と言い残しておられるのは、勝海舟です。
昔作ったチラシを見つけて、「わたしって、いじらし~!」と勝手に思いましたのは、「桐野はバカではありません!」と、声を大にして述べていたからです。
以下、チラシに抜き書きしたものです。
勝海舟(『氷川清話』より)
(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなか俊才であった。
大隈重信(『早稲田清話』より)
西南の役に大西郷に次いでの薩摩の驍将桐野利秋、彼はすこぶる才幹の男であったが、これがやはり派手であった。身体も大きくて立派なら容貌態度ともに優れた男であったが、着物をびざまに着るようなまねはせず、それも汚れ目の見えぬきれいな物づくめであった。
市来四郎(『丁丑擾乱記』より)
桐野は廉潔剛胆百折不撓の人というべし。最も慈悲心あり。文識はなはだ乏し。自ら文盲を唱う。しかりといえども実務上すこぶる思慮深遠、有識者に勝れり。
勝海舟と大隈重信については、あまり説明する必要はないと思うのですが、ただ、明治6年政変においては、大隈は大久保利通の側について……、といいますか、大久保に使われますので、桐野とは敵対する立場にいました。
大隈は、西郷嫌いです。もっとも、大久保を好いていたかというと、『早稲田清話』の放言を見ますと、なにやら含むところがあったのでは、という気がします。
「大久保は頭のてっぺんに毛がなく、それをかくすために毎朝たっぷりと時間をかけた」だとか、戯画にしていて、これは顎で使われた恨みなんだろうか、とも思うんですが、そういえば、顎で使われたあげくに、同郷の江藤新平がかなり無惨な形で殺されていますよねえ。
勝海舟の方は、いうまでもなく西郷好きですけれどもね。
市来四郎は薩摩藩士だった人ですが、反西郷派です。反射炉の構築や薩摩切子(カットグラス)の開発を手がけた開明派で、維新後は鹿児島で事業を興していて、西南戦争には参加していません。その後、島津家の歴史編纂を手がけ、史談会発足の中心となりました。
西郷嫌いの市来四郎の桐野評は、「風雅の道を知る男」などと、絶賛に近いのです。
さらに市来四郎は、桐野は民権論者であった、と言います。
桐野は耕運を好み、自ら開拓に力を尽し、近頃しきりに民権を主張し、壮年輩を説くに民権論を以てせり。
世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり。
民権論者で、西南戦争に参加した他県人として、増田宋太郎がいます。彼は、福沢諭吉の従兄弟なんですが、桐野を訪ね、桐野の影響で民権論者となり、西南戦争に参加した、という話もあるんですね。
福沢諭吉が、「言論が閉ざされたときには武力で抗議するしかない」と、西南戦争を擁護しているのは、そういった事情もあったのではないか、と思ったりします。
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昔作ったチラシを見つけて、「わたしって、いじらし~!」と勝手に思いましたのは、「桐野はバカではありません!」と、声を大にして述べていたからです。
以下、チラシに抜き書きしたものです。
勝海舟(『氷川清話』より)
(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなか俊才であった。
大隈重信(『早稲田清話』より)
西南の役に大西郷に次いでの薩摩の驍将桐野利秋、彼はすこぶる才幹の男であったが、これがやはり派手であった。身体も大きくて立派なら容貌態度ともに優れた男であったが、着物をびざまに着るようなまねはせず、それも汚れ目の見えぬきれいな物づくめであった。
市来四郎(『丁丑擾乱記』より)
桐野は廉潔剛胆百折不撓の人というべし。最も慈悲心あり。文識はなはだ乏し。自ら文盲を唱う。しかりといえども実務上すこぶる思慮深遠、有識者に勝れり。
勝海舟と大隈重信については、あまり説明する必要はないと思うのですが、ただ、明治6年政変においては、大隈は大久保利通の側について……、といいますか、大久保に使われますので、桐野とは敵対する立場にいました。
大隈は、西郷嫌いです。もっとも、大久保を好いていたかというと、『早稲田清話』の放言を見ますと、なにやら含むところがあったのでは、という気がします。
「大久保は頭のてっぺんに毛がなく、それをかくすために毎朝たっぷりと時間をかけた」だとか、戯画にしていて、これは顎で使われた恨みなんだろうか、とも思うんですが、そういえば、顎で使われたあげくに、同郷の江藤新平がかなり無惨な形で殺されていますよねえ。
勝海舟の方は、いうまでもなく西郷好きですけれどもね。
市来四郎は薩摩藩士だった人ですが、反西郷派です。反射炉の構築や薩摩切子(カットグラス)の開発を手がけた開明派で、維新後は鹿児島で事業を興していて、西南戦争には参加していません。その後、島津家の歴史編纂を手がけ、史談会発足の中心となりました。
西郷嫌いの市来四郎の桐野評は、「風雅の道を知る男」などと、絶賛に近いのです。
さらに市来四郎は、桐野は民権論者であった、と言います。
桐野は耕運を好み、自ら開拓に力を尽し、近頃しきりに民権を主張し、壮年輩を説くに民権論を以てせり。
世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり。
民権論者で、西南戦争に参加した他県人として、増田宋太郎がいます。彼は、福沢諭吉の従兄弟なんですが、桐野を訪ね、桐野の影響で民権論者となり、西南戦争に参加した、という話もあるんですね。
福沢諭吉が、「言論が閉ざされたときには武力で抗議するしかない」と、西南戦争を擁護しているのは、そういった事情もあったのではないか、と思ったりします。
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