この写真は、東行記念館が所蔵していた、吉田松陰の講義録『孫子評註』の写本です。写っている指はおそらく、一坂太郎氏のものです。
きゃあー!!! 『孫子評註』だっ! わあっ!!! 撮らせてくださーい。
ってことだったと思うんです。この本の由来もちゃんとお聞きしたはずなんですが、さっぱり覚えてません。
『孫子評註』に黄色い声を上げるのもおかしなものですが、その所以はといば、私の高杉によせる思いの中心に、この『孫子評註』があったからなのです。
えーと、いくら「男は容姿だ」という信念を持った私といえども、です。容姿にのみこだわっているわけではないですし、桐野のことは別にしても、高杉晋作は、容姿ぬきに好きだったりします。
つーか、どこからどう見ても、晋作さんの容姿はよくないですよねえ。
彼らのいない靖国でも
上の記事に出てまいります、野口武彦氏の『江戸の兵学思想』(中央公論社)なんですが、たしか当時、長州の奇兵隊と明治の徴兵制の関係を考えていて、手にとってみたのだと思います。
つまり、近代国民国家と近代軍隊は不可分ですから、兵学思想をぬきにして、明治維新を考えることはできないはずなんですね。
しかし従来……、といいますか、おそらく戦後、なんでしょうけれども、歴史学にそういう発想は、ありませんでした。
あまり一般に知られてないことなのですが、吉田松陰は、もともと藩の軍学者なのです。松陰が養子に入った吉田家は、山鹿流の兵学を家学としていました。
その松陰が、ペリー来航以来の危機を目前にして、兵学的思考で孫子を読み抜き、現実に引き寄せ、近代西洋の脅威と対峙したとき、それは敵である近代西洋の兵学に通じるものとなりました。
そして、「これを亡地に投じて然る後存し、これを死地に陥れて然る後生く」という孫子の一節は、長州一国を死地に投じて日本を変革しようとする、革命思想に変じるのです。
その松陰の兵学的な革命論を、もっとも濃厚に受け継いだのが高杉晋作でした。
後の奇兵隊の発想は、松陰の思考を発展させて、生まれたものです。
松陰は自らを死地に投じ、死を目前にした牢獄から、高杉晋作に何通かの手紙を書いています。
その中で、孫子の版本の差し入れを望み、また、「久坂玄瑞に高杉へ『孫子評註』を贈るよう頼んだがどうなっているか」と気にしているんです。
野口武彦氏は、この本の最後を、以下の言葉で締めくくっておられます。
勤王思想家としての松陰は、当初から幕府打倒を叫んでいたのではなかった。
諫幕から倒幕への転換は、ほかでもない「死地」の思想戦、激烈な内面の思想闘争のはての決意だったのである。
後世、吉田松陰を精神主義にまつりあげてしまったのは、その兵学的著述などろくすっぽ読まなかった連中である。
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『孫子評註』に黄色い声を上げるのもおかしなものですが、その所以はといば、私の高杉によせる思いの中心に、この『孫子評註』があったからなのです。
えーと、いくら「男は容姿だ」という信念を持った私といえども、です。容姿にのみこだわっているわけではないですし、桐野のことは別にしても、高杉晋作は、容姿ぬきに好きだったりします。
つーか、どこからどう見ても、晋作さんの容姿はよくないですよねえ。
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上の記事に出てまいります、野口武彦氏の『江戸の兵学思想』(中央公論社)なんですが、たしか当時、長州の奇兵隊と明治の徴兵制の関係を考えていて、手にとってみたのだと思います。
つまり、近代国民国家と近代軍隊は不可分ですから、兵学思想をぬきにして、明治維新を考えることはできないはずなんですね。
しかし従来……、といいますか、おそらく戦後、なんでしょうけれども、歴史学にそういう発想は、ありませんでした。
あまり一般に知られてないことなのですが、吉田松陰は、もともと藩の軍学者なのです。松陰が養子に入った吉田家は、山鹿流の兵学を家学としていました。
その松陰が、ペリー来航以来の危機を目前にして、兵学的思考で孫子を読み抜き、現実に引き寄せ、近代西洋の脅威と対峙したとき、それは敵である近代西洋の兵学に通じるものとなりました。
そして、「これを亡地に投じて然る後存し、これを死地に陥れて然る後生く」という孫子の一節は、長州一国を死地に投じて日本を変革しようとする、革命思想に変じるのです。
その松陰の兵学的な革命論を、もっとも濃厚に受け継いだのが高杉晋作でした。
後の奇兵隊の発想は、松陰の思考を発展させて、生まれたものです。
松陰は自らを死地に投じ、死を目前にした牢獄から、高杉晋作に何通かの手紙を書いています。
その中で、孫子の版本の差し入れを望み、また、「久坂玄瑞に高杉へ『孫子評註』を贈るよう頼んだがどうなっているか」と気にしているんです。
野口武彦氏は、この本の最後を、以下の言葉で締めくくっておられます。
勤王思想家としての松陰は、当初から幕府打倒を叫んでいたのではなかった。
諫幕から倒幕への転換は、ほかでもない「死地」の思想戦、激烈な内面の思想闘争のはての決意だったのである。
後世、吉田松陰を精神主義にまつりあげてしまったのは、その兵学的著述などろくすっぽ読まなかった連中である。
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