郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

池田屋で闘死した郷土の男

2006年01月07日 | 伊予松山
池田屋で死んだ伊予松山の人、福岡祐次郎。
伊予市の福岡家の出ではないか、といった方がおられたという話は、昨日しました。
実は、自然農法で世界的にも有名な福岡正信という方が伊予市にいて、この方の家が、江戸期から続く豪農なのですね。
後に、福岡正信氏にお会いする機会がありましたので、福岡祐次郎のことも、なにげなくお聞きしてみたのですが、どうもご本人が本家筋ではないようなお話で、祖先には興味がおありじゃないようだったのです。
仕事で、自然農法の方のお話を聞きにうかがったのに、池田屋の話を延々続けるわけにもいかず、あきらめました。

思い出して、昔書いたものをさがしてみました。
福岡祐次郎についてなにか情報はないか、チラシを作って、幕末好きの方々に配ったんですよね。それに書いた詳細を、以下に記してみます。

福岡祐次郎の名前が見えるのは、『甲子殉難士録』(尊攘堂版 明治30年)と『元治甲子殉難士名録』(出版年月日不明 明治36年以降と推察)でして、長州関係者の手で出版されました。
『甲子殉難士録』には、わずかに経歴が記されています。

福岡祐次郎は伊予国松山の人なり。しきりに尊攘の義を唱え、国事多難の際長州に入り、招賢閣に在りしが、元治元年、諸有志と同く京都に上り、時務に周旋しありしが、6月5日、三条なる池田屋において幕兵のために襲はれ、闘争して死す。

『元治甲子殉難士名録』の方には、これ以上の情報は載っていません。
この『元治甲子殉難士名録』には、明治36年の贈位が載っていまして、贈位された人物については、ちゃんと身元調べができたということですから、『甲子殉難士録』に載せられた経歴が、変わっていたりすることもあるんです。
『甲子殉難士録』に「伊予松山の人」として載っていた田岡俊三郎が、『元治甲子殉難士名録』では明治36年正五位贈、小松藩士となっていまして、伊予小松藩は松山藩の隣藩ですが、どちらかといえば勤王よりの外様の小藩で、『甲子殉難士録』がまちがえていたのですね。
田岡俊三郎については、小松町史を見てみたら、ちゃんと詳しく経歴が載っていました。生野銀山挙兵に参加した沢宣嘉興の側近で、沢卿を藩内に匿っていたこともあり、結局、禁門の変において、鷹司殿門前で戦死しました。
明治36年に、福岡祐次郎が贈位されていないということは、すでにこの時点で、名乗り出る身内がいなかった、ということなのだろうか、と思ったりします。

長州防府の招賢閣は、八.一八政変によって、宮中を追われた過激攘夷派の七人の公卿が、落ち着いた場所です。
諸藩の脱藩志士たちがそのまわりにつどい、京都奪還をめざすのですが、福岡祐次郎も田岡俊三郎も、この招賢閣に足を踏み入れたわけです。
かなり大昔なんですが、招賢閣を訪れたことがあります。
ぐぐったところ、どうも現存していないようですね。そういえば、取り壊しのニュースを見たような気がします。
もう、大変でした。なにが大変って……、当時から、常時観光客に開放しているような施設ではなかったのです。
第一、場所がわかりません。たしか防府の駅前から、市の観光課だったかに電話して聞いたのですが、係の方が場所を説明してくださった後、「では鍵を持って開けに行きます」と、言われたのにはびっくり。
いえ、ご親切でした。ただ一人の観光客のために、中を案内してくださったのです。

で、池田屋の福岡祐次郎に話をもどしますと、『防長回天史』によりますと、池田屋を囲んだ中には、伊予松山藩兵がいたそうなのですね。
新撰組と戦って闘死、あるいは自刃して、池田屋の屋内に遺体が残っていたのは、七名と推測されます。しかし、遺体は樽づめにされて三縁寺に置かれ、真夏のことでしたから、すぐに身元もなにも確かめようのない状態になってしまった、といわれますのに、なぜ福岡祐次郎の名が残っているのか、といえば、池田屋を囲んでいた松山藩兵が検分したのではないか、と、推測されるのです。
藩内の人間が招賢閣に行き、京都で派手に動けば、情報を得た親藩としては、問題になることを警戒して、身元をたしかめ、後は記録を残さなかったのではないかと。
あるいは、当時あった記録を、維新に際して破棄したのかもしれないですね。昨日の罪人が今日の英雄、だったわけですから。

うちの曾祖父のそのまた父親は、明治初期あたりにどこかへ行ってしまい、そのまま行方知れずで、墓がありません。養子だったそうですが、妻と息子二人を残し、消えていなくなったんですね。
おそらく、こんな男たちは当時たくさんいて、福岡祐次郎は、一瞬とはいえ、信念に従って歴史の舞台に躍り出て、長州の人々の手で顕彰され、霊山に墓を残し、名前だけとはいえ、後世に生きた証を伝えたのでは、あるのですよね。

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