郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

桐野利秋と高杉晋作

2006年01月08日 | 桐野利秋
これも、昔資料をさがしていて、さっぱり見つからなかった事柄です。
出てきたチラシの中から、要点をまとめてみます。

桐野利秋、幕末の名は中村半次郎ですが、彼が、薩摩と長州の中が悪いころから、長州よりの過激尊攘派であったことは、西郷隆盛の書簡に、「中村半次郎と申す者、追々暴客の中間にも入込、長州屋敷内にも心置き無く召入り候て」と、あることから推測されます。
しかし、慶応3年、幕末も押し詰まった『京在日記』の時期まで、他人の書簡や日記に、断片的に姿を現すだけで、実像がつかみ辛いのです。

維新以降の話なのですが、桐野は、通称を、「半次郎」から「新作」に改めます。
これは、高杉晋作に心酔していたからだ、という説がありまして、傍証をさがしていたのですが、評論新聞の記事が、それにあたると思えたのです。
『評論新聞』は、桐野利秋の盟友・海老原穆(えびはらあつし)が出していた反政府民権派の新聞で、『西南記伝』によりますと、海老原は桐野の死後、その遺影を神牌として毎朝拝んでいたほどでした。
その海老原さんが出していた評論新聞の明治8年11月の紙面に、「桐野新作君は真正の憂国家にして民権連の大将軍」とあり、翌12月に「元毛利家の大元帥・高杉新作東行公は生きていた」と、あるんですね。
どちらも新作です。
高杉さんが生きていた、という奇妙な記事は、高知県のある人物が高杉に神戸で会った、という話で、高杉は「死んだふりをして実は上海に行っていた」と説明し、高知県人が「御留守中、維新以来天下方さに駿々として中郷の勢あり」というと、「高杉、大に笑いていわく、百万の蒼生、いまだ春を知らず。ともにめでたく春を見る日もまたありましょう」と、姿を消すのです。

評論新聞がこれだけ、高杉を持ち上げていたということは、桐野が高杉に心酔していた、という話は本当ではなかったか、と思うのですね。
いったい、桐野と高杉の接点は、どこにあったのか。
長州よりの過激尊攘派であった、とはいえ、薩長同盟以前の、桐野と長州人のつながりを示す資料は、出ていません。

元治元年4月16日、土佐の山本頼蔵の日記に、「当日、石清(中岡慎太郎の変名、石川清之助の略)、薩の肝付十郎、中村半次郎と逢て問答のよし。この両人、ずいぶん正義の趣なり」とあるんですが、この直前、中岡慎太郎は、高杉晋作とともに、島津久光暗殺を企てています。
ここらあたりが、一番、可能性があるかな、という感じなんです。
しかし、全集に残されている中岡慎太郎の書簡や日記では、慶応二年以降にしか、桐野の名は出てこないんですね。
後は、慶応元年3月3日、土佐脱藩の土方久元の日記に、「中村半次郎、訪。この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」と見えます。

これも、東行庵の一坂太郎氏にお訊ねして、なお資料が出なかったことなので、ほとんどあきらめてはいるのですが、もし、なにかお心当たりのことがございましたら、どうか、ご教授のほどを。

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コメント (15)
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