晴れの日が続く4月下旬。
久し振りに、前田高地、浦添大公園と続く丘にある伊祖公園を散策した。
伊祖の家並みを左右に見ながら坂道を登りきると伊祖公園の裏手に行きつく。
十段ほどの石段を上りきると正面に沖縄戦の慰霊碑が目に飛び込んできた。
人が訪れることもあまりないのだろう、荒れて落ち葉が朽ち、雑草が生える小道を辿る。
鬱蒼とした暗い樹下の小道は、森閑として、所々の木漏れ日が淋しい。
車の多い道路も遠くないのに、ここでは音が途絶えてしまう。
小道が二手に分かれる。
明るい空が見える方の上り坂の小道を選んだ。
坂の上に出ると見慣れた光景が広がっていた。
陽が燦々と降り注ぐ公園の緑に安堵した。
小学校の運動場くらいの芝生の周りには植えられた桜の緑葉がさわやかだった。
何度も来た筈なのに幾つかの碑があるのに気付かなかった。
伊祖城址と書かれた古い立て札。
伊祖公園が城址であるということを初めて知った。
ブログに書き留めるに当たって、琉球史をインターネットで調べたが、容易に飲み込めない。
半日あまりかけて、読み漁ったが頭に入らない。更に時間をかけねばならないだろうとあきらめた。
おぼろげながら理解した範囲内によると、伊祖城は英祖王(1229~1299年)の先祖が代々に亘って居城にしていたと伝えられているらしい。
英祖王の没後に三国時代に入るのか、三国時代の最中なのか、その勢力範囲がどのようなものであったか。
隣接する浦添大公園には尚王朝の王墓もあるし、王城が首里に移る前、浦城大公園の高地にあったという文書も見たことがある。その史跡も歩いてみたし、史料館にも行った。
歴史の一時期、伊祖城が有力な王の居城であったことは間違いなかろう。
城址は鬱蒼とした木々に覆われ、石垣の一部を残すだけであった。
「おもろそうし」の碑文があった。
帰り道、振り向くと「伊祖公園」といつも目にする看板があった。
裏口からの進入も馬鹿にならない。
思わぬ発見をするものだ。
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久し振りに、前田高地、浦添大公園と続く丘にある伊祖公園を散策した。
伊祖の家並みを左右に見ながら坂道を登りきると伊祖公園の裏手に行きつく。
十段ほどの石段を上りきると正面に沖縄戦の慰霊碑が目に飛び込んできた。
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人が訪れることもあまりないのだろう、荒れて落ち葉が朽ち、雑草が生える小道を辿る。
鬱蒼とした暗い樹下の小道は、森閑として、所々の木漏れ日が淋しい。
車の多い道路も遠くないのに、ここでは音が途絶えてしまう。
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小道が二手に分かれる。
明るい空が見える方の上り坂の小道を選んだ。
坂の上に出ると見慣れた光景が広がっていた。
陽が燦々と降り注ぐ公園の緑に安堵した。
小学校の運動場くらいの芝生の周りには植えられた桜の緑葉がさわやかだった。
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何度も来た筈なのに幾つかの碑があるのに気付かなかった。
伊祖城址と書かれた古い立て札。
伊祖公園が城址であるということを初めて知った。
ブログに書き留めるに当たって、琉球史をインターネットで調べたが、容易に飲み込めない。
半日あまりかけて、読み漁ったが頭に入らない。更に時間をかけねばならないだろうとあきらめた。
おぼろげながら理解した範囲内によると、伊祖城は英祖王(1229~1299年)の先祖が代々に亘って居城にしていたと伝えられているらしい。
英祖王の没後に三国時代に入るのか、三国時代の最中なのか、その勢力範囲がどのようなものであったか。
隣接する浦添大公園には尚王朝の王墓もあるし、王城が首里に移る前、浦城大公園の高地にあったという文書も見たことがある。その史跡も歩いてみたし、史料館にも行った。
歴史の一時期、伊祖城が有力な王の居城であったことは間違いなかろう。
城址は鬱蒼とした木々に覆われ、石垣の一部を残すだけであった。
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「おもろそうし」の碑文があった。
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帰り道、振り向くと「伊祖公園」といつも目にする看板があった。
裏口からの進入も馬鹿にならない。
思わぬ発見をするものだ。
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ー伊祖公園・伊祖城址ー
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