ゆうべ、バス酔いに若干苦しみながらもどうにか郷里へ帰りつきました。やっぱバスの中で Nintendo-DS をやったのがまずかったか(ちなみに『ゼルダの伝説 大地の汽笛』)。富山駅前に着いたのが午後9時半。富山駅はしばらく見ないうちにずいぶんと様変わりしていてビックリ。駅舎が移動しているじゃないか。なにやら「北陸新幹線が云々」と注意書きがあったので、いよいよ新幹線が開通するのだろうか。駅前で迎えを待ちながらうろうろする。
用事があったから、といってわざわざ富山まで迎えに来てくれた両親によると、外気は27℃くらいあるという話でしたが、体感ではかなり涼しい。田舎はやっぱり涼しいですよ。というか、都市部のあの暑さは何なんだ、いったい。
バスを降りるときから傾いていた欠けた月が、自動車で移動中にさらに傾く。あと数時間で沈みそう。車中では、両親から「こないだ『インセプション』を観てきた」という話をききました。父は開始10分で寝てしまい、そのまま起きることがなかったそうですが「内容が難しすぎてよく寝れた。千円を贅沢に使った(←ふたりとも60歳以上なので、いつでも千円で映画を見られるらしい)」というようなことを言うと、母は「10分しか観ないで難しいとか分からけ? でもたしかに難しかったね。お母さんも全然分からんかった」。最近の映画は難しいらしいです。
さて、田舎の夜は暗いので、星がよく見えます。私の好きな魚津の海岸線を走っているとき、海の上に星が輝くのを助手席から首を曲げて見上げていたら、母が「そういえば、このあいだの夜は星がすごかった! パアァァァって、ワアァァァって(意訳)」と言っていました。
途中で寄り道をしたりしていたので、家に着いたのはもう12時ちょっと前だったのですが、車を降りて空を見上げると、なるほど真上はいっそう星がすごい。私がここに住んでいた頃から星はよく見えていたと思うものの、でもかつてないほどによく見える。見えすぎ。どうしてこんなに見えるんだろう。
「わあ、今日もよく見えるね。雲が全然ないってことなん? でも、前はもっとパアァァァって…ワアァァァってなっとったよ! お母さん、びっくりしたよ!」
ということなので、私もそれが見られたらよかったのにと思いつつも、この夜の星空にも十分満足できました。すごい星空。星が、星が…すごい数の星が。
星は、地平線から30度ほどのところに2つ3つしか見えないという強いイメージを抱くようになって久しい私ですが、帰省するたびに「すごい星空」を見上げては、そうだ星はほんとうはいつもこんなにたくさん輝いているのだという事実に気がつくのでした。
星を眺めながら寝ようと思って窓を開けてしばらく見つめていました。それで思い出したのですが、いつだったか若かった頃、やはりもっとたくさんの星を全方向から眺めたいと思って、真夜中にこっそりベランダを乗り越えて屋根の上に上がったことがあります。屋根の一番高いところではなかったので全方向というわけにはいきませんでしたが、窓から眺めるよりはずっと広い空を見ることができました。
ゆうべは月はもう沈んでしまったようでしたが、星を見たくて屋根に上った私は、その頃、月もまたよく見上げたものでした。私は昼間よりも夜の方が好きです。月の光が照らす世界には、物の形とその影しかないということに、いつかの私がどれほど癒されたかしれません。ある月の明るい真夜中に、私はこらえきれずに家を抜け出しました。集落のすぐ外にある田んぼの真ん中で、丸く明るい月を見上げたことがあります。ものすごく明るい夜で、ずっと遠くまで見通すことができました。家々や木々の形がくっきりと影の中に浮かんで見えます。何もない農道の上に、私もまたくっきりと影を落としていました。それを見たときのほっとするような、悲しいような気持ちを思い出します。私は月の光を遮って影を作ってしまうほどに確固たる存在でした。月の光を透過できたらよかったのに。けれども私と影とはその時、どうにかすれば馴染めそうな感じでしたね。色がないということに、当時の私はものすごくほっとした覚えがあります。
そんなおかしな青年時代を思い出しました。まあ、いまでもおかしいところはあまり変わってないかな。いや、でも都市部の日常のなかでは滅多にこんなことを思わないです。空が狭く夜も明るい都市部だからなのか、それとも「日常」のなかだからなのかは分かりませんが。今の私は夜のことも月や星のことも以前ほどには思わなくなってきていますが、夜が明るくても、私が見上げなくても、月も星もやっぱりちゃんとあるんだなぁ。という当たり前の結論に至って眠りにつきました。田舎の夜は静かでいい。
いまのうちに、すごい夜空を堪能しておきたいと思います。