10月1日、沖縄県唯一の軌道であるモノレールが、長年の懸案が叶って首里駅から浦添西原に南進、開通した。
「首里駅」から終点「てだこ浦西駅(てだこ=太陽の子)」に延伸したことで、これで那覇空港から本島中部・北部へのアクセスは格段に便利になった。
魔の58号線と観光関係者に恐れられていた宜野湾から空港までの58号線の交通渋滞に合わずに空港や那覇市内に行くことができるようになった。
沖縄自動車西原インターチェンジと駅、密接する周辺の開発が進められている。
ネットで解かりやすい記事を見つけた。
参考にはこの頁を参照されたい。
浦添前田駅周辺は沖縄の観光地も多くある。
浦添城跡。浦添運動公園、浦添美術館、戦跡である前田高地など。
宜野湾の米軍機を一望に見渡せる嘉数展望台も近い。
10月15日、今日の夜明けは薄曇りであった。
心なしか、開け放した窓から入る風に涼気を感じた。
「きょうは開通したモノレールにでも乗ってくるか」
太陽が登る頃も、空もまだらに青空がのぞく程度だった。
春から秋にかけて、夜半に雨が降り、日の出とともに晴れ上がることが多い。
真夏日近くまで気温が高い日が多いが、きょうは少しは凌ぎやすかろうと身支度を整え、昼前には家を出た。
家の近くに「浦西行き」のバス停がある。
浦添警察署辺りでモノレールは直角に曲がっている。
モノレールの終点駅名はわからないが、バスは「浦添警察署前」で降りれば大丈夫だろうと思っていた。
浦添警察署の行き先が出ない。
「浦添前田駅」とある。
バス停手前で、慌てて降車ボタンを押した。
後方50メートルくらいのところに工事中の駅舎が見えた。
駅舎に入ってみると人影もなくガランとしている。
改札口を通り、ホームに出てみた。
ここが終点ではないと直ぐにわかった、この先の行き先表示がなされている。
「てだこ浦西」とあった。
終着駅は「てだこ浦西」かと初めて終点駅名を知る。。
バスを降りたとき、見上げるモノレールはトンネルに入り地下へ潜っていた。
車両基地へでも行くのかと思ったが駅があるのだ。
モノレールは、概ね、8分間隔で運行している。
乗り込むと直ぐにトンネルに入った。
終点に降りたが、ここも構内は人影がない。
出口の改札の窓口で駅周辺の地図をもらったが、位置関係は掴めなかった。
駅の前には新しい道ができていた。
右手に行けば坂の上に当たる。
位置関係が確認できるかと思ったが、陽も差し始めたので諦めた。
駅構内周辺を周ってみた。
初めてスマホで撮影したが、動画になっていたり、ボケたりで散々だった。
どうにかなるだろうと思う写真が、これらが全てである。
降り立った所。駅舎は左奥の透明のドーム状の屋根。
まだあちこちで工事中だった。
30分も居たろうか、見るもの何もなし、帰ることにした。
首里方面。トンネルの右手の大きな建物が3,000台を収容するという駐車場。
社内風景。女性がひとり乗ってきた。これで乗車人員は2名。
帰りは「古島駅」まで乗り、バスで帰宅した。
首里駅から4駅延伸したことになる。
路線は4km延長され、17kmとなった。
那覇空港~てだこ浦西駅間の所要時間は37分。
浦西から車で行けば、夜間でも小一時間かかるだろう。
昼間だと2時間以上もかかることがあり、渋滞のため、時間の予測もたてられない、
朝夕のラッシュ時は楽になる。
始発は「てだこ浦西駅」5:39発、「那覇空港駅」6:00発。
終電は両駅とも23:30発だ。
現在2両編成であるが、3両編成になる予定。
観光客には「浦添城址」、「浦添大運動公園」、「美術館」そして近年話題になっている「前田高地」などに行くには便利になった。
浦添市以北の人たちや、本島北部方面への観光をする人たちには便利になるだろう。
そうした将来を見越してのモノレール終点駅周辺の開発も進められている。
来年春には「スイカ」も道入される予定だ。
駅周辺の開発後がたのしみである。
<余録>・・・沖縄にも戦前は鉄道も路面電車もあった・・・
戦前沖縄にも鉄道もあったし、那覇市には路面電車も走っていた。
それらは、沖縄戦で破壊され、長い米軍軍政下のもと復旧されることはなかった。
鉄道は那覇市を起点として、与那原線、糸満線、嘉手納線の3線があった。
鉄道建設の期待は高かったが、資金難などから計画は実現しなかった、
1914年(大正3年)12月に「沖縄県営鉄道」として、先ず、与那原線が開業する。
「沖縄県営鉄道」は鉄道省の呼称で、沖縄県は「沖縄県軽便鉄道」とした。
1917年(大正6年)以降、「沖縄県鉄道」と統一した。(しかし県民は現在でも「ケービン」「ケイビン」と呼ぶ)
1922年3月(大正11年)に嘉手納線、1923年7月(大正12年)には糸満線が開業した。
バス事業との競合が激しく、ディーゼルカーを導入するなどして対抗したらしい。
1944年7月(昭和19年)、太平洋戦争激化で軍用鉄道となり、通常ダイヤによる運行は終了した。
1945年3月(昭和20年)、戦争の激化で運行は中止し、その後の米軍の上陸などで鉄道施設は破壊された。(この項、Wikipediaに詳しい)
現在も軽便鉄道が沖縄で動いている。
ネオパーク・オキナワの園内を走る軽便鉄道だ。
実物の1/2らしいが、体験したブログが面白い。(ここをクリック)
軽便鉄道や路面電車の軌道は(ここ)をクリック。
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「首里駅」から終点「てだこ浦西駅(てだこ=太陽の子)」に延伸したことで、これで那覇空港から本島中部・北部へのアクセスは格段に便利になった。
魔の58号線と観光関係者に恐れられていた宜野湾から空港までの58号線の交通渋滞に合わずに空港や那覇市内に行くことができるようになった。
沖縄自動車西原インターチェンジと駅、密接する周辺の開発が進められている。
ネットで解かりやすい記事を見つけた。
参考にはこの頁を参照されたい。
浦添前田駅周辺は沖縄の観光地も多くある。
浦添城跡。浦添運動公園、浦添美術館、戦跡である前田高地など。
宜野湾の米軍機を一望に見渡せる嘉数展望台も近い。
10月15日、今日の夜明けは薄曇りであった。
心なしか、開け放した窓から入る風に涼気を感じた。
「きょうは開通したモノレールにでも乗ってくるか」
太陽が登る頃も、空もまだらに青空がのぞく程度だった。
春から秋にかけて、夜半に雨が降り、日の出とともに晴れ上がることが多い。
真夏日近くまで気温が高い日が多いが、きょうは少しは凌ぎやすかろうと身支度を整え、昼前には家を出た。
家の近くに「浦西行き」のバス停がある。
浦添警察署辺りでモノレールは直角に曲がっている。
モノレールの終点駅名はわからないが、バスは「浦添警察署前」で降りれば大丈夫だろうと思っていた。
浦添警察署の行き先が出ない。
「浦添前田駅」とある。
バス停手前で、慌てて降車ボタンを押した。
後方50メートルくらいのところに工事中の駅舎が見えた。
駅舎に入ってみると人影もなくガランとしている。
改札口を通り、ホームに出てみた。
ここが終点ではないと直ぐにわかった、この先の行き先表示がなされている。
「てだこ浦西」とあった。
終着駅は「てだこ浦西」かと初めて終点駅名を知る。。
バスを降りたとき、見上げるモノレールはトンネルに入り地下へ潜っていた。
車両基地へでも行くのかと思ったが駅があるのだ。
モノレールは、概ね、8分間隔で運行している。
乗り込むと直ぐにトンネルに入った。
終点に降りたが、ここも構内は人影がない。
出口の改札の窓口で駅周辺の地図をもらったが、位置関係は掴めなかった。
駅の前には新しい道ができていた。
右手に行けば坂の上に当たる。
位置関係が確認できるかと思ったが、陽も差し始めたので諦めた。
駅構内周辺を周ってみた。
初めてスマホで撮影したが、動画になっていたり、ボケたりで散々だった。
どうにかなるだろうと思う写真が、これらが全てである。
降り立った所。駅舎は左奥の透明のドーム状の屋根。
まだあちこちで工事中だった。
30分も居たろうか、見るもの何もなし、帰ることにした。
首里方面。トンネルの右手の大きな建物が3,000台を収容するという駐車場。
社内風景。女性がひとり乗ってきた。これで乗車人員は2名。
ー写真はクリックで拡大ー
帰りは「古島駅」まで乗り、バスで帰宅した。
首里駅から4駅延伸したことになる。
路線は4km延長され、17kmとなった。
那覇空港~てだこ浦西駅間の所要時間は37分。
浦西から車で行けば、夜間でも小一時間かかるだろう。
昼間だと2時間以上もかかることがあり、渋滞のため、時間の予測もたてられない、
朝夕のラッシュ時は楽になる。
始発は「てだこ浦西駅」5:39発、「那覇空港駅」6:00発。
終電は両駅とも23:30発だ。
現在2両編成であるが、3両編成になる予定。
観光客には「浦添城址」、「浦添大運動公園」、「美術館」そして近年話題になっている「前田高地」などに行くには便利になった。
浦添市以北の人たちや、本島北部方面への観光をする人たちには便利になるだろう。
そうした将来を見越してのモノレール終点駅周辺の開発も進められている。
来年春には「スイカ」も道入される予定だ。
駅周辺の開発後がたのしみである。
<余録>・・・沖縄にも戦前は鉄道も路面電車もあった・・・
戦前沖縄にも鉄道もあったし、那覇市には路面電車も走っていた。
それらは、沖縄戦で破壊され、長い米軍軍政下のもと復旧されることはなかった。
鉄道は那覇市を起点として、与那原線、糸満線、嘉手納線の3線があった。
鉄道建設の期待は高かったが、資金難などから計画は実現しなかった、
1914年(大正3年)12月に「沖縄県営鉄道」として、先ず、与那原線が開業する。
「沖縄県営鉄道」は鉄道省の呼称で、沖縄県は「沖縄県軽便鉄道」とした。
1917年(大正6年)以降、「沖縄県鉄道」と統一した。(しかし県民は現在でも「ケービン」「ケイビン」と呼ぶ)
1922年3月(大正11年)に嘉手納線、1923年7月(大正12年)には糸満線が開業した。
バス事業との競合が激しく、ディーゼルカーを導入するなどして対抗したらしい。
1944年7月(昭和19年)、太平洋戦争激化で軍用鉄道となり、通常ダイヤによる運行は終了した。
1945年3月(昭和20年)、戦争の激化で運行は中止し、その後の米軍の上陸などで鉄道施設は破壊された。(この項、Wikipediaに詳しい)
現在も軽便鉄道が沖縄で動いている。
ネオパーク・オキナワの園内を走る軽便鉄道だ。
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