goo

夜空を見上げる

2010年08月18日 | もやもや日記







ゆうべ、バス酔いに若干苦しみながらもどうにか郷里へ帰りつきました。やっぱバスの中で Nintendo-DS をやったのがまずかったか(ちなみに『ゼルダの伝説 大地の汽笛』)。富山駅前に着いたのが午後9時半。富山駅はしばらく見ないうちにずいぶんと様変わりしていてビックリ。駅舎が移動しているじゃないか。なにやら「北陸新幹線が云々」と注意書きがあったので、いよいよ新幹線が開通するのだろうか。駅前で迎えを待ちながらうろうろする。

用事があったから、といってわざわざ富山まで迎えに来てくれた両親によると、外気は27℃くらいあるという話でしたが、体感ではかなり涼しい。田舎はやっぱり涼しいですよ。というか、都市部のあの暑さは何なんだ、いったい。


バスを降りるときから傾いていた欠けた月が、自動車で移動中にさらに傾く。あと数時間で沈みそう。車中では、両親から「こないだ『インセプション』を観てきた」という話をききました。父は開始10分で寝てしまい、そのまま起きることがなかったそうですが「内容が難しすぎてよく寝れた。千円を贅沢に使った(←ふたりとも60歳以上なので、いつでも千円で映画を見られるらしい)」というようなことを言うと、母は「10分しか観ないで難しいとか分からけ? でもたしかに難しかったね。お母さんも全然分からんかった」。最近の映画は難しいらしいです。


さて、田舎の夜は暗いので、星がよく見えます。私の好きな魚津の海岸線を走っているとき、海の上に星が輝くのを助手席から首を曲げて見上げていたら、母が「そういえば、このあいだの夜は星がすごかった! パアァァァって、ワアァァァって(意訳)」と言っていました。
途中で寄り道をしたりしていたので、家に着いたのはもう12時ちょっと前だったのですが、車を降りて空を見上げると、なるほど真上はいっそう星がすごい。私がここに住んでいた頃から星はよく見えていたと思うものの、でもかつてないほどによく見える。見えすぎ。どうしてこんなに見えるんだろう。

「わあ、今日もよく見えるね。雲が全然ないってことなん? でも、前はもっとパアァァァって…ワアァァァってなっとったよ! お母さん、びっくりしたよ!」

ということなので、私もそれが見られたらよかったのにと思いつつも、この夜の星空にも十分満足できました。すごい星空。星が、星が…すごい数の星が。



星は、地平線から30度ほどのところに2つ3つしか見えないという強いイメージを抱くようになって久しい私ですが、帰省するたびに「すごい星空」を見上げては、そうだ星はほんとうはいつもこんなにたくさん輝いているのだという事実に気がつくのでした。
星を眺めながら寝ようと思って窓を開けてしばらく見つめていました。それで思い出したのですが、いつだったか若かった頃、やはりもっとたくさんの星を全方向から眺めたいと思って、真夜中にこっそりベランダを乗り越えて屋根の上に上がったことがあります。屋根の一番高いところではなかったので全方向というわけにはいきませんでしたが、窓から眺めるよりはずっと広い空を見ることができました。

ゆうべは月はもう沈んでしまったようでしたが、星を見たくて屋根に上った私は、その頃、月もまたよく見上げたものでした。私は昼間よりも夜の方が好きです。月の光が照らす世界には、物の形とその影しかないということに、いつかの私がどれほど癒されたかしれません。ある月の明るい真夜中に、私はこらえきれずに家を抜け出しました。集落のすぐ外にある田んぼの真ん中で、丸く明るい月を見上げたことがあります。ものすごく明るい夜で、ずっと遠くまで見通すことができました。家々や木々の形がくっきりと影の中に浮かんで見えます。何もない農道の上に、私もまたくっきりと影を落としていました。それを見たときのほっとするような、悲しいような気持ちを思い出します。私は月の光を遮って影を作ってしまうほどに確固たる存在でした。月の光を透過できたらよかったのに。けれども私と影とはその時、どうにかすれば馴染めそうな感じでしたね。色がないということに、当時の私はものすごくほっとした覚えがあります。


そんなおかしな青年時代を思い出しました。まあ、いまでもおかしいところはあまり変わってないかな。いや、でも都市部の日常のなかでは滅多にこんなことを思わないです。空が狭く夜も明るい都市部だからなのか、それとも「日常」のなかだからなのかは分かりませんが。今の私は夜のことも月や星のことも以前ほどには思わなくなってきていますが、夜が明るくても、私が見上げなくても、月も星もやっぱりちゃんとあるんだなぁ。という当たり前の結論に至って眠りにつきました。田舎の夜は静かでいい。


いまのうちに、すごい夜空を堪能しておきたいと思います。









goo | コメント ( 2 ) | トラックバック ( 0 )

ちょっと帰省してくる

2010年08月17日 | もやもや日記

どこのものだかまったく不明の小さな鍵。
人に見えて仕方がない。


***

大きな空っぽの頭を揺すってぼくは
まったく立ち尽くしてしまった。

「鍵をなくしてしまったぞ…!」







暑い!
一瞬だけ熱帯夜もおさまったかにみえましたが、まだまだ暑くて寝られません。暑い~。お盆も過ぎたというのにこの暑さ。やれやれ、いつまで続くのでしょうかね。


さて、お盆は過ぎてしまいましたが、私はこれから田舎に帰省するところです。今回は1週間ほど帰る予定。向こうも(富山)なかなか暑そうであります。夜は涼しいことを期待!
今回も3冊の本を携帯していくので、1冊でも読めるといいなぁ。


というわけで、次回は田舎から更新したいと思います~。海でも見に行こうかな(すぐ目の前だし)。





goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

『以下略』

2010年08月16日 | 読書日記ー漫画

平野耕太 ソフトバンク・クリエイティブ



《内容》
ゲーマガで好評連載中の「以下略」が、ファン待望の単行本化!
一見普通のゲームショップ「ファンタジィ」。ここのオーナーたちはゲームオタかつアニメオタかつマンガオタ。店番やらずにダベって終了! 面白ければ店放置! 新作ゲームのフェアやれば店破壊! さらには人間として終わっているダメ店長に加え、ダメなヤクザやチンピラまで溜まりだす始末。そんなダメオタたちのダメな日常を平野耕太が描く! ディープな平野ギャグの真骨頂、ここに極まり!! メガネもあるよ!(Amazon内容紹介より)

《この一文》

“ 女郎になってくれないか ”



『HELLSING』や『ドリフターズ』の平野耕太さんのギャグ漫画。「ゲーマガ」という雑誌にて連載されているそうです。『HELLSING』ですっかり平野信者と化したK氏が買って来てくれました。


…なんていうか、何と言ったらいいか分からない漫画です。ネタが深すぎてついていけない; でも、ネタ元が分かるものについては非常に面白く感じたので、ゲームや漫画についての知識が深ければ深いほどに楽しめそうですね。

私はチンピラを監禁してオタ化させようという回が面白かったです。それから、店長の本町さんがあまりに美形なので、本町さん見たさに私は4回も読み返しました。でも、本町さんは大変な美形なのですが、中身がドクズなので、美形なコマはほんの数カ所しかないのが惜しまれます。

  本町さん

これはまた別のところでも一度書きたいと思っていることなのですが、平野耕太さんの描くキャラクターには異常な色気があるんですね。異常としか言いようのない、独特の存在感が放たれています。思わずまじまじと眺めてしまうような迫力と美しさがあるのでした。
それと同時に、シリアスからギャグへの落差がものすごくて、ギャグ絵の崩れっぷりと内容の飛ばしっぷりもまた、この人の稀有な才能がきらめいているところかと思われます。とにかく勢いが凄い。何だか分からないけど、ものすごく好きになってしまうような引力がありますね、この人には。



というわけで、私の今の経験値では全然『以下略』についていっていませんが、それでも十分に面白い一冊でした。平野さんの情報収集能力、処理能力はいったいどうなっているんだろう?? と感心させられる内容です。何事も広く深く楽しもうとしている人というのは、やはり見ていて清々しいですよね!!



 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

『卒業生』限定小冊子!

2010年08月14日 | 読書日記ー漫画

応募者全員プレゼントだった小冊子!
こんなの申し込んだの、生まれて初めて(^_^)





今年の春先くらいに読んで激ハマりした中村明日美子さんの『同級生』『卒業生』という名作BLシリーズがありまして、その『卒業生』の単行本についていた応募券で申し込むと全員に小冊子が当たるというので、私は張り切って申し込んでいたわけですよ。それが3月くらいの話。


で、小冊子の発送が7月上旬ということだったのですが、当時の私は引っ越しやら台湾旅行やら夏風邪こじらせるやらで、申し込んだ時点では横浜に住んでいたのですが、発送時には大阪へ来てしまっていて、その住所変更のことはいつも念頭にありながらも放置していたのでした。
しかし、郵送だったら転送届を出しておいたから大丈夫かな~、と思っていたら、やっぱり発送はメール便でした。ですよねー。こりゃまずい。これは届かない。もう7月も下旬だし、届かないわけだ。と焦ってその頃になってやっと出版社のHPを見に行ったら、どうやらメール便の住所変更手続きも可能であったらしい。オウ……。愚かな私は思い切りその欄(「Q&A」のところ)を見逃していたのでありました。

そこで、ものすごく気が引けたのですが、せっかく申し込んだのに(一応料金も払ったことだし)手に入れられないのは残念すぎると思い、編集部に直接連絡したのです。ああ、なんという迷惑な; しかし、編集部の方は快く発送状況を調べてくださり(未着で返送扱いになっていた)、さらに再発送を引受けてくださいました。もう土下座したい気分でした! お忙しいところに、ほんとうにスミマセン~~~!! でも、ありがとうございましたーー!




という長い前置きがありまして、ようやく届いた小冊子!
感激もひとしおです。内容もほのぼのと素晴らしく、私のしばらく収まっていた漫画読みたい病は一気に悪化してしまいました。明日美子さんの『卒業生』番外編のショートストーリー(死ぬほど萌えました)だけでなく、ゲストのおまけ漫画なども収録されていて可愛かったです。特に、私が最近これまたハマっている雁須磨子さんによるパロディなんかは非常に楽しいものでした。良かった……! 申し込んで良かった……!!

ところで、残念なことに、中村明日美子さんは活動を休止なさっているようですね。なにやら激務によるお疲れが原因(?)らしいので、休養ののちには、ぜひとも復活していただきたいものです。もっと読みたい!




goo | コメント ( 4 ) | トラックバック ( 0 )

ネコの箸置き

2010年08月13日 | もやもや日記

仲良し ネコの箸置き。







更新しなきゃ、更新しなきゃと思いつつ、まったく書くことが浮ばないので、小ネタです。


画像は、台湾で買ってきたネコの箸置き1セット。
可愛い(´∀`*)可愛い!
なんていうか、これを買うために台湾へ行ったようなものですよ、はい。

ご覧の通り色違いで黒と飴色の2種類がありますが、水牛の角とかそういうもので出来ているらしいです。曲線が美しいぜ! 顔がこちらに向いているのが、もう可愛くてたまりません。あんまり可愛いので、私は常にテーブルの上にこれを乗せておき、ネコたちの顔をモニター方向へ向けてやり、一緒に映画やドラマを鑑賞したりしています(←いろいろと重症)。もちろん本来の箸置きとしても活用しておりますよ。ウヘへ……



そういうわけで、相変わらず粗食の毎日ですが、ネコ箸置きのおかげで食卓は賑わっています(^o^)




goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

映画『ハゲタカ』

2010年08月11日 | 映像

2009年


《あらすじ》
あれから4年……世界金融危機前夜。
混迷する現代日本に、赤いハゲタカが舞い降りた!

かつて瀕死の日本企業を次々と買い叩きながらも、日本のマーケットに絶望した鷲津(大森南朋)。海外生活を送っていた彼の元へ、大手自動車メーカー「アカマ自動車」を、中国系巨大ファンドによる買収危機から救ってほしいと、かつての盟友・芝野(柴田恭兵)が頼みに訪れる。名門「アカマ」の前に突然現われたのは、赤いハゲタカこと劉一華(玉山鉄二)。巨額の資金を背景に鷲津を圧倒し続ける劉。彼の本当の狙いとは何か? 世界金融危機前夜に幕を開けたハゲタカVS赤いハゲタカの壮絶なる買収戦争。「日本が中国に買い叩かれる!?」という未曾有の危機に、鷲津はどう立ち向かうのか?


《この一言》

“ 地獄だね、日本は。なまぬるい地獄だ。”







日本はいつからこんな修羅の国になってしまったんだーーッ!
アアーーッ!



さて、土曜ドラマの『ハゲタカ』があまりに面白かったので、劇場版のほうも観てみました。

私の正直な感想としては、やはりドラマ版の方が面白かったかなーというところです。映画の方は新しい状況と登場人物が出てくるにもかかわらず、ドラマのシナリオをちょっとだけ構造を変えて焼き直してみた、というふうにしか感じられませんでした。そこは残念。というか、芝野さんにもっと活躍してほしかった!!!(ToT)今回も心を打つような、ものすごく良いことは言ってたけど! もうちょっと!!

まあ、2時間ほどでまとめなければならないという制約がありますから、ある程度急ぎ足で断片的になってしまうのは仕方がないのかもしれません。

しかし、じっくり観ればもちろん映画版の方にも興味深いところは多々あります。今回も問題提起が多くなされていますしね。後味のスッキリしなさ加減は健在です。優れた社会派ドラマといえましょう。今回は中国という国の不可思議さから生じるサスペンス要素も加わったり、その中華系ハゲタカを演じる玉山くんは恐ろしく格好いいし、見所もたくさんありましたしね。面白かったです。

でもやっぱ、劉さんのあの最後の場面はナイよなー。いつから日本はあんな修羅の国になってしまったんだ。たしかに物騒なニュースは飽きるほど耳に飛び込んではきますが……。ただ、「ああなったら、おしまいだ」というメッセージとしては成功している場面だったのかもしれません。金(カネ)さえ手に入ればいい。金さえ持っていれば、あとは何でもいい。手っ取り早く金が手に入るなら、何だってやる――。金に対して、人間はどのように振る舞うべきかを問われますね。恐ろしいですね。


 誰かが言った。
 人生の悲劇はふたつしかない。
 ひとつは、金のない悲劇。
 そしてもうひとつは、金のある悲劇。


ドラマ版、映画版を通して、一連のドラマは、こんな言葉から始まる素晴らしい作品でした。
「金だけがすべてではない!」なんていう人もいるかもしれませんが、「金がなければ話にならない」という現実が、ここに、確固としてあらわれてしまっている以上、人は金とどう付き合うかを考えていかなければならないのかもしれません。金なしで、かつ人間らしく生きていこうとするには、ひとりの人間は今はまだあまりにも弱すぎるでしょうから(人間らしく、というのをどのように考えるかもまた重大な問題ですが)。
同時に、金というものに、血と肉を、魂を、夢と希望を、金にそういうものを込めることは可能なのか。もし可能なら、もうすこしこの社会は多くの人にとって過ごしやすいものになるだろうか。


そういうことについて考えさせられるドラマでした。まだまだ考えたいことはありますが、とりあえず私は満足です!!
たまにはこういう骨のあるドラマもいいもんですね。




goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

高速かくれんぼ

2010年08月09日 | もやもや日記





ときどきどこか近所で、小さい子たちが遊ぶ声が聞こえてくるのですが、今日の彼らは「かくれんぼ」に興じているようです。

だが、そのスピードがものすごく速い!!

「もーいーかーい?」
「まーだだよーー」
「もーいーよー」

のやり取りが、超高速。隠れるヒマなくね?(/o\;)

それでも、どうにか遊びは成立しているらしく、見つかって「グヘヘヘ!」と笑う声が聞こえてきたりすると、とても和むのでありました。


ついでに昨日の夕方には、同じ子たちかどうかは分りませんが、

「バイバーイ!」

「バイバーイ!」

というお別れの挨拶をエンドレスかつハイテンションで叫び合っておりました。



暑くても、元気いっぱい!
「かくれんぼ」の連中は、もうどこかへ行っちまった!

うーむ。私も頭が痛いとか言ってる場合じゃないぜ!!



goo | コメント ( 2 ) | トラックバック ( 0 )

『サマーウォーズ』2度目!

2010年08月07日 | 映像(アニメーション)







『サマーウォーズ』を観ました。2度目!
しかし、金曜ロードショーで放送されたものは、時間の制約上いくつかの場面がばっさりとカットされてしまっていたのが残念でしたねー。高校野球の中継の部分がなかったのはさみしい! ほかにもいろいろ。でもやっぱりこの映画は面白いし、楽しいですね。明るい。優しい。たくましい。



最初に観た時も強く感じ、2度目に観た時もやっぱり強く感じられたことには、この映画には「人間関係」に対する強烈な肯定があるということです。ものすごく肯定的です。また、「人間の生み出す技術」に対する肯定ということもあります。ものすごく肯定的なんです。そこが爽快です。


「人間関係」と「技術」のふたつのことは、どちらも古いものと新しいものとを対比させて描かれているようです。

まず、人間関係について。
ここには、大おばあちゃんの誕生会のために集合した長野の旧家の大家族が登場します。大おばあちゃんを中心に固く結びつき、家族の一員でありながらその中になじみきれない者(カズマや侘助)を抱え込みながらも確固として存在している大家族という、特に田舎ではよく見られるような(少なくともかつては見られたような)古くからの人間関係が示されます。

それに対比されるものとして、夏希の偽装恋人として連れられて初めて陣内家の面々と出会う者(健二くん)が登場します。健二くんは都会に生まれ育ち、父は単身赴任、母も留守がちというちょっと孤独な少年として描かれています。帰省するべき田舎もなければ、大人数でご飯を食べたこともないという。

彼らは大おばあちゃんの栄さんをきっかけとしてまず出会い、栄さんの死を通して新しく繋がり直さなければならない局面に立たされることになります。


また一方で、社会の中でそれぞれの人がどのように繋がっていけばよいのかという問題にも直面させられます。それが新しい技術がもたらした、新しい社会であるところの【OZ(オズ)】。

この物語の社会では、【OZ】と呼ばれるインターネット上の仮想空間で、アバターという実名と実体を持たない仮の人格によって、世界中の人と交流を持とうとする新しい社会が構築されつつある様子も描かれています。【OZ】は社会活動を非常に円滑にしてくれる便利なサービスでもあるために、栄さんのようなお年寄りに至るまで何かしらそのテクノロジーの恩恵を受けていて、人々は一種の依存状態におかれています。

この新しい技術に対比されるのが、栄さんの手元にある膨大な手紙、固定電話などの通信手段です。【OZ】の暴走で社会が麻痺状態に陥ったときに、栄さんが生涯かけて積み上げてきた肉筆の手紙による繋がり、電話による声の力が生きてきます。
しかし、だからといって新しい技術の方が否定されるわけではありません。肉筆の手紙も、分厚い電話帳も栄さん世代の古いものではあっても、かつては新しい技術として登場したものであり、栄さんの活躍はその世代の人々が長い年月をかけてそれを使いこなしてきたことを思わせます。




古いものから新しいものへ。
古い人間関係から新しい人間関係へ。
古い技術から新しい技術へ。

そのたびごとに、人はどうやって移行してきたのか、どうやって対応してきたのかということを考えさせられます。健二と夏希にしろ、侘助と栄さんにしろ、血の繋がりによって保証されていない人と人が、はじめは小指一本をおそるおそる握ろうとするところから始まって、誤解したり失敗したりしながら、それでもちゃんと手を繋いでみようとする。最初に一人を好きになって、そのうちその人の向こう側にいる大勢の人々とも繋がっていこうとする。

あるいは、【OZ】という空間で、小指という実体を持たないままで、どうやって他人と接触していったらいいのか。

それを可能にしようとして、もっと速くもっと便利にもっと遠くの人と人の間を行き来しようとして生み出される技術は、時にはその力のあまりの強大さに恐怖を感じたりもするけれど、やっぱり人間に多大な可能性をもたらしてくれそうなことには変わりはないのだから、恐れるだけでなく信じようじゃないか、もっとうまく使えるようになろうじゃないかという。そういう意思の美しさに、私はどうしようもなく打たれてしまうのでした。


夏の明け方、栄さんは静かに息を引き取ります。今日もいつもと変わらないような青い空と入道雲。朝顔。ほんとうは常に変わりつづけているのだということを知ってちょっとうなだれてしまう、広い広い陣内家の縁側に、ぽつんぽつんと佇む一家の姿が映し出されます。青い空も、雲も、朝顔も毎年のようにそこにあるから、ただ繰り返されているだけで、同じ空もなく、同じ雲もなく、同じ朝顔は来年は咲かないんだということも、つい忘れてしまう。そのことを思い出した時の、少しの寂しさがここの場面にはあります。

しかし、その気づきと同時に、栄さんの死はごく自然に受け入れられていくようです。長く生きた人がその生涯を終え、また新しい人が生まれてこようとしている。栄さんを中心に繋がっていた関係が一度ほどけ、また新しく別な風に繋がろうとしはじめている。そのちょうど境界にある情景を、静かな画面でとても美しく表現してあります。私はこの場面が好きだなぁ。

あと、最後で栄さんの写真が朝顔で囲まれているところもよいです。長い年月をかけて積み上げられてきた栄さんという人間の美しさと、毎年新しく芽を吹いては夏に変わらぬ美しい花をつける朝顔と。


古いものから新しいものへ移ろうとするときに持っていくものを。変わり続けるもののなかで変わらずに繰り返されるものを。暖かくて優しいもののことを。そういうことをつくづくと考えさせられる映画です。実に、実に美しい物語。



と、今回はやや真剣に考察してしまいましたが、本当は愛情や愛着ということについてももうちょっと考えたかった。愛情はどういうときに発生するのか、そしてそれはどういうものをもたらしてくれるのかとか、そういうことを考えたかったです。特に、栄さんと侘助の関係性については一考の価値があると思います。栄さんと陣内家の面々の間、栄さんの夫の妾の子である侘助と陣内家の面々との間には、血の繋がりがあります。ところが、栄さんと侘助の間にはそれがない。それなのに、二人の間には、たしかな家族の絆があるのです。ここについてもうちょっと考えてみたかった。でも暑くてなぁ……



まあ、この映画は、あれこれ考えなくても、もう無茶なくらいに盛り上がって笑えて面白い作品です。イカ釣り漁船が池に! 鯉が!! の場面には今回も爆笑させられました。あと隣の部屋から熱風! とか。

登場人物が多いので、ひとりひとりについてそれほど深く掘り下げてはありませんが、誰がどういうアバターを使っているのかなどの細かい点に着目していくと、かなり愛着が湧きますね。私はとくに、イカのおじさんと、自衛隊のリイチさんが好きです。リイチさんはクールで謎めいていて、いちいち格好よくて素敵なんです。でも、なんすか、あのアバターは!(緑の、直立したアザラシみたいな;頭にはアンテナ…;^_^)

というわけで、『サマーウォーズ』は、私のものすごく好きな映画のひとつなのでありました。
2度目もやっぱり、おーもーしーろいーーー!!



 関連記事:『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』






goo | コメント ( 2 ) | トラックバック ( 0 )

砂のお城をつくるんだ

2010年08月06日 | もやもや日記

結晶の難しさよ……






実にどうでもよいことなのですが、ふらふらと迷い歩く私にも人生観というものがあるとするなら、そしてそれを具体的なイメージであらわそうとするならば、「砂の城」というのがぴったりくるような気がします。砂の城、風や波に押し流されてしまうもの。最初から押し流されることを期待して形作られる砂の城。私は人生をこんなふうにとらえているのかもしれません。

というわけで今日もなんとなく砂の城のことを思っていました。今日思いついたところでは、砂粒のなかからとりわけ透明な石英の粒を選り分けて、それで城を作ったなら、小さくてもどこか美しさを感じられるお城になりはしないか。傷だらけの砂粒で、しかし光の加減で時折少し輝くような。
そんなろくでもないことばかりを考えてお昼ご飯を食べ忘れてしまった金曜日。


ちなみに、私は四月生まれなのですが、四月の誕生石(というものがあるらしい)は「石英」です。石英の石言葉(というものもあるらしい)は、「完璧・冷静沈着・神秘的」。ついでに、もうひとつの四月の誕生石は「ダイヤモンド」。透明な石ばかりというわけです。

誕生石といい、誕生花(私の生まれ日は「睡蓮」:花言葉は「純潔」)といい、石や花の持つ言葉と私自身との間にどんな関わりがあるのか知りませんけれど、知らないところで、私と、ある美しい概念とが結びつけられているらしいことに励まされながら、ときどきはこんなふうに透き通った夢を見て楽しんでいます。

暑い昼下がりには頭がぼんやりするせいか、起きたままでもよく夢を見られる。
だがしかし、それは、脱・水・症・状―――では!
乾いてると、砂は積み上がらないんだぜ……







goo | コメント ( 2 ) | トラックバック ( 0 )

トルストイのための覚書

2010年08月05日 | 読書ー雑記

マックス・ヴェーバー著 尾高邦雄訳(岩波文庫)









マックス・ヴェーバー先生の『職業としての学問』に次のような一節があり、なるほどなーと思ったので(何が「なるほど」なのかはひとまずおくことにして)、メモっておこうと思います。



 しかし、何千年来西欧文明のうちに受けつがれてきたこの魔法からの解放過程、いいかえれば、学問がそれの肢体ともなり原動力ともなっている「進歩」というものは、はたしてなにか実際上あるいは技術上の意味以上の意味をもつであろうか。諸君は多分この問題が、レオ・トルストイの作品中でもっとも根本的に取り扱われていることを知っておられるであろう。トルストイは、かれ独特のやり方でこの問題に到達している。かれの頭を悩ました全問題は、結局、死とは意味ある現象であるかいなかという問いに帰着する。かれはこれに答えて、文明人にとっては――いなである、という。なぜかといえば、無限の「進歩」の一段階をかたちづくるにすぎない文明人の生活は、その本質上、終りというものをもちえないからである。つまり、文明人のばあいには、なんぴとの前途にもつねにさらなる進歩への段階が横たわっているからである。どんな人でも、死ぬまでに無限の高みにまで登りつめるというわけにはいかない。アブラハムだとか、また一般に古代の農夫たちだとかは、みな「年老いて生きるに飽(あ)いて」死んでいったのである。というのは、かれらはそれぞれ有機的に完結した人生を送ったからであり、またその晩年には人生がかれらにもたらしたものの意味のすべてを知りつくしていたからであり、かくてついにはもはやかれらが解きたいと思ういかなる人生の謎もなく、したがってこれに「飽きる」ことができたからである。しかるに、文明の絶えまない進歩のうちにある文明人は、その思想において、その知識において、またその問題において複雑かつ豊富となればなるほど、「生きることを厭(いと)う」ことはできても「生きることに飽く」ことはできなくなるのである。なぜなら、かれらは文明の生活がつぎつぎに生みだすもののごく小部分をのみ――しかもそれも根本的なものではなく、たんに一時的なものをのみ――そのつど素早くとらえているにすぎず、したがってかれらにとっては、死はまったく無意味な出来事でしかないからである。そして、それが無意味な出来事でしかないからして、その無意味な「進歩性」のゆえに死をも無意味ならしめている文明の生活そのものも、無意味とならざるをえないのである。――こうした思想は、トルストイの作品の基調をなすものとしてかれの後記の小説にはいたるところにみいだされる。





「死はまったく無意味な出来事でしかないからである。そして、それが無意味な出来事でしかないからして、その無意味な「進歩性」のゆえに死をも無意味ならしめている文明の生活そのものも、無意味とならざるをえない」という思想が、トルストイの後期作品の基調をなしているというのは、つまりあれでしょうか。

『トルストイ全集10後期作品集(下)』に収録されていた、たしか「祈り」というタイトルだったかと思うのですが、小さなまだ2、3歳くらいの男の子が死んでしまって、その母親と乳母とが悲しみの涙に暮れているのですが、泣きつかれて眠ってしまった母がその夢のなかで男の子が成長した姿を見るというもの。そこでは愛らしい男の子はすっかりその面影を失っており、酒場で飲んだくれる惨めな中年男となっているのでした。そして母親はひどくショックを受けて目覚める、という内容だったかとおぼろげに記憶しているのですが、記憶違いでしょうか(この作品のこの悲しいイメージは私の深いところに痛みとともに刻まれてしまっていて、道行く幼い人々を見るたびにこれが重なって、大層苦しい思いをする羽目に陥っています)。

本が手もとになくて確認できませんが、たしかにこの本で読んだという記憶はあります。同じ本に収録されている「コルネイ・ワシーリエフ」などもどうしたらよいのか分からないくらい重かった。その重さが何なのかはっきりとは分からなかったのですが、「無意味」ということが関わっている故のことだったのかもしれないですね。なるほどなー(なんとなく)。



ところで、ヴェーバー先生の『職業としての学問』は、何度読んでも私には理解しきれません。ところどころ「おっ!」と思う文章があっても、全体としてうまくとらえることができないのでした。ついでに『職業としての政治』についても同じような感じです。どうしてなんだろう……(/o\;) 





goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )