になっている。
15℃くらになるとスーパーでは暖房が入るが、20℃を超すと冷房だ。
冷房も暖房も入らないことは滅多に無い。
盛夏以外、いつも薄い上着かウインドブレーカーを着けて出るようになる。

 2月に入るとマンションの出入り口の花壇や街路樹、そのの根方にはいろいろな花が咲く。
3月13日に撮影した花々。
ツツジは最盛期を終えようとしている。
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 こども達は元気だ。
いつも薄着で走り回っている。
3月17日。
この日は18,9℃だったと思う。
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 3月に入れば、少し酔いがまわった頃、火照った身体を風に吹かれて歩く帰り道は心地よい。
3月11日。
ー画像はクリックで拡大ー


<余談>
 年を越した鉢植えの植物達が変化を見せ始めた。

 朝顔は、依然、元気が良い。
毎日、10個前後の花を咲かせてくれる。
よくも毎日、こんなに咲くものだと花を終えた花びらを取っていて気づいた。
葉の根元から3個位の蕾がついているし、葉毎に歯の付け根に花芽があるのだ。
今頃気づくなんて、なんてこったと苦笑いをした。
3日前、落ちた種から目を出したひと株を別のハチに移植した。
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 ナスは至って元気である。
昨日、中ぶりのなす2本と小ぶりのナス3本を収穫した。
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 収穫前の11日の様子。
写真に取り終えた後、水不足とわかり、急いで水遣り。
この日は非常に天気が良かった。
ー画像はクリックで拡大ー


 スイトピーが漸く咲いた。
ピンクの明るい花と思っていたので、少々落胆した。
もっと花が付くと思ったのに期待外れで終わるか。
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 れんげ草。
去年の暮まで弱々しかったのだが、2月になり、俄然、元気に茂ってきた。
スイトピーもれんげ草も初めての試みだ。
花はいつ咲くか。
沖縄ではれんげ草をみたことないなあ。
ー画像はクリックで拡大ー


 オクラは地上50cmのところで幹を切った。
急に元気がなくなった。
新芽が出てきているので当分は様子を見ることにした。

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沖繩の季節 ~ 南部も桜(寒緋桜)開花 ~ 2月9日(旧歴1月16日)は十六日祭

2020年02月08日 22時11分00秒 | Weblog
 依然、冬日が続いている。
きょうは2月8日土曜日。
昨夜は東京からの来客があって、深夜まで昔の事に華を咲かせた。
昨夜の痛飲が祟り、今朝は体が怠い。
夕方近くなって、昨日仕上げたブログを校正した。
明日は十六日祭(グソー)、亡くなった人の正月である。
「郷に入れば郷に従え」だ。最低限の事はせねばなるまい。


 2月3日。
久し振りに那覇行のバス停に立った。
バスを待つ間、心ここになく思いに耽っていた。
ここは上り坂の中腹。
ふと、目をやった坂下方面の陽光が眩しかった。
ー画像はクリックで拡大しますー


 バスは未だかと坂の上を見た瞬間、目の先に桜が飛び込んで来た。
「結構、早いな」と驚いた。多分、この数日間の冬日が影響したのだろう。
自宅近辺には5,6箇所、桜がある。
場所によって、花の色も違えば咲く時期も微妙に違う。
これは確かめてみないとならないだろうと思った。
ー画像はクリックで拡大しますー



 この桜は琉球銀行の敷地内でバス通りに面したところにある。
写真を撮っていると銀行の警備員が
「目白がいるよ」と梢を仰いで指を指す。
一羽の目白が忙しく花から花へ飛び回っている。
「そこそこ!」と指差すから、撮らなくちゃなるまいとカメラを向ける。
カメラといってもスマートホンである。
普通の静態や風景を撮るにも固定できずにブレる。
あの目白を追い回して撮るなんて神業だ。
レンズから目を離して位置を確かめ、レンズで覗いた時には目白はもうそこにはいない。
面倒なんで当てずっぽうに10枚ほど撮った。
「撮れましたか?」
柔和な微笑みを浮かべて、警備のおじさんが近づいてきた。
「一枚ぐらいは大丈夫でしょう」と訳のわからぬ返事をした。
運良くバスが来たので助かった。
きょう、確認してみたら一枚だけ撮れていた。
拡大したままシャッターを切ったので大ブレである。それでも貴重な一枚だ。
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 2月5日。
乾電池を買いに出かけた際、途中の歩道にある若木の桜。
去年は開花は遅かった。今年は2分咲きだ。
ー画像はクリックで拡大しますー



 2月6日。
天気も良いので残る近辺の桜を見に出かけた。
この桜も琉球銀行の桜と同じくらいに開花は早い。
この家の隣家の桜は遅かったなと回ってみると4,5輪咲いているだけだった。
ー画像はクリックで拡大しますー



 一番遅い桜はと足を運んで見る。
今年は早いな。もう咲き始めている。
ー画像はクリックで拡大しますー



 それぞれの桜は、自宅から100m以内だ。
 カンヒサクラ(寒緋桜)は寒い所から咲き始める。
沖繩では本島北部から、それも山の上から咲き始める。
桜の開花は北部名護地区と那覇ではひと月ほど違う。
北部の桜まつりも終わり、葉桜になっているだろう。
 ソメイヨシノの開花予想が鹿児島より東京が10日ほど早いという。
天気予報士の話だと、ソメイヨシノは一定期間の寒さを経験しないと開花しないそうだ。
カンヒサクラもそうだろう。
一定の寒さを経験すると咲き始めるのではないだろうか。

 一応検証は終わったので、近所のスーパーに寄った。
ホウオウボク(鳳凰木)の実がたくさんぶら下がっていた。
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<余談>・・・・・年を越した「朝顔」・「ナス」・「オクラ」
「朝顔」 
ー画像はクリックで拡大しますー

   寒くなっった10日余り、花は咲かなかった。
  2月6日、2輪咲いていた。
  いま一輪は上の方だが写真ではわからないようだ。
  花の大きさは三分の一くらいになった。
  種を採るまでこのままにしていよう。
  2月8日の今朝は3輪咲いていた。
  朝顔が息づいている間は世話は続けようと思った。

「ナス」
ー画像はクリックで拡大しますー

   10日ほど前、小さな実を2つばかり採って、大きな葉を全部落とした。
  2月6日、幹だけだったナスに新芽が出て、グングン成長し始めた。
  花も付き始めた。
  念の為、ホームセンターに行ってみると、もうナスの苗が販売されていた。
  去年のナスがどう育つかたのしみだ。
  鉢が小さかったな、と反省する。

「オクラ」
ー画像はクリックで拡大しますー

   2週間ほど前、葉っぱに白い粉が付き始めた。
  消毒液を掛けるが効き目がない。
  うどんこ病じゃないかと白い粉の付いた葉を全部取った。
  以降、葉に白い粉が付くと葉ごと取る。
  おかげで丸裸同然だが、花は咲き、実が付く。
  夏場のように勢いはないが、3日に一本は収穫できる。
  脇芽があちこち出て来ているので、どう処置するか思案中だ。

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沖繩の行事 ~ 1月の散歩の間に見つけた沖繩の花々 ~ 「御願解き」過ぎて旧正月へ

2020年01月24日 16時58分01秒 | Weblog
 明日、1月25日は旧歴の正月1月1日。
「御願解き」は旧歴元旦の7日前に執り行われる。
2020年今年の旧歴12月24日、今年は1月18日がその日になった。
沖繩の女性にとって最も重要な行事「御願解き(ウガンブトゥチ」を行う大切な日である。
毎日の無病息災・家内安全を祈ってきた「火の神様」が天に帰られる日だ。
家内を預かる女性が最も大切な日としている。

 今年の冬はいつになく天気がよく暖かい。
1月14日の空。防寒具は必要ない暖かさだった。

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遊ぶ子供は夏姿。

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 那覇市1月の平均気温・最高気温・最低気温の日平均を気象庁のデータで調べてみた。。
期間は2010年から2019年の10年間。
冬場に特定して1月・2月・3月を取り出してみた。
その中で平均気温が一番低かったのは2011年、一番高かったのは2019年。
この2つを比較してみる。
       平均気温        最高気温日平均     最低気温日平均  
      1月  2月  3月    1月  2月  3月     1月   2月   3月
2011年 14.9  17.6  17.1   17.0  20.6 19.8    12.7  14.9  14.9
2019年 18.1  20.0  19.9   20.7  22.7 22.4    15.8  17.7  17.5
 
  那覇で最低気温が10℃以下になることは殆どない。13℃を割ることも滅多に無い。
沖縄本島北部(名護以北)では南部と2℃ほど差があるので、10℃以下になったり、霰や霙が降ることはある。
そんな時はニュースになる。
 空調の取り扱いは本土とは全く違う。北海道に行かれた方もそう感じたに違いない。
勝手に印象を言うのだが、
「沖繩県民は暑がり屋」、「北海道民は寒がり屋」。
 30年ほど前、沖繩に赴任して驚いた。
空調には「沖繩仕様」といって暖房機能がなかった。
一流のホテルでも「暖房」はなく、加えて毛布だけであった。
外出から帰ってきた観光客は「寒い、寒い」と連発したものだ。
特に、雪国の人たちからの苦情が噴出した。
外は春だから、尚更、そう感じたのだろう。
今は、大型施設には冷暖房の設備がある。
 レストラン、酒場などには今でも暖房設備がない所が多い。大半ではないだろうか。
20℃を超えると冷房が入る。
タクシーなどはいつも冷房が入っていると覚悟したほうが良いくらいだ。
「どうして?」と尋ねると、決まって運転手は
「窓が曇るから!」「ジメジメするでしょう」と応える。
「窓を開けて」というと渋々ウインドウを開く。
 バスだって同じだ。
「暖かくて気持ちいいなあ」と乗り込むと冷風が吹き付けてくる。
運転席は狭いこともあるだろうが、運転手はカッターシャツの袖を捲くり上げている。
だから、最高気温が25℃になっても外出する時は必ず上着は羽織っていくことにしている。

 1月から2月が、沖繩では一番花が多い、とある花屋の女店主から聞いたことがある。
北部では桜(緋寒桜)が満開に近く、名護・本部町・今帰仁では桜まつりが開かれている。
中部・北中城村ではひまわりが満開だろう。
海洋博公園では12・26~1・26「チューリップ・フェア」:5万球のチューリプが満開だ。
同じ海洋博公園は明日から4月5日まで「美ら海花まつり」。公園は春爛漫、花いっぱいである。
名護市羽地の田んぼではコスマスが満開だという。
4,年前までよく出かけたものだが、免許証自主返納をやって、行くこともなくなった。

  昨日、今日と25℃の真夏日だ。これもまた異常である。
1月中旬、暖かな陽気に誘われて散歩したことがある。
その時目についた花を撮ってみた。
{すみれ}

=画像はクリックで拡大する=

{バラ}

=画像はクリックで拡大する=

{羊蹄木}

=画像はクリックで拡大する=

{つわぶき}

=画像はクリックで拡大する=

{ツツジ}

=画像はクリックで拡大する=


 沖繩の冬は本土平地の春の気温であろうか。
4月には初夏に当たるだろう。
猛暑の夏だって最高気温は、概ね、33℃止まり。
夜の熱帯夜は強烈だ。6月から始まり、10月いっぱい続く印象だ。
炎天下の夏を除いて、是非、住宅街などの路地を散策して欲しい。
新しい観光ガイドにない発見があるだろう。

1月の散歩の間に見つけた沖繩の花々

*画面左下矢印をクリックで自動表示、右矢印をクリックで拡大。





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沖縄の季節 ~ 初日の出は雲の合間に ~ 元気に正月を迎えたナス・オクラ・朝顔

2020年01月06日 21時27分26秒 | Weblog
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 令和2年の初日の出。
6時前に起き、カーテンを開けても空は黒く厚い雲が空を覆っていた。
朝食の準備に取り掛かる。
小窓から吹き込む朝の冷気を含んだ風に、去年5月に遊んだ横浜を思い出した。
 6時半過ぎ、東の空を見上げる。
雲の閉ざされ、雲の切れ間さへ見えぬ。
日の出は7時12分。
太陽は激戦地前田高地を昇ってくるから、稜線に顔を出すのは15分ほど遅れる。
 「今年も駄目か」とオクラを採りにベランダに出ると東の空の雲が僅かに切れて明るい。
7時5分。
急ぎジャンバーを羽織ってスマホを手に公園の高台に向かった。
高台には中年の女性が白い小型犬と戯れていた。
「おめでとうございます」
と声をかけたが、聞こえなかったのか怪しい爺だと思ったのか、無言でわづかに頭を下げた。
 7時15分。
東の暗い雲間のほんのり明るい空を眺めていると切り裂くような鋭い明りが雲の切れ間に見えた来た。
その時、犬と戯れていた女性が、
「初日の出はここで大丈夫ですか?」
ふいに、明るい声で問いかけてきた。
「ええ。あの前田高地の上に出ます。20分過ぎだと思います。雲が晴れるといいですね」
犬がじゃれてくるので、しばらく犬と遊ぶ。
人懐こい可愛い犬だった。
20分過ぎ、あの明るかった一点が急に弾けた。
「あの光の中に丸い輪が見えますよ」
と指差すと
「あっ、ほんとうだ。すみません、ちょっと持ってていただけます?」
と腕を伸ばして犬の鎖を差し出してきた。
鎖をとると、彼女はスマホを初日の方角に向けて何枚かシャッターを切った。
「ありがとうございました」ぴょこりと頭下げた。
犬の鎖を渡す。
急がないと太陽の光で太陽が見えなくなる。
急ぎスマホを向けた。
このカメラじゃ撮れないだろうと思ったが、10枚近くシャッターを切った。
彼女が何か云った。
声のする方をみると、階段を10段ほど降りたところで立ち止まり、こっちをみて笑っていた。
「明けましておめでとうございます」
そう小さく叫んだ。
「おめでとうございます」
思わず大声で返した。
彼女は数段、階段を足早に駆け下りて左に消えた。
 太陽はすぐに厚い雲に隠れた。
雲が空の半分ほどに、明るくなったのは昼過ぎだった。
小さな犬だったが、抱き抱えるとずしりと来たときの、可愛さに不似合いな筋肉質の重量感が忘れられなかった。


~元気に年を越したベランダのナス・オクラ~

 暇な日々を退屈を紛らわすために、昨年6月、ナス1株の鉢ひとつ、オクラ2株でプランターひとつ、きゅうり1株を鉢ひとつ、6月終わりに苗を買い入れて植えた。
今まで、考えたことはあったが台風のことを思うと踏ん切れなかった。
今年、彼岸花の球根を頂いたのを機に挑戦することにした。
 鉢とプランターは考えていたより倍近い大きめのものにした。
土も予算の倍の良質の培養土を買った。
赤玉土3割、培養土7割合で土作りをした。
きゅうりもナスもオクラも順調に成長し、9月5日台風13号が来るまで、毎日のように収穫できた。
やはり土は大切だなと痛感した。
 9月5日、台風13号が宮古島を通過した。
コースが左に当たるため、いつもより強い風雨であったが大した被害もなかった。
ところが2週間後の9月21日、台風17号で大打撃を受けた。
潮風で葉は吹っ飛び、残った葉は枯れてしまい、オクラなどは枯れ葉一枚も残っていなかった。
きゅうりなどは蔓ごとやられてしまった。
 台風通過後の厄介な後始末、通過後は直ちにベランダの掃除に取りかかる。
早めにやらないと汚れがこびりついてしまう。
きゅうりはすっかりかれてしまっていたので処理は簡単だった。
ナスは小枝を切り取り、二股になった幹だけを残して葉っぱも小枝も綺麗サッパリ取り除いた。
そうしなければ片付けに面倒だからだ。
そして引っこ抜こうとしたが根が張って鉢と離れない。
これは面倒だなと憂鬱になった。
根が枯れて緩まで放って置くことにした。
オクラは実が2つ、3つ残っていたので残すことにした。
 更に、一週間後、9月30日台風18号の襲来。
この台風にはうんざりした。
今年は台風の当たり年だとベランダの掃除もやる気がなくなった。
ベランダ荒れ放題だった。
 10月に入り、ベランダに出て「そろそろ掃除も必要だな」とナスの枯れ木(そう思っていたのだが)に小さな新芽が出ている。
葉も小枝もない親指大の幹が2本あるだけの節目から小さな芽が覗いていた。
その日から毎日、欠かさず水遣りした。
これがぐんぐん大きくなってきた。
併せて、オクラも芽が出、元気を取り戻し始めた。
11月に入るとオクラは毎日、ナスは2日に一度は収穫出来るようになった。
 それなら朝顔も試してみようと、去年採った種を植えた。
去年まで、ひと鉢に3株植えたが一株にした。


令和2年1月1日のナス
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令和2年1月1日のオクラ
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きょうも咲いた朝顔。
写真は昨年12月18日のもの。
花は3分の2くらいの大きさに小さくなったが、きょうは二輪咲いた。
写真はクリックで拡大



 たのしみにしていることがある。
調べればわかることだが、逞しくなったナスとオクラをみていると「木」のようだと感じる。
このまま大切に育ててみたい。
ナスは冬場でも小庭に植えているのを何度も見た。
オクラは見たことない。
ひとに話すと理詰めで嘲笑されるので密かにやっている。

 今朝もナスの味噌汁と、オクラに納豆を混ぜて食べた。


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沖縄の季節 ~ トックリキワタ 見頃は11月中旬 ~ 元気に咲いた朝顔

2019年12月05日 16時37分24秒 | Weblog
 12月1日日曜日晴れ。
「トックリキワタを見損なったらしいな。もう一度行ってみよう」と友人から誘われた。
遅いだろうなと思ったが、那覇市与儀公園近く、那覇警察署裏手の通称「トックリキワタ通り」に行ってみた。
330号線から左折した瞬間、「10日遅かったな」と落胆した。
満開時なら両側の並木がピンク色に続いているはずだった。
「半分は散っているね」
そう言いながら、花数の多いところで車を止めてもらった。




 桜なら葉桜になっているものもあった。






 今年は暑さが遅くまで続いたから、花の時期も遅れるだろうと高を括っていた。
やはりトックリキワタは花の時期が長いとはいえ、満開時期は外せないなと後悔した。
花時は、11月10日から20日だろう。
友人も、何年ぶりかきれいに咲いていたのにと悔しがった。
 帰りは先日あきらめた330号線の並木路を通ってみた。
時期を失し、蕾もなかった。
左手一面はこの並木の中でも大木が並んで一番美しい場所であるのだが、咲き遅れた一本の木だけに花を残していた。


 先日、夕刻の暗さに諦めて断念した陸橋に差し掛かった。


 「飯でも食いに行くか」。
久し振りに盃を酌み交わすことになった。
時間が早かったので、「セブンイレブンに寄ってみよう」と友人が案内してくれた。
最近、沖縄にもセブンイレブンが進出してきたばかりで行ったことはなかった。
車の往来の激しいところばかりに位置する「ローソン」や「ファミリーマート」と違い、
本通りから少し入り込んだ住宅街の真ん中にあった。
味がいいと人気らしい。
2,3品買ってみた。
未だ食べてない。
久し振りの友人との居酒屋はたのしかった。


<余録> 元気に咲いた朝顔

 10月中旬だったか、夏に咲かせた朝顔の種の残りが出てきたので鉢に植えてみた。
ヒョロヒョロと芽を出したので、一本だけを残して育ててみた。
毎年、3本立てにする鉢を今回は1株にしてみた。
蔓はぐんぐん伸びてゆくがたくましくない。
11月に入り、朝晩は20℃くらいまで下がるので無理かなと思っていたら蔓はまたたく間に2メートルを超え
根元あたりの葉と蔓の間から新しい蔓があちこちで芽を出し、どんどん成長する。
支柱を立ててやった。
痩せた茎の葉の根元に蕾をつけ始めた。
今では節目から蔓が伸び、簾により掛かるように拡がってしまった。
毎朝、5~10輪ほどの花が開く。
願わくは、9時頃まで元気で開いていてほしいのだが、8時には花びらを閉じてしまう。

ー画像はすべてクリックで拡大できますー


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沖縄の季節 ~ トックリキワタの美しい季節 ~ ひとの姿は心の鏡

2019年11月24日 15時10分59秒 | Weblog
 一ヶ月ほど前から近所のトックリキワタの花が咲き始めていた。
昨年よりも花が多く、色も鮮やかできれいだ。
 11月12日、那覇に行く用事も出来たので、浦添バイパス(国道330号線)のトックリキワタの並木を歩いてみようと思い立った。
この日は朝から天気が良かった。
2時間ほどの散歩がてらの時間を、15時頃くらいに出掛けようと決めていた。
14時半過ぎになったので外に出ると太陽が照りつけてくる。
暑い。
急ぐこともあるまいと、西に太陽が傾き始める前、16時から出ようと予定を変えた。
 グズグズしていたら、バイパスの入り口大平陸橋に着いたのが16時50分。
先ずは、陸橋の上から、バイパスの歩道のトックリキワタ。
この歩道を右(南)へ進む。
陸橋を渡り、右折して坂道を国道330号に向かって下る。


 この辺りにも両方の歩道にトックリキワタがあったが、今は植え替えたのか数本の若木があるだけだ。
降りた先に2本のトックリキワタがあった。
絵にならないなと思いながら撮った。
最終的には、この日のトックリキワタはこれ一枚になった。


 10分ほど南へ下る。
小湾川の橋にかかる。
橋の欄干から覗き込むと暗い川面が見えた。
私の目には大きな溝にしか見えないが、1キロほど下ると大き目の小川になる。
陰った太陽がなかなか顔を出さない。
西南の空を見上げると、黒い厚い雲に隠れている。
雲が太陽を追っかけているようだ。



 反対側の歩道に出ないと逆光になると思ったが、330号線を渡るには陸橋しかない。
この坂をのぼり切ったところまで500メートルほど先に行かないと陸橋はない。
左の高台に球陽高校の校舎が夕陽に照り返されているのが見えた。
陸橋の階段を上る。
陸橋の上に立ったが、下の330号線は暗い。
陽は西に傾き始めて、建物の陰になってしまったのである。
 今歩いてきた北の方面。無修正。


 少し明るく修正した。
なんとかトックリキワタの桜色がわかる。



 これから步こうする南の方面。
更に建物が高くなるから暗い。無修正。


 修正してみた。


 これでは満開のあのトックリキワタを観ても仕方がなかろうと諦めた。
那覇に行くべく緩やかな坂になった道をバス通りのパイプラインに向かった。
途中、岩に鎮座するシーサーを見つけた。

全画像はクリックで拡大します


 バス停「小湾」までは10分とかからなかった。
数年前まで、この近くに友人が住んでいた。
沖縄本島を南や北とよくドライブに誘ってくれたものだ。
カラオケも上手かったが、駄洒落もよく云った。
その洒落がひどく、見かねて嗜めたこともあった。。
今は本島中部に引っ越してしまった。
彼と何度か行ったことのある居酒屋の提灯に日が灯っていた。
懐かしむ間もなくバスが来た。
 那覇バスセンターで降りて、久し振りに「梵」の扉を明けた。
バスの道中でみた、ふたりの婦人の心温まる行動を話した。
「トックリキワタの目的は果たせなかったが、又、行こうと思っている。
それ以上に素晴らしいものをみたよ」
バス乗車中にみた、目の不自由な青年とふたりの婦人のあれこれを一部始終を話した。
「いい話ね。私もそういう場面に出会せても一歩が踏み出せないのよね」
と頻りに感心していた。

 久し振りの梵のしゃぶしゃぶも酒も美味かった。

余録
 「ふたりの婦人の行動」とはこうである。
一人の婦人が、目の不自由な青年を、バスに乗せるまで手助する場面。
いまひとりの婦人は、青年が下車しようとしてよろけた瞬間、青年の腕を掴み、
無事に下車するまで腕を取り降ろした。そうして、青年をいつまでも見送っていた光景。
表題にあるように、ふたりの婦人の爽やかな行動、その立ち居振る舞いが自然で爽やかであったこと。
ブログではその一部始終を紹介したが、途中ブログに不具合が生じ、ほとんど消失してしまった。
主題のトックリキワタだけ、記憶を頼りに復元した。

 「ブログ消失の原因」
 goo担当と話したが原因は掴めない。
現象はこうである。
11月24日夕刻、当表題のブログをアップした。
11月25日コメント欄に一番目の画像が表示されていないと指摘があった。
アップ前に確認したつもりだったが、どうしたことか、一枚目の画像はアップされていなかった。
別窓で編集画面を開き、当該画像の「センター」「拡大表示」も全部削除した。
そして新たに画像、センターそして拡大表示作業を終了して公開した。
ところが、最後のコメントに「ブログが壊れている」とメッセージがあった。
慌ててスクロールしてみると修正した一枚目の画像以降、いくつかの文字を残して
すべてが消えていたのである。
goo担当窓口と何度か質問を繰り返したが、消えた記事は表示すらできなかった。
 拡大作業を続けているとタグが妙な具合になり、表示がおかしくなることは度々あった。
特に、拡大表示作業は念入りに行なった。
今までと違ったやり方をしたのは、ブログ画面を閉じずに編集、公開をしたことである。

 再アップに当たっては、青年との場面は割愛した。
修正投稿:2019年11月26日 16:49


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沖縄の社会 ~ モノレール浦添市浦西に延長 ~ 沖縄にもあった鉄道

2019年11月04日 16時43分30秒 | Weblog
 10月1日、沖縄県唯一の軌道であるモノレールが、長年の懸案が叶って首里駅から浦添西原に南進、開通した。
「首里駅」から終点「てだこ浦西駅(てだこ=太陽の子)」に延伸したことで、これで那覇空港から本島中部・北部へのアクセスは格段に便利になった。
魔の58号線と観光関係者に恐れられていた宜野湾から空港までの58号線の交通渋滞に合わずに空港や那覇市内に行くことができるようになった。
沖縄自動車西原インターチェンジと駅、密接する周辺の開発が進められている。
ネットで解かりやすい記事を見つけた。
参考にはこの頁を参照されたい。
 浦添前田駅周辺は沖縄の観光地も多くある。
浦添城跡。浦添運動公園、浦添美術館、戦跡である前田高地など。
宜野湾の米軍機を一望に見渡せる嘉数展望台も近い。

 10月15日、今日の夜明けは薄曇りであった。
心なしか、開け放した窓から入る風に涼気を感じた。
「きょうは開通したモノレールにでも乗ってくるか」
太陽が登る頃も、空もまだらに青空がのぞく程度だった。
春から秋にかけて、夜半に雨が降り、日の出とともに晴れ上がることが多い。
真夏日近くまで気温が高い日が多いが、きょうは少しは凌ぎやすかろうと身支度を整え、昼前には家を出た。
家の近くに「浦西行き」のバス停がある。
浦添警察署辺りでモノレールは直角に曲がっている。
モノレールの終点駅名はわからないが、バスは「浦添警察署前」で降りれば大丈夫だろうと思っていた。
浦添警察署の行き先が出ない。
「浦添前田駅」とある。
バス停手前で、慌てて降車ボタンを押した。
後方50メートルくらいのところに工事中の駅舎が見えた。


 駅舎に入ってみると人影もなくガランとしている。
改札口を通り、ホームに出てみた。
ここが終点ではないと直ぐにわかった、この先の行き先表示がなされている。
「てだこ浦西」とあった。
終着駅は「てだこ浦西」かと初めて終点駅名を知る。。
バスを降りたとき、見上げるモノレールはトンネルに入り地下へ潜っていた。
車両基地へでも行くのかと思ったが駅があるのだ。


 モノレールは、概ね、8分間隔で運行している。
乗り込むと直ぐにトンネルに入った。
終点に降りたが、ここも構内は人影がない。
出口の改札の窓口で駅周辺の地図をもらったが、位置関係は掴めなかった。

 駅の前には新しい道ができていた。
右手に行けば坂の上に当たる。
位置関係が確認できるかと思ったが、陽も差し始めたので諦めた。


 駅構内周辺を周ってみた。
初めてスマホで撮影したが、動画になっていたり、ボケたりで散々だった。
どうにかなるだろうと思う写真が、これらが全てである。
 降り立った所。駅舎は左奥の透明のドーム状の屋根。
まだあちこちで工事中だった。


 30分も居たろうか、見るもの何もなし、帰ることにした。
首里方面。トンネルの右手の大きな建物が3,000台を収容するという駐車場。


 社内風景。女性がひとり乗ってきた。これで乗車人員は2名。



ー写真はクリックで拡大ー


帰りは「古島駅」まで乗り、バスで帰宅した。

 首里駅から4駅延伸したことになる。
路線は4km延長され、17kmとなった。
那覇空港~てだこ浦西駅間の所要時間は37分。
浦西から車で行けば、夜間でも小一時間かかるだろう。
昼間だと2時間以上もかかることがあり、渋滞のため、時間の予測もたてられない、
朝夕のラッシュ時は楽になる。
 始発は「てだこ浦西駅」5:39発、「那覇空港駅」6:00発。
終電は両駅とも23:30発だ。
現在2両編成であるが、3両編成になる予定。
観光客には「浦添城址」、「浦添大運動公園」、「美術館」そして近年話題になっている「前田高地」などに行くには便利になった。

 浦添市以北の人たちや、本島北部方面への観光をする人たちには便利になるだろう。
そうした将来を見越してのモノレール終点駅周辺の開発も進められている。
来年春には「スイカ」も道入される予定だ。
駅周辺の開発後がたのしみである。


<余録>・・・沖縄にも戦前は鉄道も路面電車もあった・・・
 戦前沖縄にも鉄道もあったし、那覇市には路面電車も走っていた。
それらは、沖縄戦で破壊され、長い米軍軍政下のもと復旧されることはなかった。

 鉄道は那覇市を起点として、与那原線、糸満線、嘉手納線の3線があった。
鉄道建設の期待は高かったが、資金難などから計画は実現しなかった、
1914年(大正3年)12月に「沖縄県営鉄道」として、先ず、与那原線が開業する。
「沖縄県営鉄道」は鉄道省の呼称で、沖縄県は「沖縄県軽便鉄道」とした。
1917年(大正6年)以降、「沖縄県鉄道」と統一した。(しかし県民は現在でも「ケービン」「ケイビン」と呼ぶ)
1922年3月(大正11年)に嘉手納線、1923年7月(大正12年)には糸満線が開業した。
バス事業との競合が激しく、ディーゼルカーを導入するなどして対抗したらしい。
1944年7月(昭和19年)、太平洋戦争激化で軍用鉄道となり、通常ダイヤによる運行は終了した。
1945年3月(昭和20年)、戦争の激化で運行は中止し、その後の米軍の上陸などで鉄道施設は破壊された。(この項、Wikipediaに詳しい)
 現在も軽便鉄道が沖縄で動いている。
ネオパーク・オキナワの園内を走る軽便鉄道だ。
実物の1/2らしいが、体験したブログが面白い。(ここをクリック)

 軽便鉄道や路面電車の軌道は(ここ)をクリック。

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沖縄の季節 ~ 沖縄も秋の気配 ~ 亜熱帯気候にも四季がある小さな秋

2019年09月27日 15時43分51秒 | Weblog
 四季は温帯の特徴であるだろうが、亜熱帯気候の沖縄でも小さな秋がある。
吹き渡る風が心地よいかな、と感じるのは沖縄の秋の始まりである。
 夏には決して無い熱帯夜でない夜が現れ始めると秋の始まりである。
分厚い雲が水平線から消えてゆく。
落葉樹の少ない沖縄で、一番に色づくのは桜(寒緋桜)だ。



 常緑樹は秋になると一斉に新芽を出す。
その時期はもう少し秋が進んでからである。


 センダンも色づき始める。
センダンは数少ない落葉樹だ。
台風が来れば一斉に葉を落とす。これは台風17号前の写真。



 アマランダ(オオアリアケカズラ)が元気な花を咲かせ始めた。
この花は4月から12月頃まで咲くが、一年中見ることはできる。
特に、4月、6月、9月の節目になると元気な花がいっぱいになる。
元気な顔を見せてくれたが、本格的な季節はこれからであろう。



 今年、友人にいただいた彼岸花が咲いた。
2玉植えたが、2玉目は成長中。
2,3年後にはこの鉢一杯に咲かせてみようと思ってはいるけれど・・・。


 もう少し、気温が低くなるとブーゲンビリアも時期が来る。
何年か前、NHKでブーゲンビリアが美しく咲くのは24℃と報じていた。
年中ブーゲンビリアが咲いているのを見るけれど、やはり「旬」があるのだ。
 ハイビスカスも今からが美しく、一斉に咲く。
ハイビスカスもこの類であろうか。
この花、何というのだろう。
「秋の花だ」と思って撮ってはみたんだけれど・・・。


 空も次第に秋らしくなる。




 「夏と冬しかない沖縄」と言われるけれども、沖縄県民は小さな季節の変わり目を敏感に捉えている。
4年前、運転免許証を自主返納してから、殊に、四季の移り変わりを肌で感じるようになった
車の生活に慣れてしまうと季節の変わりを捉えることができなくなってしまうのかもしれない。


<余録>

 運動に通うバス停前の小さな居酒屋でみつけた。
正に、そのとおり!なかなか、名言である。
今から気付いても遅いだろうが、苦笑いが出ることばかりだ。
宝くじ買うのは止めるか!

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行ってみたかった川崎・横浜 ~ 川崎 稲毛神社・巣鴨j地蔵通り商店街⑩了

2019年09月11日 14時36分47秒 | Weblog

 5月17日、きょうでこの旅は終わる。
ホテルはビジネスホテルで川崎市の官庁街でJR川崎駅から10分ほどの閑静なところにあった。
昨日の朝、出かける途中で大きな神社が目についたので、今朝、お詣りだけでもと、寄ってみることにしていたので、早目にホテルを出た。
 稲毛神社である。
拝殿で参拝して、少し境内を周ってみた。


 境内はかなり広いようだ。
案内板ばかり撮ってご本体がない。







 樹齢1000年以上という「御神木大銀杏」
どのように撮れば巨大さがわかるかと悩んだなと思い出した。
結局はこの一枚となった。



 昨夜から決めていた老人に人気のあるという「巣鴨商店街」に行かねばならない。
お詣りだけと決めていたので「稲毛神社」は早々に引き上げた。


 駅を出るとすぐに商店街はあった。
「巣鴨地蔵通り商店街」


 ほんとうだ。
行き交う人達は老人が多い。
不思議に、それなりに活気があった。
アメ横と違ってゆったりした人の流れがいい。
テレビで話題にするところだから、老人の商店街以外にも何か筈だ。
しかし、「年寄の商店街」以外にはさっぱり思い出せなかった。

 突然、商店街の中に大きなお寺をみつけた。
境内は賑わっている。
御札などを売っている境内で訊ねた。



  「曹洞宗萬頂山高岩寺」といい、ご本尊は「とげぬけ地蔵尊」。
聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るというので列に加わった。
どのようにしたかは思い起こしてみるが、詳細は思い出せない。
ただ、その場でタオルが売られていて、悪いところをタオルで拭うと治るというので買った。
神仏のこうした売買の行為を「買う、売る」と表現するのは適切でないだろうが言葉が浮かばない。

 すぐ近くには眞性寺というお寺もあった。



ーすべての画像は画像をクリックすると拡大ー


 記事を書くに当たり、少々、ネットで調べてみた。
巣鴨は中央道の入り口にあたるので、旅の安全を守る地蔵尊があるという。
江戸六地蔵尊のふたつが巣鴨にあるのだ。
「地蔵通り」と言われる由縁はこれであったかと合点した。


<稲毛神社>
 神社のご創建の年代は詳らかではないが、御神木大銀杏の樹齢が1千年と推定されるところから、当地の古社であることがわかる。
社伝によれば、東国に争乱の絶えなかった頃、武神・武甕槌神をまつり、天皇軍の戦勝を祈る社として建てられたと伝えられている。
第十二代景行天皇が東国御巡遊のおり当神社に賊難を避けられたといい、第二十九代欽明天皇の御代、この地方に動乱が絶えなかったため、天皇は当神社に幣帛・七串を奉り、新たに経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神を配祀せしめられ、戦勝とその後の親和協力を祈られ、以後長く勅願所であったと伝えられている。
 神社は初め御祭神の御名をそのままとって、「武甕槌宮」と称していたが、平安時代末期にこの地を領有した河崎冠者基家(秩父平氏)が山王権現を勧請して以後「河崎山王社」「堀之内山王権現」「五社山王」「三社宮」などとよばれていた。
 山王権現の称号は、天台宗系の神仏習合思想「山王一実神道」によるが、慶応四年、下向された有栖川宮熾仁親王殿下が当神社にご休憩され、その折りの殿下の御言葉「御社名、新政府の神仏分離の方針に相応しからず」により、鎮座地武蔵国稲毛庄の名をとって「川崎大神稲毛神社」と改称した。
その後、一時「川崎大神宮」と呼ばれた時期もあったが、明治中期には「稲毛神社」が固定した。
(この項、この記事から抜粋した。)


ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー



 若い頃は東京は好きだった。
地方は未だ復興途上であったが、東京には何でもあった。
小走りでないとついて行けない人の流れがあった。
もたもたしていると、時代に取り残されそうだった。
その緊張感が好きだった。
地方でのんびりと過ごしていてはいけないと感じ、英気をもらって帰ったものだ。
 今回、十数年ぶりに東京・横浜・川崎と歩いた。
老人の身になっても、あの緊張感と時代が流れるスピード感は健在であった。
身が引き締まる思いだった。
60年近く前のあの頃とこの新鮮で、英気に溢れた空気は変わらない。
できることなら2,3年に一度はこの空気を吸いに来たいと思った。


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行ってみたかった横浜・川崎 ~ 東京アメ横・浅草⑨

2019年09月05日 15時15分48秒 | Weblog
 5月16日。 
明日の午後15時の便で沖縄に帰るだけである。
未だ時計は15時過ぎだ。
急遽、思い立ってアメ横に行ってみることにした。
初めて行く土地なのでワクワクした。
乗り換えも苦ではなくなった。



 アメ横の入り口に立った時、初めてのような気が全くしなかった。
横丁の人混みに揉まれる。
この時期のこれじゃ年の暮れはさぞや大変だろうと思った。
いろいろな店を覗き、時には入ってみる。
目的もなく、思いつきで来ただけだから、格別に目を引くものはない。
横丁の路地は長いようだ。
 どれくらい歩いただろうか、疲れたので路地に入った。
露地にテーブルを並べている中華料理店が目に入った。
そういえば、レンガ倉庫で休んで以来、何も口していない。
客の多そうな店を選んで座った。
この店、珍々軒だ。
ビールと餃子を注文した。
飲み屋では飲むことのない生ビールがひどく美味かった。
餃子がうまかった。


 再び人混みの中に入る。
そろそろ戻る時間かと、元来た道を引き返しながら店を覗いた。
サングラスのスタンドが目に入った。
いろんな形状のサングラスがあるな、と眺めていると
「これなんかお似合いですよ」と若い、スラッと背の高い店員が手に取ってくれた。
「サングラスは掛けたこと無いんよなあ」とつぶやきながらかけてみる。
「あ、似合いますよ」ときた。
鏡の顔が別人に見える。
「アメ横で何買った?」と言われるに間違いないと思い、
「アメ横の唯一の思い出」に買うことにした。
「かけて行くからいいよ」と包装を断り、再び人混みに入る。
初めてのサングラス。
人々の目線は一向に自分に向かない。
行き交う人は全く無視だ。
「強面のおっさん風」をイメージしていたのだが無視、無視。
そんなわけでほっとするやら、何か物足りなさを感じるようでもあった。

 時計を見ると18時前。
浅草に寄ってみることにした。
浅草は昼間の仲見世通りしか知らない。
「夜の仲見世」はどうだろうと期待に胸が膨らんだ。
歌に名高い「六区」の風にあたってもみたかった。
 遠くに雷門が見えてきた。
地下鉄からだと結構遠いなと・・・仲見世のシャッターが殆ど閉まっている。
人の姿も疎らだ。
道を尋ねた時、
「もう仲見世は閉まってないかなあ」と言った中年の男性の言葉が蘇ってきた。


 シャッターの閉まった仲見世風景は侘しいものだった。
取り敢えず、参拝だけはと奥へ進んだ。
何枚か写した。







 中天にかかる満月がわびしかった。



 結局、ショックで「六区」のことは、すっかり忘れていた。
18時過ぎにシャッターが降りるなんて考えられなかった。
沖縄の国際通りは夜の9時といえば、通りは昼よりもにぎやかだ。
観光地だろう、と合点がいかなかった。
 ホテルへの帰り道、コンビニでおにぎりとサンドウイッチを買って帰った。
21時を過ぎていた。

 あれから3ヶ月少々経ってみれば、懐かしい。
写真の数はアメ横2枚、浅草5枚であった。
写真の数は少なかったが、脳裏には、はっきり焼き付いた。


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行ってみたかった川崎・横浜  ~  海上保安庁記念館横浜館⑧

2019年08月28日 15時08分03秒 | Weblog
 赤レンガ倉庫を出る。
目前に「海上保安庁資料館横浜館」の建物があった。


 入ると管内は一艘の小型の船の残骸が展示してあった。
前もっての知識がなかったので、目前に現れた鋼鉄船の錆びた異様な光景に、一瞬、たじろいだ。



 入り口近くにいた海上保安庁の制服が似合う50絡みの背の高い、品格のある保安官が説明してくれた。
 平成13年12月22日、南西海域で不審船を発見。逃走する不審船を追尾する。
不審船に対する幾度もの停船命令を無視され、不審船からも銃撃されて巡視船は被弾する事態になった。
不審船からの銃撃で保安官3名が負傷した。
更に、威嚇射撃をするも逃走を続けたため巡視船が攻撃。
その後、自爆、沈没するという事件があった。
 翌年平成14年10月、沈没した不審船を引き上げた。
ここに展示されていたのはその沈没船である。
奥に進むと階段があり、沈没船の看板を目線と平行に見ることができた。

 鋼鉄の船腹を貫通した弾痕。


 看板上にある14.5mm対空機関銃移動用レール。


 無反動砲の台座か。



 第一機関室。



 見るからに小舟である。
漁船なら平底であるが、この小舟は船底は鋭利に尖っている。
明らかに戦闘用の軍船である。
この小舟に7人もの人間が乗っていた。
彼等は停船にも応じず、挙げ句は巡視船に体当りを喰らわし、遂には銃撃で反撃し、自爆した。
その凄まじさに身の毛がよだつ思いがした。
これらの人間に対峙した海上保安庁の隊員の思いは如何ほどであったろう。
3人もの負傷者を出して、ようやく反撃したのである。
死と隣合わせの、いや死に直面しても我が身を守ることに、世論を気にしないとならなかったのか。
国境を侵されてもか。
間違って侵犯したのなら、停戦命令に従い、釈明すれば良いことだ。
そうしなかったということは、別に重大な目的があったに違いない。
装備品などを見ると慄然とする。
自衛隊は軍隊、交戦は出来ない。自衛のための防衛だけである。
平和な横浜港を見ながら、釈然としない疑問に駆られた。

記念館の岸壁に停泊する巡視船。
そのスマートで明るい船体からは、生死をかけた壮絶な現場の陰は見えない。



死んでいった北朝鮮の工作員。
どんな使命を帯びていたのだろうか。
戦いの先には、悲しい、己の意思では選択できない強大な力がある。
あの暗い船の中で武器に囲まれながら荒海を渡ってきた。
 前の晩、ごろ寝のテントの中で、許嫁の写真をみせてはしゃいでいた新兵が
「隊長殿、撃たれました」と背後から声を上げた。
振り向くと腹を撃たれ、真っ赤になっていた。
そして、最後に「おかあさ~ん」と叫んで息絶えたという。
「若い兵隊は死の間際には、おかあさんと呼ぶ」と涙を浮かべていた。
インパール作戦の事を、語ってくれた小隊長だった支店長は
「戦争は人間を獣にする。敵兵をみると憎しみ以外は湧いて来ない」
「こうした平和なときには、到底、人など殺せない」
それ以降、戦争の話はしなかった。




帰宅して、横浜館の関連記事をネットで探した。
その状況を詳述した記事を見つけた。(ここをクリック
ー画像をクリックで画像は拡大しますー


<余録>
 宮崎に勤務していたときのこと。
入り口に2,3本の竹をあしらったスナックに、看板に惹かれて飛び込んだことがある。
そろそろ四十年近くになる三十数年前のこと。
夫婦ふたりでやっている小さなスナックだった。
マスターは明日が出撃という日に終戦になった特攻隊員の生き残り(ママ談)である。
物静かで、寡黙な男だった。
ママはほっこりした小太りの女性で、明るく開放的で、和服がよく似合う女性だった。
いい店で、馴染みになった。
 「ノラさんが来ると、不思議にお客さんがみえるの。今日もね」
そんな時は、勘定が破格である。
「だから今日は300円」ときには「100円」と気ままである。
その当時の飲み代は、気^プガあるから3000円が相場であった。
千円札を出して、「釣りは要らない」と妙に格好つけて見せ、好意に甘えた。
 ある日、ママが
「この人おかしいの。きのうテレビで人間魚雷のドキュメントをみて、涙を流すの」
「え?マスターも特攻隊にいたんでしょう」
そのとき、あの寡黙なマスターが苦笑いしながら口を開いた。
「我々は確かに死は覚悟していたよ。でも心の何処かで、ひょっとしたらと死ななくて済む、と思える瞬間があるんだ。
でも、人間魚雷は乗り込んで、外からパチンと蓋をされたら、もう出ることは出来ない。内からは開けることはできない。
運良く敵艦に体当り出来ればいいが、燃料が切れたりすれば、そのまま海の底で、ひとり死ぬ以外には道は無いんだ。
それを考えると人間魚雷に乗る彼等は、パチンッとハッチを閉められた時の気持ちを考えると・・・」
と、特攻隊の比じゃないと涙を拭おうともしなかった。
 この店には、30前後の若い連中が多い。
飲みっぷりはいいし、紳士的で、惚れ惚れするほどスマートであった。
ある日、彼等3,4人とカウンターに並んだ。
どうも壁に飾っているゼロ戦の話をしている。
わたしが興味を示していることを察したのか、マスターが
「ノラさん、この人達は航空自衛隊のパイロット達。この人はノラさん」と紹介してくれた。
「はい、父は大将まで行きましたが、何故か皆さんは上等兵の父までしか知りません」
「というと?」
「はい、ノラクロと申します」
ノラクロをきっかけに彼等と会話をする機会が増えた。
それから数カ月後のこと。
「きょうのスクランブル」という言葉が耳に飛び込んできた。
「宮崎で、スクランブルなんか発生するのですか」ちょっと驚いて尋ねた。
殆ど、玄界灘に向かって飛び立つらしい。
国籍不明機や不審航空機が領空に近づけば自衛隊機は飛び立つという。
「一年で850回以上襲撃します」という。
その殆どがソ連の軍用機らしい。
この日もソ連機だったという。
機体で「国境を超えている。出るように」と指示する。万国共通の機体で通信できる方法があるらしい。
すると、領空すれすれに近づいて来ては離れるを繰り返すという。
そのうち、領空に侵入してきて、飛び去って行ったという。
「機上からソ連軍機の笑っているパイロットの顔が見えるんですよ。明らかにあざ笑っている」
「自衛隊は自分らが撃たない限り、先に打つことはないということを知っているのです」
30歳前後の若い自衛隊員は悔しそうに話す。
「国境を侵犯されても撃墜できないなんて法律は何処の国にもありませんよ」
「思わず機銃のボタンに手が行くことがあります。俺が犠牲になれば・・・なんて事を考えることもあります」
この言葉を聞いた時、日本の自衛隊は凄いと思った。
我慢できる強い意志がある。

 相手が撃たない限り、自衛隊側から撃つことは禁じられている。
そんな馬鹿な!
それが専守防衛らしい。
我々は、平和を満喫しているが、死との瀬戸際で国防に当たっている人々がいることを忘れてはなるまい。
 現在は、玄界灘より南西諸島へのスクランブルが圧倒的に増え、航空機だけでなく中国の艦船が出没し、危機的状況にあると聞く。
どちらかが発砲し、銃撃戦になったら戦争の危機が極限状態にまで高まるだろう。
どちらが先に撃ったかは、互いに譲らないことは明らかだ。

 マスターから戦時中の多くの話も聞いた。
彼の最後の言葉は、いつも
「戦争だけはやっちゃいかん」だった。
上司や先輩や、近所の人たちからもたくさんの話を聞いた。
将校だろうが、軍曹だろうが、一兵卒だろうが、志願兵だろうが、徴兵だったろうが、異口同音に「戦争だけはやっちゃいかん」と言った。

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行ってみたかった横浜・川崎 ~ レンガ倉庫・馬車道⑦

2019年08月20日 16時58分56秒 | Weblog
 それぞれの都市にはそれぞれの匂いや風を感じるものである。
少し早めにホテルを出てレンガ倉庫に向かった。
 先ず、馬車道を歩く。
事前知識もなく、ガイドもないから馬車道とはなんぞやとは書くことが出来ない。





 時間は充分あったのであちこち気ままに歩いてみた。
小一時間歩いたが、都会のオフイス外の裏通りという印象しかなかった。
大きな交差点にカフエを見つけた。
店内は静かで、サラリーマンらしき人々が談笑している。
窓際の二人用の小さなテーブルに座った。
窓辺の席は高齢者ばかりだった。
彼等が皆、上着を羽織っているのに、何故か安堵感をおぼえた。
アイスコーヒーなんてほとんど飲まないが、きょうばかりは冷たいものがほしかった。



 この旅では一度もタクシーは使わなかった。
かねてからそうしたかったが、時間に制約されてそうは出来なかった。
桜木町から定期バスに乗って「レンガ倉庫」に着いた。
バスが観光スポットを回る路線バス「あかいくつ」である。
後ろ姿しか撮れなかった。


 バスを降りるとレンガ倉庫はすぐに分かった。
行く先々で、どこも塵ひとつなく整備されているのには驚いた。
さすがに国際都市横浜である。
 レンガ倉庫は何があるのか、史跡なのかも知識は皆無であった。
結構立派なのには、少々、驚いた。
人々が出入りしてるが、どうも観光客ばかりのようだ。




 ショッピルだろうと予測して管内に入った。
ングモー蛍光灯などの灯りがにぎやかな店がたくさん並んでいた。
興味をそそるような物もなかったので、もうひとつ奥の棟に寄ってみることにした。
この棟も同じで、たくさんの店が並んでいた。
2階にも上がってみたが興味を引くもがない。
 館外に出るドアを見つけた。
外に出ると、ベランダがレストランになっていた。景色がいい。
人っ子一人いない。いや、ひとり居た。
ボーイらしき若い男性に声をかけた。
「オープンしているの?」
「はい、どうぞ!」
感じの良い青年だった。


 ビールでもないし、コーヒーもどうかと迷っていたらこれをすすめられた。
「人気上昇中で、よく飲まれています」
迷うことなく注文した。
プロはこうでなくちゃ駄目だ。
人当たりの良さがまず大切だ。信じる気になってしまう。
バブル以来、プロがいなくなった。
バブル最悪の遺産だ、なんて考えながら口にした。

 今では、どんな味だったか記憶にないが美味かった。
アルコールが入っているなと感じた。
「韓国産」というのが気にかかった。

 ウエイターおすすめのドリンクを飲みながらゆったりした時間を過ごした。
その時、岸壁に止まる船を見つけた。
巡視船だった。
「海上保安庁資料館」の文字も見えた。
これは行ってみなくちゃなるまいと思った。



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行ってみたかった川崎・横浜 ~ 横浜 山下公園・港が見える丘⑥

2019年08月10日 15時41分27秒 | Weblog
「赤い靴の女の子」には何故こんなにも惹き付けられるのだろう。
小学校5年生だった3月。
春休み入ってからずっと微熱が続いていた。
持病の胆石で寝込んでいた母の医者を呼びに行ったり、薬取りなどで走り回っていた。
息が上がるほどきつかったが、風邪ぐらいだろうと思っていた。
3月30日、自転車で外出しようとして倒れた
診断の結果、肺浸潤とわかった。
初期の肺結核である。今、この病の名前は聞かない。
2歳の頃、肋膜炎を患い生死の境を彷徨った事があったと、母を極度に落ち込ませた。
当時、肺結核は不治の病とされ、人里遠く隔離された。
運良く、私は自宅療養と言うことになった。
新薬と言われたアメリカからの輸入医薬品「ストレプトマイシン」を打ち続けた。
毎日、午後になると主治医が、どでかいオートバイに乗ってやってくる。
「ドドドッ」と爆音がする度に慄えあがった。
馬にするような巨大な注射器を尻にブスッと刺すのである。痛いどころではなかった。
42本だ。だから42日間、怯え、耐え抜いた。
栄養を摂って、絶対安静。一日中寝ていた。
父は勤めに、母は畑に出ていない。
森閑とした部屋に残され、ラジオを着流しに聞くだけであった。
寝たっきりを3ヶ月、寝たり起きたりを3ヶ月ほど続けた。
ラジオだけが友だちだった。もっぱらNHK教育番組を聞いた。
その頃は、童謡や唱歌がよく流れていた。
「赤い靴の女の子」はそうした頃に聴いた。


 横浜山下公園では広い園内はバラが満開だった。
帰宅後知ったことだが、横浜では方々でバラに関するフェスティバルが開かれていたようだ。






催物の準備だろうか、舞台づくりの人々だけが忙しげに働いていた。



 港に来て、港風景を撮っておかないということはない。
テレビや雑誌で見慣れた風景だけど横浜のあの全容を撮影することだけは難しかった。
切り取って写したものの中から・・・。





 夕闇が迫る。
「港が見える丘」に向かった。
途中、外人墓地を左に見ながら道なりに歩を進めた。
さすが国際都市横浜。
道端の花々にも手入れが行き届いていた。





「港が見える丘」、もっと広々とした高台と思っていたが、思ったほど広くはなかった。
しばらくひとりポツネンと港を眺めていた。
きっと夜がいいだろうなあと思いながらも港が見える丘を後にした。



ーすべての写真はクリックで拡大ー

 帰途、ふと見るとエレベーターがある。
まさかと思って乗ってみた。
真っ直ぐと丘の登り口に降りた。
これには驚いた。さすが国際都市横浜!

<余談>
 今年は旧盆と8月盆が全く同じ日。
8月13,14,15日が旧暦7月13,14,15日である。
そこで考えた。
東京あたりでは盆は新盆と云って、新暦7月13,14,15日としている。
では何故、我が地方は新暦の8月13,14,15日を盆とするのだろうか。


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行ってみたかった川崎・横浜 ~ 横浜中華街・ラーメン横丁⑤

2019年07月31日 18時00分59秒 | Weblog



 川崎だったか、横浜だったか定かではないが、表通りから入った路地の角に立っていた。
「赤い靴の女の子」に会いに行くのが、今回の横浜行の目的のひとつだった。
思わぬところで出迎えてくれたお嬢さんが愛おしくて何枚か撮ってしまった。
関内で降りたのだろうか。
記憶は定かではなくなった。あれから3ヶ月が過ぎてしまっている。

中華街ゲートの看板はどれもピンボケ。
最近、特にカメラを安定させずに慌てて撮ってしまう。
「手ブレ防止付き」といったって、100%信頼できるほどの値段のカメラは買ってない。


 中華料理でも食べてみようかとの目的もなく、ただぶらついただけである。









 修学旅行生が多い。
ひとつのグループに声をかけてみた。
「中学生?」
「ううん、高校生」
「ごめん。お爺になるとみんな可愛いく見えてしまうんだ。どこから?」
「北海道!」
「そうなんだ。楽しんでね」
流行りの北海道弁を使ってみたが反応はなかった。



この色とりどりは中華風だ。
若い頃だったら、きっと手にとってみただろう。



 路地も歩いてみたけれど、何処の都市にもある路地裏風景だった。
駐車場の料金が気になった。
これは安いと驚いて撮ったつもりだったが・・・。


<余録>
 「是非、行ってみろ」という友人の勧めもあったのでよく16日、横浜「ラーメン横丁」に出向いた。
レンガ倉庫を出て新横浜に向かう。
教えられた通り向かうが、それらしき通りがない。
余程歩いたところで尋ねてみる。
3,4人の通行人に尋ねたが、皆快く応えてくれた。
歩くほど、確かこの通りのはずだが目ぼしき辺りにたどり着き、辺りを見回すけれどラーメン店は一軒もない。
「そこですよ」
不審に思い、又、尋ねてみたら4,5メートル先の映画館風の建物を指差す。
確かに、ラーメン横丁の看板が目に入った。
入り口はロープで仕切られ、3,4人の男女が手持ち無沙汰に立っている。
「あの有名なラーメン横丁はここですか」
それでも合点がいかなかったので彼等の一人に話しかけた。
「そうです。入場券が要ります。ひとり300円です」
「えっ?300円?」
「65歳以上ですか」60歳だったかもしれないが、記憶は定かではない。
「そうです」
「じゃあ、100円です」
300円ならやめようと思ったが、100円ならいいかと窓口で入場券を買った。
ラーメン横丁に入るのに「入場料」とは驚いた。
入ったところで右、左と食堂が並んでいた。
言われる通り、地下に入って行く。
足元が暗いので、そっと降りてゆく。
突然、目の前に暗い空間が広がった。
どうもビルの地下らしい。
周囲がラーメン屋の小さな店が取り囲んだ狭い広場に迷い込んだような気がした。
ここだけは夜である。
空を仰ぐと夜の雲が浮かんで見えたが、目が慣れてくると天井に描かれた画のようである。
店先を一軒一軒歩いたが、概ね値段も700円以上だ。
兎に角暗い。
それでも、どこの店にも数人の客がいた。
突然、ふたりの警察官の姿が目に入った。

 この時、25歳のときに香港の貧民窟みたいなところに連れて行かれたのを思い出した。
現地ガイドから「香港らしいところにお連れしましょう」と言われ、夕食を共にすることにした。
「汚れてシワだらけのYシャツに着替えて来てください」
旅行も5日ほど経っていたので汚れたYシャツには事欠かなかった。
「普通の人は絶対にこの地区に入ることは出来ません。警察も手は出せません」
何とか城と云っていたが失念した。
テレビで見るまさに巣窟であった。
気味が悪かったけれど、ガイドと二人連れなので耐えられた。
小さなテーブルが3つほどの食堂に入った。
そこで食べた白肉のスープはうまかった。中の白身もうまかった。
後にも先にも、あのようなうまいスープを食ったことはない。
食べ終わって、感想を聞かれ
「いやあ、美味しかったです」と丁寧に礼を述べた。
「今食べたのがそこにいますよ」
店先のショーウインドーにまっ黒の塊で鰻がうようよ蠢いていた。
「ああ、鰻ですか」
「よく見てください」
「え?蛇?」
鰻と思ったのは蛇だった。
びっくりしたが、妙に納得した。
「最初に蛇だというと食べないでしょうから黙っていました」
香港大使から紹介されたガイドだった。

 警察官の姿を見た時、あの時の香港を思い出した。
きょうはひとり。
頼る人間はどこにもいない。
早々に退散することにした。
階段を昇りながら、思い直してシャッターを切った。
たった一枚である。

ーどの写真もクリックで拡大しますー






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