本島最北端辺戸岬に立つ「祖国復帰闘争の碑」。
岬に立てば与論島が水平線に浮かぶ。
1952年4月28日、日本はサンフランシスコ平和条約により独立した。
そして沖縄・奄美・大東はアメリカ政府の統治下に置かれた。
沖縄の人々は、この日を「屈辱の日」と胸に刻み込んでいる。
奄美が本土復帰後、当時の日本最南端の島与論島の人たちと沖縄国頭の
人たちが国境線上に集まり、互いに励ましあった。
辺戸岬から本土最南端の与論島を眺めて人々は本土復帰を願った。
岬に立てば与論島が水平線に浮かぶ。
1952年4月28日、日本はサンフランシスコ平和条約により独立した。
そして沖縄・奄美・大東はアメリカ政府の統治下に置かれた。
沖縄の人々は、この日を「屈辱の日」と胸に刻み込んでいる。
奄美が本土復帰後、当時の日本最南端の島与論島の人たちと沖縄国頭の
人たちが国境線上に集まり、互いに励ましあった。
辺戸岬から本土最南端の与論島を眺めて人々は本土復帰を願った。
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1945年3月23日以降、米軍による空爆や艦砲射撃が激化し、遂に4月1日沖縄本島嘉手納に上陸した。
本格的な沖縄戦のはじまりである。
この日からこの小さな島で、住民を巻き込んだ想像にあまりある凄惨な地上戦が繰り広げられた。
1945年6月23日、第32軍司令官牛島満中将の自刃により組織的な戦闘は終結し、沖縄では6月23日を「慰霊の日」として休日としている。
1945年8月15日終戦の日から日本は連合軍の占領下に置かれるが、沖縄は1972年5月15日の本土復帰まで沖縄は米軍の統治下に置かれた。
沖縄では本土復帰運動が行なわれる。
その沖縄県民の熱い、哀しい思いを我々本土はどのように捉えてきたのであろうか。
どのように理解し、どこまで自分のこととして捉えているのだろうか。
そして辺戸岬からはるか与論島を望む。この日は靄っていて島影を見ることは出来なかった。
この岬と与論島の国境線上で国頭村と与論町の人々が集まり、船上で本土復帰を願って励ましあった。
その様子を伝える沖縄の2大新聞。クリックで該当ページへ。
沖縄タイムス記事 43年ぶり27度線で27年ぶり海上会場集会
琉球新報社説 屈辱の日社説と関連の記事
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