郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

鳥羽伏見の土方歳三

2006年01月09日 | 土方歳三
山村竜也著『新撰組証言録 史談会速記録が語る真実』 PHP新書 2004年発行

この本が届きまして、さっそくとばし読みしてみました。

土方歳三のリベンジ

に書いた以下の部分の詳細が、わかりました。

いまや、戦場に取り残されようとしている炊きだし場に、ひょっこりと顔を出したのが、新撰組副長です。「お偉方はみんな引き上げたから、おまえたちも逃げろ」という土方の一言で、お握り炊き出し隊も無事引き上げることができたんですね。
これ、なにで見たのか忘れましたが、誰か体験者が語り残していることです。

あー、史談会速記録だったんですね。手持ちのなにかの本にも載っていたはずなのですが、見つけられないでいたんです。
炊きだし場の指揮をとっていたのは、幕府勘定奉行配下の役人、坂本柳佐で、そのご本人が、明治27年になって、語り残したものです。
この坂本柳佐の証言に、伏見の新撰組とともに、伝習隊半大隊がいたこともあります。

それでその時に徳川家の伝習隊というのがおよそ半大隊もおりました。その半大隊の伝習歩兵だけが役に立ったと思います。そのほかは会津藩にいたしても、桑名藩にいたしても、または見廻組におきましても、鉄砲は持っておりましたが、なきがごとくといって可なりでありました。

幕府炊きだし場から見た鳥羽伏見の戦いは、興味深いものです。野口武彦氏も、これを題材に書かれているのですが、「土方歳三のリベンジ」では、ごく簡単に略した部分を引用します。淀まで戦線が下がった時点で、炊きだし方に、「兵糧がまにあわん」という兵士の文句がくるのですね。

それから兵糧は必ず戦いをいたしまする最寄りへ置けという松平豊前守の命であった。よほど馬鹿げた話ですが、その頃の閣老の命であるから淀の町の真ん中で、兵糧を四日、五日と焚いておりました。それも始終その兵糧を焚いておりまするところへ矢丸はどんどん参りますから、焚き出しを致しまする人足が働きませんから、しまいには抜刀して刺すぞと言わば、お刺し下さいと言ってたおれてしまうような仕儀で、どうしても兵糧が間に合わんといった様な都合がござりました。
それから五日の夕、淀を引き上げまする時には、私どもが一番しまいまでそれに残っておりますると、新撰組の土方歳三という男が参って、どうも君たちここで兵糧を弄っておったところがいかんじゃないか、もう小橋も破れて味方がおらんくらいの話である、いや、しかし松平豊前守とも約束して、この地を我が死するところと覚悟したから、一歩も動かないつもりだ。なに、もはやその松平は八幡の方へ引き揚げた、これで我らも驚いて、それからすぐに金も少しありますし、兵糧もよほどござりましたから、残らず舟に積んで楠葉の入江を指して遣わしました。

坂本柳佐氏にとって、この時の土方は、とても印象深かったのでしょうね。明治27年というこの時点で、新撰組についても、好意的な見方をしています。

伏見の伝習隊については、新撰組の『島田魁日記』にも、「伏見城外江伝習第一大隊陣ス」とあって、まちがいなく、新撰組は伏見で、伝習隊とともに戦っていたのです。

土方歳三の写真に、懐中時計の鎖が見えますよね。
あれを、私は長い間、おしゃれなのか、と思っていたのですが、そうではなかったんです。
野口武彦氏によれは、征長戦の時点で、幕府の海陸軍は、西洋時間を採用していたのです。共同作戦の時など、時間を確かめるために、指揮官は時計が必要、だったんですね。


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