満開の椰子の花。
ひと月ほど前、5月30日の昼下がり、浦添市内の民家に植えられていた。
58号線のあちこちに椰子の実がぶら下がり、落ちてくる実を防ぐ為に椰子に網をかけていた風景がみられたが、最近は珍しくもないので気付かないのか、見かけなくなった。
K氏は沖縄のはるか西、台湾に近い波照間島の出身である。
赴任直後、最初に出会ったウチナンチュウー(沖縄県人)である。
誰が見ても沖縄県人と断言できる風貌をした男らしい男子(?)である。
先日、彼から久しぶりに電話が入った。
「近くに来たんだけれど、暇?」
大体、こんな時、何かの相談か頼まれ事だけれど、彼の場合だけは違う。
「ヒマだよ」
「じゃあ、コーヒーでもどうですか。久しぶりだしー」
そう、彼の場合は言葉通りである。
近くの行きつけの喫茶店を指定して会う。
あれやこれやら四方山話をしているとき、起訴されている元外務官僚の佐藤某氏のことに話題が移った。
「俺にはよく分からん。何故、沖縄独立論になったり、まさに他県人が沖縄を蔑視しているように書いているのか、あいつの意図するところが判らん」
佐藤氏は2大地方紙の一方の土曜日の朝刊に論説を載せているのである。
最初は興味津々、欠かすことなく読んでいたが、最近、彼の論理に納得できない、筋の通らぬ論点が非常に気になっていた。
沖縄愛国論者であるK氏に議論を吹っかけた。
「俺の悪口を言ってもいいが、おきなわの悪口にするな!」
が彼の口癖である。
思いもかけず、沖縄愛国論者である彼も同じ意見であった。
「おれにもわからん。あいつは沖縄のことを何も判っておらん」
というのである。
「あんたは沖縄県人は被害者意識が強すぎる、というけれどその通りだ。無理もないよ。占領下の沖縄はそうだったんだからー」
「青信号で渡っていた人が、赤信号で侵入してきた米軍の車にはねられても、運転手は無罪放免だったんだからー」
この話はよく聞いた。
「この土地は基地にするから、00月00日まで撤収するように、という文書が廻ってくる。その日がくればブルドーザーがやってきて、取り入れもすまぬ芋畑を整地してゆく。背に乳飲み子を背負った母親がブルドーザーの前にからだを横たえて芋畑を守ろうとするが容赦しなかった」
これもよく聞いた。
しかし、この日の彼の言葉には説得力があった。
「Aサインバーて知っている?」
「ああ、知っているよ。米軍歓迎。ウチナンチュウーは入るなっていうことだろう。おれが沖縄来た頃くらいかな、米軍人お断りに変わったんだろう。それくらいは知っているさ」
と。
「違う。Aサインというのは、米軍以外入店禁止というアメリカ政府の命令だよ」
これには驚いた。
経済的にゆとりのある米軍を店の経営者が差別したものと思っていた。
「どういう意味?」
「アメリカ人以外は入店禁止という看板を店先に米軍が出させたのさ」
今更、米軍がどうしたのこうしたのということをまくし立てるつもりはない。
アメリカだって夫や息子を戦場に出して、命がけで勝ち取った勝利だろうからとやかくいうつもりは毛頭ない。戦争をしたのは国家であって国民ではない。これが戦争だと思う。
しかし、負け戦の負の部分を背負ってきた沖縄の現実を、日本国民のどれほどが感じているだろうか。
この日まで、
「教育でもマスコミでもみな知っているし、分かっている」
といってきた自分が衝撃を受けた。
もう一度、読み直してほしい。
いい加減で、他人の所為にする沖縄の気質を嫌ったこともある。
それは長い27年間という占領下の内に生まれたのではないか。
沖縄の長くて深い文化に触れるうちにその不整合さが気になって仕様がなかった。
K氏のこの言葉に言い知れぬ衝撃を受けた。
6月23日慰霊の日前後から、終戦前夜や沖縄戦のことが多く放映された。
しかし、K氏のマルエーはアメリカが決めたこと、ということを知ったとき初めて、沖縄の痛みを知らなかった事を痛切に感じた。
被害者意識とか、権利の主張だとか、そんな言葉はどうでもいいのだ。
白旗を揚げて、壕から出てくる少女の写真がいまさらながら、沖縄戦の悲惨さがどれほどだったのかと思い知らされる。
数日前、「他人の痛みがーーー」と愚説を垂れたわが身が恥ずかしかった。
母がよく言った。
「ひとの振り見てわが身を正せ」
こんな言葉は数十年も忘れていた。
日本の文化はどこに行ったのだろう。
ひと月ほど前、5月30日の昼下がり、浦添市内の民家に植えられていた。
58号線のあちこちに椰子の実がぶら下がり、落ちてくる実を防ぐ為に椰子に網をかけていた風景がみられたが、最近は珍しくもないので気付かないのか、見かけなくなった。
K氏は沖縄のはるか西、台湾に近い波照間島の出身である。
赴任直後、最初に出会ったウチナンチュウー(沖縄県人)である。
誰が見ても沖縄県人と断言できる風貌をした男らしい男子(?)である。
先日、彼から久しぶりに電話が入った。
「近くに来たんだけれど、暇?」
大体、こんな時、何かの相談か頼まれ事だけれど、彼の場合だけは違う。
「ヒマだよ」
「じゃあ、コーヒーでもどうですか。久しぶりだしー」
そう、彼の場合は言葉通りである。
近くの行きつけの喫茶店を指定して会う。
あれやこれやら四方山話をしているとき、起訴されている元外務官僚の佐藤某氏のことに話題が移った。
「俺にはよく分からん。何故、沖縄独立論になったり、まさに他県人が沖縄を蔑視しているように書いているのか、あいつの意図するところが判らん」
佐藤氏は2大地方紙の一方の土曜日の朝刊に論説を載せているのである。
最初は興味津々、欠かすことなく読んでいたが、最近、彼の論理に納得できない、筋の通らぬ論点が非常に気になっていた。
沖縄愛国論者であるK氏に議論を吹っかけた。
「俺の悪口を言ってもいいが、おきなわの悪口にするな!」
が彼の口癖である。
思いもかけず、沖縄愛国論者である彼も同じ意見であった。
「おれにもわからん。あいつは沖縄のことを何も判っておらん」
というのである。
「あんたは沖縄県人は被害者意識が強すぎる、というけれどその通りだ。無理もないよ。占領下の沖縄はそうだったんだからー」
「青信号で渡っていた人が、赤信号で侵入してきた米軍の車にはねられても、運転手は無罪放免だったんだからー」
この話はよく聞いた。
「この土地は基地にするから、00月00日まで撤収するように、という文書が廻ってくる。その日がくればブルドーザーがやってきて、取り入れもすまぬ芋畑を整地してゆく。背に乳飲み子を背負った母親がブルドーザーの前にからだを横たえて芋畑を守ろうとするが容赦しなかった」
これもよく聞いた。
しかし、この日の彼の言葉には説得力があった。
「Aサインバーて知っている?」
「ああ、知っているよ。米軍歓迎。ウチナンチュウーは入るなっていうことだろう。おれが沖縄来た頃くらいかな、米軍人お断りに変わったんだろう。それくらいは知っているさ」
と。
「違う。Aサインというのは、米軍以外入店禁止というアメリカ政府の命令だよ」
これには驚いた。
経済的にゆとりのある米軍を店の経営者が差別したものと思っていた。
「どういう意味?」
「アメリカ人以外は入店禁止という看板を店先に米軍が出させたのさ」
今更、米軍がどうしたのこうしたのということをまくし立てるつもりはない。
アメリカだって夫や息子を戦場に出して、命がけで勝ち取った勝利だろうからとやかくいうつもりは毛頭ない。戦争をしたのは国家であって国民ではない。これが戦争だと思う。
しかし、負け戦の負の部分を背負ってきた沖縄の現実を、日本国民のどれほどが感じているだろうか。
この日まで、
「教育でもマスコミでもみな知っているし、分かっている」
といってきた自分が衝撃を受けた。
もう一度、読み直してほしい。
いい加減で、他人の所為にする沖縄の気質を嫌ったこともある。
それは長い27年間という占領下の内に生まれたのではないか。
沖縄の長くて深い文化に触れるうちにその不整合さが気になって仕様がなかった。
K氏のこの言葉に言い知れぬ衝撃を受けた。
6月23日慰霊の日前後から、終戦前夜や沖縄戦のことが多く放映された。
しかし、K氏のマルエーはアメリカが決めたこと、ということを知ったとき初めて、沖縄の痛みを知らなかった事を痛切に感じた。
被害者意識とか、権利の主張だとか、そんな言葉はどうでもいいのだ。
白旗を揚げて、壕から出てくる少女の写真がいまさらながら、沖縄戦の悲惨さがどれほどだったのかと思い知らされる。
数日前、「他人の痛みがーーー」と愚説を垂れたわが身が恥ずかしかった。
母がよく言った。
「ひとの振り見てわが身を正せ」
こんな言葉は数十年も忘れていた。
日本の文化はどこに行ったのだろう。
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