郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

土方歳三 函館紀行

2006年01月13日 | 土方歳三
2004年五月の旅でした。




函館、一本木にある土方歳三終焉の地の碑です。
最期の地がどこであったかについては、他に異国橋などがあげられていましたが、現在では、一本木説が有力なようです。
先に、お参りしている方がいました。時間をかけて、寄せ書きノートを読んでおられたのですけど、軽装で、市民の方のようでした。





五稜郭の大砲。土方の遺体が葬られた地として、この五稜郭がもっとも有力なのですが、すでにその場所は、まったくわからなくなっています。現代の五月の五稜郭は、藤の花に彩られ、あくまでも明るく、きれいな公園でした。





碧血碑です。函館山の山麓にあります。
「義に殉じたる武人の血は、三年たつと碧(みどり)に変わる」という中国の故事から名づけられました。
すぐ近くまでタクシーで行ったのですが、舗装道からしばらく、細いハイキング道を歩きました。熊笹や大きな蕗など、植物が本土とはちょっとちがう感じでした。
函館戦争の後、旧幕府軍の遺体は、打ち捨てられてました。
それを、市内の寺に埋葬したのは、新門辰五郎の子分だった柳川熊吉で、そのために彼は、新政府
軍に捕まって処刑されそうになった、といわれます。
各所に仮埋葬されていた遺体は、明治4年、この碧血碑の建つ場所にまとめて埋葬されたと伝えられ、ここに土方歳三も眠っている、という説もありました。
碧血碑は、大鳥圭介が中心となって建てたものです。





函館港です。遊覧船から望んだ赤レンガ倉庫街。




称名寺の土方歳三供養碑です。
称名寺は、函館戦争終結直後、旧幕府軍降伏者の収容所であり、新撰組も当初、ここに収容されていました。また遺体が仮埋葬された所でもあったのですが、明治12年の火事で焼けていて、なにもわからなくなっていたのです。函館は、火事の多い町でした。
土方歳三の故郷、日野のお寺の過去帳に、鴻池の手代が、この称名寺に歳三の墓を建立したことが見え、このことを司馬遼太郎が『燃えよ剣』で取り上げました。それで有名になり、昭和47年に、あらためてこの碑が建立されたのだそうです。

 君が夢ただよいてあり皐月浪(さつきなみ) 郎女


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コメント (8)
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