3月17日。太陽が未だ昇らず、東の空が白み始めた頃に起き出した。
東の空は明るが、前田高地の上に昇るからここは未だ暗い。
昨夜は夕食を友人とともにしたので帰宅が遅かった。
眠気を吹き飛ばすように布団を蹴り飛ばして起き上がる。
手慰みに植えてあるベランダの数鉢に水を遣らねばならなかった。
プランターボックスのれんげ草に薄いピンクの花が2輪咲いていた。
一昨年、Amazonから種子を取り寄せて寒くなる前の10月下旬に種を蒔いた。
葉はプランターを覆い尽くすほどに育ったが、2,3輪咲いただけで枯れた。
今年は2ヶ月ほど遅くらせ、寒さを感じる12月下旬に種を蒔いてみた。
今朝みてみると、更に2輪みつけた。
れんげ草には思い出がある。
母に手を引かれ、母の実家に行く途中の峠の手前にある段々畑一面にれんげ草が咲くところがあった。
れんげ草の中に飛び込んで、はしゃぎまわった。
それから、少し進むと峠には冷たい清水が湧き出ていた。
手に汲んでひと飲みし、火照った顔に当てると冷たかった。
木々が影を落とす峠を上り切ると、明るい大地が広がり、祖母の暮らす村があった。
祖母は寝たり起きたりであったが、、真っ先に祖母の寝床に潜り込んだものだった。
3月17日11時。「お茶でもどう?」と、昨年秋、円満退職した幸司君から電話が入った。
この二、三日、何かと時間に追われる気忙しい日が続いた後だったので快諾した。
偶然みつけた彼のお気に入りの喫茶店に入り、軽い軽食で昼食を済ませ、よもやま話で楽しく過ごした・
「ちょっと、読谷(ヨミタン)までドライブしませんか」と珍しく誘ってきた。
「行こう!」断る言われなど全く無い。
国道58号線から5,6百メートル入った海岸である。
年に2,3回はふと立ち寄っていた海岸である。
彼もこの海岸が好きで、よく立ち寄るという。
嘉手納町の海岸線に出た。
この日は雲ひとつない快晴だった。
暑かった。
海岸線に出ると水平線がはるか彼方まで拡がっていた。
岩礁には小魚が群れている。
右端には米軍関係の家族だろう5,6人が浜遊びに興じていた。
あの岬の向こうが渡具知海岸だろう。
その遥か向こうの島影が残波岬だろうか。
行ってみることにした。
トリイ基地を過ぎて、「この浜に行きましょう」とレストランらしき建物の駐車場に車を入れた。
レストランは休業中のようであった。このコロナ騒ぎでは観光客はあてに出来ないだろう。
人気のない閑散としたレストランの白いテーブル席が数席、午後の陽を受けていた。
海岸線に出ると広大な景色が拡がった。
遠くまで続く広大な浜にはレストランと、遊び疲れを癒やすためだろう幾棟ものバンガロー風の屋根だけの建物があった。
バンガロー風の屋根だけの日陰には、ひと組のカップルがパソコンとにらめっこしていた。
浜辺では三々五々、若いカップルやグループ、家族連れが磯遊びを楽しんでいた。
70数年前、夥しい連合軍の艦船がこの海を覆い尽くし、
朝未だ明けやらぬ空から、平和な眠りから覚めんとする読谷山村(現読谷村)に向かって、
砲弾を雨あられと降り注いだのだ。
同じ風景の中には、そんな残虐で、非情な影はひとかけらもない。
帰路は国道58号線に出て南下する。
町並みはすっかり昔の面影もなく変貌していた。
嘉手納ロータリーはなくなり、区画整理もされていた。
昔の面影と寸分違わぬ嘉手納基地を通り過ぎると北谷(チャタン)に入る。
昔、沖縄に住んでいた友に語るために、助手席から逆光を物ともせずに撮ってみる。
一枚だけ、辛うじて使えるものがあったが、これじゃ伝えることは出来ぬだろうと苦笑した。
数年前まで、左側は金網だったが、もう町が出来つつあった。
きょう行ったところは大東亜戦争時、連合軍が上陸した地点である。
沖縄戦はこの海岸から始まったのだ。
昭和45年4月1日午前5時半。
沖縄上陸作戦は海上を埋め尽くした米軍艦船の艦砲射撃で始まった。
午前8時半、読谷村渡具知海岸に上陸。
日本軍の抵抗はなかったtいう。
古老の話によると海上は艦船で真っ黒になり、艦砲射撃の砲弾の光が空を覆い尽くしたという。
嘉手納の海岸から残波岬に至る海岸線がそうであったろうと想像した。
地図を探している時に、上陸時の記録動画を、偶然、見つけた。(ここをクリック)
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東の空は明るが、前田高地の上に昇るからここは未だ暗い。
昨夜は夕食を友人とともにしたので帰宅が遅かった。
眠気を吹き飛ばすように布団を蹴り飛ばして起き上がる。
手慰みに植えてあるベランダの数鉢に水を遣らねばならなかった。
プランターボックスのれんげ草に薄いピンクの花が2輪咲いていた。
一昨年、Amazonから種子を取り寄せて寒くなる前の10月下旬に種を蒔いた。
葉はプランターを覆い尽くすほどに育ったが、2,3輪咲いただけで枯れた。
今年は2ヶ月ほど遅くらせ、寒さを感じる12月下旬に種を蒔いてみた。
今朝みてみると、更に2輪みつけた。
れんげ草には思い出がある。
母に手を引かれ、母の実家に行く途中の峠の手前にある段々畑一面にれんげ草が咲くところがあった。
れんげ草の中に飛び込んで、はしゃぎまわった。
それから、少し進むと峠には冷たい清水が湧き出ていた。
手に汲んでひと飲みし、火照った顔に当てると冷たかった。
木々が影を落とす峠を上り切ると、明るい大地が広がり、祖母の暮らす村があった。
祖母は寝たり起きたりであったが、、真っ先に祖母の寝床に潜り込んだものだった。
クリックで画像は拡大
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3月17日11時。「お茶でもどう?」と、昨年秋、円満退職した幸司君から電話が入った。
この二、三日、何かと時間に追われる気忙しい日が続いた後だったので快諾した。
偶然みつけた彼のお気に入りの喫茶店に入り、軽い軽食で昼食を済ませ、よもやま話で楽しく過ごした・
「ちょっと、読谷(ヨミタン)までドライブしませんか」と珍しく誘ってきた。
「行こう!」断る言われなど全く無い。
国道58号線から5,6百メートル入った海岸である。
年に2,3回はふと立ち寄っていた海岸である。
彼もこの海岸が好きで、よく立ち寄るという。
嘉手納町の海岸線に出た。
この日は雲ひとつない快晴だった。
暑かった。
海岸線に出ると水平線がはるか彼方まで拡がっていた。
岩礁には小魚が群れている。
右端には米軍関係の家族だろう5,6人が浜遊びに興じていた。
あの岬の向こうが渡具知海岸だろう。
その遥か向こうの島影が残波岬だろうか。
行ってみることにした。
トリイ基地を過ぎて、「この浜に行きましょう」とレストランらしき建物の駐車場に車を入れた。
レストランは休業中のようであった。このコロナ騒ぎでは観光客はあてに出来ないだろう。
人気のない閑散としたレストランの白いテーブル席が数席、午後の陽を受けていた。
海岸線に出ると広大な景色が拡がった。
遠くまで続く広大な浜にはレストランと、遊び疲れを癒やすためだろう幾棟ものバンガロー風の屋根だけの建物があった。
バンガロー風の屋根だけの日陰には、ひと組のカップルがパソコンとにらめっこしていた。
浜辺では三々五々、若いカップルやグループ、家族連れが磯遊びを楽しんでいた。
70数年前、夥しい連合軍の艦船がこの海を覆い尽くし、
朝未だ明けやらぬ空から、平和な眠りから覚めんとする読谷山村(現読谷村)に向かって、
砲弾を雨あられと降り注いだのだ。
同じ風景の中には、そんな残虐で、非情な影はひとかけらもない。
帰路は国道58号線に出て南下する。
町並みはすっかり昔の面影もなく変貌していた。
嘉手納ロータリーはなくなり、区画整理もされていた。
昔の面影と寸分違わぬ嘉手納基地を通り過ぎると北谷(チャタン)に入る。
昔、沖縄に住んでいた友に語るために、助手席から逆光を物ともせずに撮ってみる。
一枚だけ、辛うじて使えるものがあったが、これじゃ伝えることは出来ぬだろうと苦笑した。
数年前まで、左側は金網だったが、もう町が出来つつあった。
きょう行ったところは大東亜戦争時、連合軍が上陸した地点である。
沖縄戦はこの海岸から始まったのだ。
昭和45年4月1日午前5時半。
沖縄上陸作戦は海上を埋め尽くした米軍艦船の艦砲射撃で始まった。
午前8時半、読谷村渡具知海岸に上陸。
日本軍の抵抗はなかったtいう。
古老の話によると海上は艦船で真っ黒になり、艦砲射撃の砲弾の光が空を覆い尽くしたという。
嘉手納の海岸から残波岬に至る海岸線がそうであったろうと想像した。
地図を探している時に、上陸時の記録動画を、偶然、見つけた。(ここをクリック)
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